リッキー・ヘンダーソン

概略

国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州シカゴ
生年月日 1958年12月25日(61歳)
身長
体重
177.8 cm
88.5 kg

 

ポジションは外野手。

 

左投右打。

 

他の追随をまったく寄せ付けない盗塁数、先頭打者としての出塁率の高さなどは評価が高く、しばしば「メジャーリーグ史上最高のリードオフマン」「盗塁男(Man of Steal)」と呼ばれる。

 

タイトル

  • 盗塁王 12回:1980年 – 1986年、1988年 – 1991年、1998年

表彰

  • シーズンMVP 1回:1990年
  • シルバースラッガー賞 3回:1981年、1985年、1990年
  • ゴールドグラブ賞 1回:1981年
  • リーグチャンピオンシップシリーズMVP 1回:1989年
  • カムバック賞 1回:1999年
  • MLBオールセンチュリー・チームにノミネート:1999年
  • コミッショナー特別表彰
  • オークランド・アスレチックス永久欠番:背番号『24』

記録

  • MLBオールスターゲーム選出 10回:1980年、1982年 – 1988年、1990年、1991年

メジャー記録

  • 通算盗塁:1406(歴代1位)
  • 通算盗塁死:335(歴代1位)
  • 通算得点:2295(歴代1位)
  • 通算四球:2190(歴代2位、故意四球を除けば歴代1位)
  • 通算先頭打者本塁打:81(歴代1位)
  • シーズン最多盗塁:130(1982年)
  • シーズン最多盗塁死:42(1982年)
  • 25年連続シーズン本塁打記録(1979年 – 2003年)
  • 25年連続シーズン盗塁記録(1979年 – 2003年)
  • 4つの時代で盗塁を記録(70年代、80年代、90年代、00年代)

 

経歴

 

  • オークランド・アスレチックス (1979 – 1984)
  • ニューヨーク・ヤンキース (1985 – 1989)
  • オークランド・アスレチックス (1989 – 1993)
  • トロント・ブルージェイズ (1993)
  • オークランド・アスレチックス (1994 – 1995)
  • サンディエゴ・パドレス (1996 – 1997)
  • アナハイム・エンゼルス (1997)
  • オークランド・アスレチックス (1998)
  • ニューヨーク・メッツ (1999 – 2000)
  • シアトル・マリナーズ (2000)
  • サンディエゴ・パドレス (2001)
  • ボストン・レッドソックス (2002)
  • ロサンゼルス・ドジャース (2003)
  • ニューアーク・ベアーズ (2003 – 2004)
  • サンディエゴ・サーフドーグス (2005)

 

1976年にオークランド・アスレチックスからドラフト4巡目指名を受け入団。

 

3年間マイナーリーグでプレーし、1977年にはマイナーリーグタイ記録の1試合7盗塁を記録。

 

そして1979年6月24日に1番レフトでメジャーデビューを果たし、メジャー初打席で二塁打。

 

第二打席でシングルヒットを打ち、初盗塁を決めた。

 

ルーキーイヤーはリーグ7位の33盗塁を記録した。

 

翌シーズン、アメリカンリーグ新記録となる100盗塁で盗塁王を獲得して以降、1980年から1986年にかけて7年連続盗塁王に輝いた。

 

特に1982年には現在もMLB記録として残る130盗塁という大記録を達成。

 

1991年5月1日にそれまでのMLBの通算盗塁記録であったルー・ブロックの938盗塁を破る939盗塁を記録。

 

1993年に福本豊の盗塁世界記録を破る1066盗塁を記録。

 

1979年から2003年までの25シーズンでMLB9球団でプレーし、MLB歴代1位の通算1406盗塁を記録した。

 

2004年は独立リーグアトランティックリーグのニューアーク・ベアーズで、2005年は独立リーグゴールデンベースボールリーグのサンディエゴ・サーフドーグスでプレーした。

エピソード

ヘンダーソンから「ナンバーワン・ファン」と認められた白人少女、エリン・ステーツが球場で観戦を開始したのは彼女が5歳の時、1989年だった。

 

この年の6月22日に両親がオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムの左翼席のシーズン席を購入してエリンを初めてMLBの試合に連れて行った。

 

その日はちょうどヘンダーソンがヤンキースからトレードされて、古巣のアスレチックスに復帰した日でもあった。

 

左翼手として守備位置につくヘンダーソンに「ハーイ、リッキー」と声を張り上げたが、彼の耳には届かなかった。

 

そこで次に観戦した時にチームカラーの黄色のボードに「ハーイ、リッキー」と書き込んで高く掲げた。

 

これはヘンダーソンの目にとまり、守備位置につくたびに手を振り、試合終了後にはボールまでプレゼントした。

 

エリン手作りのプラカードは20枚ぐらいあり、プレーごとに「ナイス・プレー」「グレート・ホームラン」などの祝福のメッセージを出した。

 

その中でヘンダーソンの一番のお気に入りは「クール・デュード(クールな洒落者)」だった。

 

1992年に出版されたヘンダーソンの自伝にもエリンのことが触れられている。

 

しかし、1993年7月31日にブルージェイズがヘンダーソンを獲得し、2人の友情に別れが訪れそうになった。

 

地元紙に掲載されたエリンの「リッキーにサヨナラを言うチャンスすら無かった」というメッセージは直ぐに全米中に報道され、知れ渡った。

 

「私には契約とかトレードのことはよく分からない。私はリッキーが幾らお金を貰っているのかも知らない。私はまだ子供だから、そんな事には興味が無いの。私が興味があるのは彼のプレーだけ。ママに私の部屋のポスターや写真を外してくれるように頼んだわ。観るのがとても辛いから。『時間が経ったらそんなに辛くならなくなって、彼の名前を聞いても泣かなくてすむようになるわ』とママが言ってくれたけど。もしリッキーに会う人がいたら、彼にオークランド・コロシアムの左翼席でボードを持っていた少女が会えなくて寂しがっていると伝えてくれないかしら。そして、私がサヨナラと言っていたと伝えて。私にはサヨナラを言うチャンスも無かったの」

 

このエリンの手紙は直ぐにトロントにも配信され、手紙を読んだヘンダーソンも思わず涙ぐんだという。

 

2人が再会したのはブルージェイズがオークランドに遠征した時で、全米中から報道陣が殺到した。

 

ヘンダーソンがむせび泣くエリンを抱きしめている写真の説明には「嘘だと言って、リッキー」とある。

 

この話にいたく感動した航空会社の総支配人がエリンとその両親を1993年10月3日のブルージェイズの試合に招待した。

 

この年のオフにヘンダーソンはアスレチックスに復帰。

 

1996年にパドレスへ移籍すると、パドレスは開幕戦でエリンに「1番レフト、ヘンダーソン」の場内アナウンスを担当させた。

 

将来の夢はスポーツキャスターというエリンはその後もヘンダーソンの誕生日には必ず電話を入れていたという。

プレースタイル

MLB通算2295得点、1406盗塁、通算盗塁王12回はいずれも史上最多。

 

1982年、アスレチックス在籍時に記録したシーズン130盗塁記録は未だ破られていない。

 

一方、通算335盗塁死、シーズン42盗塁死の記録の持ち主でもある。

 

彼が誰よりも走った選手であった事の裏返しであろう。

 

ただ通算盗塁成功率は80%を超えており、これは非常に高い水準である。

 

かつて6度の盗塁王に輝いた実績を誇るモーリー・ウィルスは、「リッキーは偉大なスティーラー(盗塁を武器とする選手)に成り得るための理想的な気質を持っていた」とメンタルの重要性を説いている。

 

「リッキーは確かに突出したスピードとクイックネス(初動の速さ、投球モーションを盗むスキル)を兼ね備えてはいた、しかし純粋なスピードだけなら彼よりも速い選手は沢山居ることもまた事実だ」と述べ、大きな重圧のかかる実戦でスタートを切るためには、何よりも勇気と覚悟が必要だと力説する。

 

「失敗を恐れてはいけない、数千数万の大観衆、あるいはテレビ視聴者が見ている前で喜んで盗塁死するくらいの図太さ・図々しさが必要なんだ、彼はスピードとクイックネスを最大限有効活用するのに最適な気質を持ち合わせていたのさ」と結んでいる。

 

1試合最多盗塁は1989年7月29日のシアトル・マリナーズ戦で記録した5盗塁(投手:ランディ・ジョンソン)。

 

1試合4盗塁は18回記録している。

 

1970年代・80年代・90年代・2000年代の4つの年代に渡って盗塁を記録した。

 

4つの年代に渡って盗塁を記録したのは、リッキー・ヘンダーソン、ティム・レインズ、テッド・ウィリアムズの3人のみ。

 

40歳を過ぎてもリーグトップクラスの盗塁数を維持し、40代でシーズン30盗塁以上を2回、20盗塁以上を3回記録している(いずれも史上唯一)。

 

通算先頭打者本塁打81本(25年連続で記録)も史上1位である。

 

1993年には、ダブルヘッダーの両方の試合で先頭打者本塁打を打つという、1913年のハリー・フーパー以来の80年ぶりとなる記録も作った。

 

また、バリー・ボンズには破られたが、通算2190四球はMLB歴代2位の記録。

 

ただし、ボンズの四球に敬遠が多く含まれており(2007年終了時点でボンズは2558四球のうち敬遠と記録されたものが688個、ヘンダーソンは2190四球のうちわずか61個)、対してヘンダーソンが中軸ではなく出塁させることが守備側にとって不利になる先頭打者であることを考慮に入れると、自力で奪い取った四球の数は実質的にトップだと言える。

 

選球眼の高さがわかる。

 

メジャー通算での出塁率は4割を超えている。

 

盗塁の数字の突出度に関しては言うまでもないが、ベーブ・ルースの通算2062四球、タイ・カッブの通算2246得点と、2人の偉大な選手のメジャー通算記録を塗り替えた。

 

長らくアンタッチャブルであった記録を破ったことの意義は非常に大きい。

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