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ルー・ゲーリッグ

野球

概略

Lou Gehrig – The Iron Horse
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
生年月日 1903年6月19日
没年月日 1941年6月2日(37歳没)
身長
体重
6′ 0″ =約182.9 cm
200 lb =約90.7 kg

 

ポジションは一塁手(ファースト)。

 

左投左打。

 

1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキースで活躍した。

 

三冠王をはじめ、打撃タイトルを多数獲得し、史上最高の一塁手と称される。

 

ゲーリッグは毎日プレーを厭わないその頑丈さから鉄の馬(Iron Horse)と呼ばれ、1925年から1939年の14年間に渡り、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たした。

 

しかし、1939年、体調異変を感じて自ら欠場を申し入れ、記録は途切れた。

 

後の診断で筋萎縮性側索硬化症と診断されたゲーリッグは引退を決意した(この病気は「ルー・ゲーリッグ病」と称されることもある)。

 

ゲーリッグが現役生活の晩年に手のレントゲン撮影を行ったところ、手だけで17もの骨折箇所が見つかった。

 

連続出場はこれほどまでに身体に負担を強いており、筋萎縮性側索硬化症の発症がなくても、遠からずその記録は途切れていただろうと推察される。

 

記録のためにただ出場を続けていたわけではなく、MLB史上に残る非常に優れた打者でもあった。

 

17年間で2000近い打点を挙げ、生涯打率は.340(歴代17位)。

 

通算の長打率とOPSは歴代3位、出塁率でも歴代5位の.447と、打席に立てばほぼ2回に1回は塁に出た。オールスターに7回選ばれ(オールスターは1933年が初開催)、1927年と1936年にはアメリカンリーグMVPを受賞、1934年には三冠王を獲得している。

 

1939年に当時史上最年少で殿堂入りを果たし、MLB史上初めて自身の背番号「4」が永久欠番に指定された選手にもなった。

 

ゲーリッグは1941年6月2日に37歳の若さで亡くなり、翌1942年にゲーリッグの半生を描いた『打撃王』が公開された。

 

ゲーリッグの連続試合出場記録は当初不滅の記録と思われていたが、1987年6月13日、日本の衣笠祥雄(広島)に更新され、MLBでは1995年9月6日にカル・リプケン・ジュニア(ボルチモア・オリオールズ)によって更新された。

 

その他のニックネームには”Columbia Lou“、”Biscut pants“、”Larrupin’ Lou“というものがあった。

 

タイトル 

  • 首位打者 1回:1934年
  • 本塁打王 3回:1931年、1934年、1936年
  • 打点王 5回:1927年、1928年、1930年、1931年、1934年

表彰 

  • シーズンMVP 2回:1927年、1936年
  • 三冠王:1回:1934年
  • MLBオールスターゲーム選出 7回:1933年 – 1939年
  • 満塁本塁打数歴代2位(23本)

 

経歴

[MLB]ルーゲーリッグ病鉄人ルー・ゲーリッグ全ストーリー
  • ニューヨーク・ヤンキース (1923 – 1939)

 

1923年の途中からヤンキースの一員となり、同年6月15日には代打としてメジャーデビューを果たす。

 

最初の2年間は出場機会も限られており、1923年のワールドシリーズのメンバーには登録されなかった。

 

当時の看板選手であるベーブ・ルースの直接指導の甲斐もあって1925年にはレギュラーに定着し、437打席で打率.295、20本塁打68打点を挙げた。

 

翌1926年に主力打者として大きく開花し、打率.313に47本の二塁打と、アメリカンリーグでトップの20三塁打、16本塁打、112打点を挙げた。

 

セントルイス・カージナルスと対戦した同年のワールドシリーズでは打率.348で4打点を挙げるものの、ヤンキースは3勝4敗に終わり、世界一にはあと一歩届かなかった。

 

1927年は記録的な年であった。打率.373、47本塁打175打点に218安打を挙げ、この年の一シーズン117長打はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位であり、また447塁打も歴代3位の数字である。

 

ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」と呼ばれ、この強力打線を武器にヤンキースは110勝44敗の成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズも4連勝で制覇。

 

この年のヤンキースがMLB歴代最強のチームだったとする評価も多い。

 

シーズン60本塁打を放ったルースを差し置いて、ゲーリッグはア・リーグの年間MVPに選出された(ちなみにゲーリッグとルースの2人でこの年のア・リーグの全本塁打439本の1/4近くを叩き出している。また、この年のア・リーグの本塁打ランキングでルース、ゲーリッグに続いたのが18本のトニー・ラゼリであり、ゲーリッグがルースと並ぶ傑出した長打力の持ち主であることは間違いなかった)。

 

ルースの陰に隠れがちではあったが、ゲーリッグの得点能力は球史でも随一のものだった。

 

本塁打王に3回、打点王に5回輝き、打率.350以上6回、150打点以上8回、100四球以上11回、200安打以上8回、そして40本塁打以上が5回もあった。

 

1931年の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。

 

1934年には三冠王も獲得している。

 

アイアン・ホース」「静かなる英雄」と呼ばれ、陽気なルースに対して物静かなゲーリッグと好対照でよく比較された。

 

1938年シーズンの半ばから、ゲーリッグの成績は段々と下降線をたどり始める。

 

ゲーリッグは次第に弱々しくなっていき、ロッカールームやフィールド上でさえ突然倒れてしまうこともあった。

 

ほとんどの記者やファンは連続試合出場による疲れだと信じていた。

 

35歳になってはいたが、周りのチームメイトはまだまだ限界ではないと思っていた。

 

少なくともゲーリッグの1938年の成績は打率.295、29本塁打、114打点とリーグ平均を遥かに上回っており、ルースの引退間際の成績さえ大きくしのいでいた。

 

ただ、親友でもあったビル・ディッキーはゲーリッグの異変に気づいており、ある日ケチャップのボトルを持ち上げられず、代わりにディッキーが取り上げてやったエピソードが残っている。

 

1938年の暮れになると、道路のわずかな段差でも頻繁につまずくようになり、得意だったアイススケートでも頻繁に転ぶようになった。

 

シーズン終了後、ゲーリッグはニューヨークの専門家に話を聞きに行ったところ、胆嚢に問題があるという専門家の診断を受けた。

 

1939年のスプリングトレーニングが開幕しても、ゲーリッグの気力が回復することはなく、例年通りに激しいトレーニングを行って心を奮い立たせようとしても、状況は改善されなかった。

 

同年のゲーリッグの成績は自己最低の34打席4安打1打点、打率.143であった。

 

さらには走塁面でもキャリアを通じて積極的な走者であったゲーリッグだったが、同年には筋肉のコントロールを失いつつあり走ることさえ困難となっていた。

 

2130試合目の連続出場となった1939年4月30日のワシントン・セネターズ戦では無安打に終わった。

 

この試合で普通のゴロを捕り、一塁ベースに入った投手ジョニー・マーフィーにトスしてアウトにしたが、これを見た二塁手のジョー・ゴードン、捕手のビル・ディッキーが口々にゲーリッグにナイスプレーと言って元気づけた。

 

ごく当たり前のプレーなのにと感じたゲーリッグは引退の潮時とばかり、2日後の5月2日に自ら監督のもとに出向き「俺は下がるよ、ジョー」と伝えた。

 

マッカーシーはこれを承諾し、代わりにエルスワース・ダールグレンを一塁手として起用。

 

ゲーリッグには、もし出たくなったらいつでも出すと伝えた。

 

責任審判にその日のラインアップ表を渡したのもゲーリッグ自身であったが、この日で彼の14年間に及ぶ大記録は終わり、試合前にヤンキー・スタジアムのアナウンサーは「皆さん、これは2130試合ぶりにルー・ゲーリッグが試合に出ない日です」と述べた。

 

デトロイトの観客はベンチにいるゲーリッグにスタンディングオベーションで大記録の終焉を称え、ゲーリッグ本人は涙を浮かべた。

エピソード

2014MLB91 「7月4日」の歴史的スピーチ

1939年7月4日のセネターズとのダブルヘッダーで、ヤンキースはルー・ゲーリッグ感謝デーを制定し、メジャー他チームを含む多数の人々がゲーリッグを祝福しに訪れた。

 

ゲーリッグが初めて勝った1927年のワールドシリーズ制覇の記念旗が掲げられ、当時のナインもゲーリッグのために式典に訪れた。

 

ニューヨーク市長フィオーレロ・ラガーディアも訪れ、当時現役を引退していたベーブ・ルースもスピーカーとして招かれた。

 

ゲーリッグの成績上昇期はちょうどルースの下降期と重なったため、ルースはゲーリッグの連続出場記録を皮肉って、たまには休んだり釣りに行った方がいいんじゃないかと記者に述べる事もあった。

 

しかしこの日のスピーチでは、皮肉ではなく、心から一緒に釣りに行きたいと述べ、ライバルを称えた。

 

2人がこのように親密さを示したのは、ゲーリッグの妻がルースと関係を持っていると一部メディアで報じられて以来初めてだった。

 

また、マッカーシー監督はスピーチをしたら泣き出してしまいそうだと述べ、なかなかこの依頼を受けようとはしなかった。

 

結果的にマッカーシー監督はゲーリッグについて「野球人、スポーツマン、そして一般市民としての素晴らしい例であり、野球というスポーツが出会った最良の人材である」と述べ、その後ゲーリッグに「ルー、君が『チームに迷惑をかけるので辞めます』と言いにきたあの日の悲しいデトロイトでの夜が、俺の人生の中で最も悲しい日のうちの一つだった。他に何が言えるかい?」と泣き顔で振り返った。

 

ヤンキースはゲーリッグの背番号「4」をMLB史上初の永久欠番に指定。

 

背番号制が導入されたのがゲーリッグのキャリア開始後の1929年であったため、彼の他にヤンキースで背番号4を付けた選手はいない。

 

この日ゲーリッグはさまざまなVIPやスタジアムのグラウンドキーパー、用務員などからも贈り物をもらい、球団は銀のトロフィーをプレゼントした。

 

式典の後、この日の担当者マーサーはゲーリッグが泣き崩れているのを見て、「今日はゲーリッグにスピーチをしてくれとは言わないことにします。そうしない方が良いと思います」と述べ、マイクを片付けた。

 

ゲーリッグもマッカーシーとフィールドを去っていったが、観客からゲーリッグコールが湧き上がり、本人もフィールドに戻りスピーチを始めた。

 

ゲーリッグは歴史に残る名スピーチを行った。

 

観客は立ち上がり、約2分間スタンディングオベーションが続いた。ゲーリッグはマイクから離れて大きくよろけ、頬から流れる涙をハンカチでふき取った。

 

球場内で「あなたを心から愛してる」が演奏され、聴衆が「ルー、私たちはあなたを愛してます」と歌詞を替えて歌う間、ルースはゲーリッグにかけ寄り、彼を優しく抱きしめた。

 

翌日の『ニューヨーク・タイムズ』は「今まで野球場で見た光景の中で最も感動した場面の一つ」と報道し、ハードボイルドで知られた非情な記者たちさえも「懸命に涙をこらえていた」と伝えた。

 

ダブルヘッダーの第2試合が終了してビル・ディッキーと一緒にヤンキー・スタジアムを後にしたゲーリッグは彼の親友にはっきりとした口調で「ビル、今日のことはずっと先まで覚えておくつもりだ」と語った

 

ジョー・ディマジオは野球場で二度涙を流したが、最初に泣いたのがこのゲーリッグのイベントであった(二度目は1949年10月1日のジョー・ディマジオ感謝デー)。

 

テレビが普及していなかったこの時代、「私はこの世で最も幸せな男です」というセリフは3年後に公開された映画『打撃王』で広く知られた。

 

このセリフはアメリカ映画協会(AFI)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として選定した『アメリカ映画の名セリフベスト100』の38位に選ばれた。

 

しかし映画と実際のスピーチには異なる点があり、語られた元オーナーやGM、また球団の裏方、相手チームへの感謝が削られ、代わりに新聞記者への感謝が加わっている。

 

また、「最も幸せな男」をゲーリッグは最初に語っているが、映画では最後に語るよう変えられている。

 

プレースタイル

Lou Gehrig – The Pride of the Yankees
通算安打はNYY史上2位の2721安打、本塁打493本、打点1995(歴代5位)を記録しました。
通算17年間プレーしましたが、最初の2年と最後の年は最高で13試合しかプレーしておらず実質は14年です。
試合数もたったの2164試合でした。
MVP2度、三冠王1度、首位打者1度、本塁打王3度、打点王5度、WARトップ3回とルースとプレーしたものの素晴らしい成績を残しています。
通算OPSは歴代3位の1.080で通算打率も.340と高数字です。
満塁ホームランもA・ロッドと並ぶ歴代一位の23本。
シーズン184打点はア・リーグ記録。
実質14年とは思えない通算成績でした。
でもやはり、1番有名な記録は2130試合連続出場!
偉大な記録です。
当時ではトップクラスの四球の多さで100個以上を11度記録していました。
選球眼が良かったんでしょう。
守備はトップクラスではなかったようで、盗塁も少ないです。
ただ、性格は良くフェアプレーをして紳士的な選手だたそうです。
WS優勝を8度も経験しWS通算OPSは驚異的な1.208!
ルース引退後まで、強豪ヤンキースを支えた名選手でした。

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