概略
国籍 | ![]() ![]() (二重国籍) |
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出身地 | ![]() サントドミンゴ |
生年月日 | 1980年1月16日(40歳) |
身長 体重 |
190.5 cm 106.6 kg |
ポジションは一塁手(ファースト)。
右投右打。
MLBにおける最高の打者の1人で、2001年のデビュー以降、2010年まで打率.300・30本塁打・100打点を10年連続で達成した。
アメリカ合衆国外出身選手最多本塁打記録保持者。
打撃面において長年に渡り大きな活躍をしており、現役選手であるが将来の野球殿堂入りが確実視されている数少ない選手の一人である。
2013年1月5日にはCBSスポーツ電子版が「現役選手で殿堂入りが確実な5人」を特集し、デレク・ジーター、マリアノ・リベラ、イチロー、ジム・トーミの4人とともにプホルスの名前が挙げられた。
2009年シーズン終了後、2000年代を代表する選手として各種メディアから表彰を受けている。
The Sporting Newsから“MLB Athlete of the Decade”に、ESPNとスポーツ・イラストレイテッドから“Player of the Decade”に選出された。
2012年にミゲル・カブレラがMLB史上45年ぶりの三冠王を獲得するまでは三冠王にもっとも近い男と言われていた。
日本語では「プホルズ、プーホルス、プホールス、プーホールス、プーホールズ」など様々な表記がされるが、アメリカ現地の英語読みでもプーホウズ(poo-hohs)、プーホウルズ(Poo-holes)など様々で、スペイン語の読みではプホルス(Pujols)が近い。
タイトル
- 首位打者:1回(2003年)
- 本塁打王:2回(2009年、2010年)
- 打点王:1回(2010年)
表彰
- 新人王(2001年)
- シルバースラッガー賞:6回
- 三塁手部門:1回(2001年)
- 外野手部門:1回(2003年)
- 一塁手部門:4回(2004年、2008年 – 2010年)※ポジション別最多タイ記録
- ゴールドグラブ賞(一塁手部門):2回(2006年、2010年)
- ハンク・アーロン賞:2回(2003年、2009年)
- ロベルト・クレメンテ賞:1回(2008年)
- ルー・ゲーリッグ賞:1回(2009年)
- ハート&ハッスル賞:1回(2009年)
- フィールディング・バイブル・アワード(一塁手部門):5回(2006年 – 2009年、2011年)
- ナ・リーグ年間MVP:3回(2005年、2008年 – 2009年)
- ナ・リーグ月間新人MVP:2回(2001年4月・5月)
- ナ・リーグ月間MVP:6回(2003年5月・6月、2006年4月、2009年4月・6月、2010年8月)
- ナ・リーグチャンピオンシップシリーズMVP:1回(2004年)
- プレイヤーズ・チョイス・アワーズ
- 年間最優秀選手:3回(2003年、2008年 – 2009年)
- マービン・ミラー・マン・オブ・ザ・イヤー:1回(2006年)
- 優秀選手:3回(2003年、2008年 – 2009年)
- 優秀新人(2001年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:11回(2001年、2003年 – 2011年、2015年)
- 通算併殺打数:MLB歴代1位、※更新中
- 3000安打&600本塁打&2000打点 ※史上3人目
- 650本塁打&650二塁打 ※史上初
経歴
- セントルイス・カージナルス (2001 – 2011)
- ロサンゼルス・エンゼルス (2012 – )
代表チーム | ![]() |
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WBC | 2006年 |
1999年6月2日のMLBドラフトでセントルイス・カージナルスから13巡目(全体402位)で指名を受ける。
しかし入団交渉でカージナルスが提示した契約金の額10,000ドルを不服としたプホルスは、その後の大学での試合で活躍し、提示額を60,000ドルまで引き上げさせた。
こうして8月17日に入団契約を交わしてプロ入りした。
プロ1年目の2000年はマイナーリーグA級ピオリアで開幕を迎え、AAA級メンフィスに昇格。
3クラス合計で打率.314・19本塁打・96打点という成績を残し、球団のマイナー最優秀選手として表彰された。
開幕戦に6番・左翼で出場しメジャーデビューを果たす。
その後、三塁のレギュラーと目されていたボビー・ボニーヤが故障したため三塁に入り、更に右翼・一塁と様々なポジションに就きながらも、1試合に欠場したのみで、打率.329・37本塁打・130打点という新人離れした成績を挙げた。
シーズン終了後にはナ・リーグ新人王を満票で受賞し(史上9人目)、MVP投票でも4位に入った。
三塁手部門でシルバースラッガー賞も受賞しているが、三塁手として先発出場したのは約50試合で、一塁手・左翼手・右翼手としてもそれぞれ約35試合ずつ先発出場している。
2002年は主に左翼で出場し、打率.314・34本塁打・127打点を記録し、MLB史上初のデビュー年から2年連続で3割・30本塁打・100打点を達成。
MVP投票ではバリー・ボンズに次ぐ2位となる。
2003年には打率.359・212安打を記録し、自身初の打撃タイトルとなる首位打者・最多安打を獲得した。
95長打・51二塁打でもリーグ1位となった他、本塁打は自己最多の43本を放ち、1922年のロジャース・ホーンスビー以来となる球団史上2人目の40本塁打・200安打を達成した。
MVP投票ではまたもボンズに次ぐ2位だったが、この活躍を受けて球団は翌2004年のシーズン開幕前に、7年1億ドルの契約を結んでいる。
2004年から本格的に一塁手へ転向。打撃では史上12人・15回しか達成していないシーズン100長打にあと1本まで迫り、46本塁打(リーグ2位)・123打点(同3位)を記録した。
またチームメイトのスコット・ローレンとジム・エドモンズもシーズン30本塁打を達成し、”MV3″ と呼ばれる球団史上屈指の強力打線を形成した。
2005年はプホルスの後を打つ4番打者のローレンが故障で離脱し、ラリー・ウォーカーやレジー・サンダースがその代わりを務めることに。
しかし2人とも峠をすぎていて、プホルスが勝負を避けられるケースが増え、結果としてプホルスの四球は自己最多の97を記録した。
踵を痛め1試合欠場しただけで、打撃3部門では打率.330・41本塁打・117打点を記録。
プホルスのデビュー年以来4年連続でMVPを受賞していたボンズがこの年は故障でシーズンを棒に振っていたこともあり、プホルスは本塁打王のアンドリュー・ジョーンズや首位打者のデレク・リーを抑え、初のMVPを受賞した。
2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のドミニカ共和国代表に選出された。
シーズンは序盤から例を見ない勢いで本塁打・打点を量産し、5月終了時点で打率.315・25本塁打・65打点という成績を残す。
これは年間75本塁打・200打点のペースで、ボンズのシーズン本塁打記録73をプホルスが上回るのではとの声も上がった。
ステロイド疑惑と無縁のプホルスの本塁打量産は好意的に受け入れられていた。
その後、シーズン開幕前から抱えていた腰痛が悪化。
6月4日に故障者リスト入りし22日まで休養したため、記録更新はお預けとなった。
しかしこの年は打率.331・本塁打49・打点137という成績を残し、本塁打と打点は自己最多を記録した。
また、カージナルスがワールドシリーズで優勝し、自身初のワールドシリーズ優勝を経験した。
2007年はシーズン序盤の打撃不振やシーズン終盤の左ふくらはぎ痛がたたり、打率.327・32本塁打・103打点といずれも自身の平均を下回る成績となった。
2008年は一時戦列を離れたこともあったものの、リーグ2位となる打率.357に加え、37本塁打・116打点を記録。
カージナルスは地区4位に終わったが、プホルスは本塁打・打点の二冠王のライアン・ハワードを抑え、2005年以来2度目のMVPを受賞している。
2009年開幕前に開催された第2回WBCのドミニカ共和国代表は、右肘を手術したため辞退している。
しかし、レギュラーシーズンでは序盤から本塁打を量産。
6月を終了した時点で打率.332・30本塁打・77打点を記録し、6月終了時点で30本塁打はMLB史上10人目の快挙。
しかし、6月30日の試合後の会見でプホルスは「傲慢に聞こえるのを承知で言うけど、2006年の最初の2か月の方が凄かった。30本塁打だか何だか知らないけど、あの当時みたいな凄さはまだないんだ」と語っている。
地元セントルイス開催となったオールスターのファン投票では、ケン・グリフィー・ジュニアに次いで歴代2位となる5,397,374票を集めた。
オールスター試合前、米大統領のバラク・オバマが始球式を務め、プホルスは捕手を務めた。
試合では3打数無安打に終わった。
後半はややペースが落ちたが、自身初となる本塁打王を獲得。
本塁打(47)以外にも得点(124)、出塁率(.443)、長打率(.658)、塁打数(374)、敬遠数(44、歴代5位)と数多くの項目でリーグトップに立った。
デビュー以来続けている打率.300・30本塁打・100打点も9年連続まで伸ばし、ルー・ゲーリッグと並ぶMLBタイ記録となった。
2年連続、通算3度目となるMVPも獲得。
1位票を全て集める満票での受賞で、これは2002年のバリー・ボンズ以来7年ぶり、歴代15人目の快挙だった。
また通算3度の受賞はボンズに次いで歴代2位タイとなった。
2010年は開幕戦(シンシナティ・レッズ戦)で5打数4安打2本塁打3打点という最高の滑り出しを見せると、2003年以来続けているオールスターメンバー選出も果たした(結果は2打数ノーヒット)。
8月15日のシカゴ・カブス戦でシーズン30号本塁打を放ち、メジャーデビューから10年連続でのシーズン30本塁打以上を達成。
その11日後、8月26日のワシントン・ナショナルズ戦で放ったシーズン34号本塁打は、ニューヨーク・ヤンキースのアレックス・ロドリゲス、このシーズン途中にシアトル・マリナーズで引退したケン・グリフィー・ジュニアに次ぐMLB史上3番目のスピードでの通算400号本塁打であった。
更には9月11日のアトランタ・ブレーブス戦で3打点を記録したことにより、シーズン100打点以上も10年連続での達成となった。
最終的にシーズンを打率.312で終了し、10年連続での3割30本100打点の記録達成となった。
同時に42本、118打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得。
115得点、38敬遠は両リーグ1位を記録した。
2011年2月16日、カージナルスはプホルスに9年1億9500万ドルでの契約延長を持ちかけたが、プホルスが10年契約を希望したため、合意には至らなかった。
春季キャンプが始まるまでに合意できなかった場合は、プレーに専念するためにフリーエージェントとなる今季終了後まで交渉しないことを表明した。同年6月19日、ロイヤルズ戦で二塁手からの送球を捕球する際に打者走者と交錯し、左前腕の橈骨(とうこつ)を亀裂骨折した。
前半戦に不調に陥ったことや、故障の影響で出場試合数が減ったこともあり、シーズン成績は打率.299、37本、99打点と自己最低に終わった。
打率3割・100打点をあと一歩のところで逃し、連続記録は途絶えた。
レンジャーズとのワールドシリーズでは第3戦に3打席連続本塁打を記録。
1977年のレジー・ジャクソン以来、34年ぶりの快挙だった。
チームは優勝し、プホルスは2個目のチャンピオンリングを手にした。
2011年12月7日にロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと10年総額2億5400万ドル(出来高を含むと最大で2億8000万ドル)の契約に合意した。
2012年は開幕から打撃不振で、4月は本塁打0に終わる。
5月6日にようやく移籍第1号を放ったが、5月14日まで打率2割に届かない状態が続いた。
特に四球率の低下が顕著で、「本当は35,6歳なのではないか」という年齢詐称疑惑が再燃。
もはやMLB最強の打者ではなくなったという厳しい声も上がり始めた。
その後は復調し、最終的に12年連続となる30本塁打に到達し、2年ぶり11度目の100打点もクリアした。
しかし、OPSは12年目で初めて.900を切り、本塁打数も30本塁打にとどまった。
オフに右膝の手術を受けた。
2013年は左足に不安を抱えたまま開幕を迎え、前年同様の打撃不振に苦しむ。
怪我をかばって出場を続けていたが、7月28日に左足裏筋膜部分断裂でDL入りした。
8月下旬にシーズン中の復帰を断念したことでデビュー以来続いていたシーズン30本塁打は12年で途切れた。
その後全盛期のような活躍はないまでも記録を更新し続けて2019年に現役引退をした。
エピソード
敬虔なキリスト教徒として知られ、本人は「社会的規範」になることを目指している。
チャリティ活動に熱心で、特にダウン症児とその家族の支援に力を注いでいる。
というのも、2000年1月1日に結婚したデイドル夫人の連れ子である娘のイザベラがダウン症児であるためである。
2005年、プホルス一家はダウン症児とその家族の生活を支援するための基金を設立した。
それらの支援活動が高く評価され、2008年10月25日、ロベルト・クレメンテ賞がプホルスに贈られることがメジャーリーグベースボール機構より発表された。
デビュー当時から年齢詐称疑惑が報じられている。「米国への移住時に問題なく高校へ入れるようにするため実際より4年(またはそれ以上)若くなるよう詐称した」というもの。
本人は「何歳かは自分が一番よく知っているよ」と否定している。
また、デビュー当初からのハイレベルな成績や筋骨隆々の体格、さらにドミニカ共和国出身の選手に薬物使用が多いことなどから、プホルスについてもしばしば薬物使用が噂になる。
2009年になってアレックス・ロドリゲスやマニー・ラミレスといった強打者の薬物使用が発覚したこともあり、プホルスを疑う者も少なからず存在する。
しかし、プホルス本人はステロイド使用の疑いに対して不快感を露にしており、「昨年は6回検査を受けた。それで不十分だと言うならば毎日だって検査を受ける。もし検査で陽性反応が出た場合、これまで稼いだ年俸の全てを球団に返上する」とまで発言して、ステロイドに対して極めて厳格な姿勢をとっている。
しかし、現在のところ使用した証拠は何ら存在せず、憶測で疑われているのみである。
一般的にはクリーンな選手として評価されているため、将来の野球殿堂入りが確実視されている。
ラッパーのワーレイがリック・ロスとファボラスをフィーチャーした、プホルスをテーマとする楽曲がある。
タイトルは、そのまま“Albert Pujols”。
プレースタイル
打撃
足を大きく広げたスタンスで60パーセントの体重を軸足に残し、バットを上下に動かす独特のフォームが特徴であるが、そのスイングは「理想の体現」とも表現され、2006年5月22日付のスポーツ・イラストレイテッド誌では “A swing of beauty” と紹介された。
スイングのスピードは速いが、そのスピードのせいで引っ張る打撃中心となることを嫌っているため、右投手に対して32 1/2オンス(約921.4グラム)のバットを使うのに対し、見極め時間が長くなる左投手に対しては33オンス(約935.5グラム)と重めのバットを選んで故意にスイングスピードを下げている。
そのため、反対方向への強い打球も目立つが基本的にプルヒッターであるため、移籍した2012年以降は広い本拠地球場のせいか逆方向への本塁打はまだ打てていない。
また、球界でシフトによる対策が広まり、膝の故障で走力を下げたエンゼルス移籍以降は守備陣を三塁側に固めるシフトを敷かれるケースが多くなっている。
現在は主にマルッチ社のロックメイプルバットを使用している。
選球眼が良いことやバットコントロールに優れることから、四球数が多い一方で三振数は少ない。
2006年から4年連続で BB/SO (四球数/三振数)の値が両リーグ1位である。
また、2006年は49本塁打に対し三振数が50であったが、40本塁打以上で三振数が本塁打数を下回った打者は、当時の直近50年間でも2004年のバリー・ボンズのみで、プホルスはこれにあと一歩まで迫った。
新時代の三冠王とも言われる打率/出塁率/長打率において、全盛期は毎年安定して上位に食い込み、「最高打者の一人」と言われていた。
2010年シーズン終了時点では、通算の打率.331、出塁率.426、長打率.624はすべて現役打者の中で1位であった。
守備・走塁
メジャー昇格当初は左翼手や三塁手・遊撃手・右翼手としても出場していたが、ティノ・マルティネスの移籍に伴い、2004年から一塁手に固定された。
スローイングの改善や投手との連携プレイ習得に励んだ結果、守備力もリーグトップクラスと評価されるようになり、2006年・2010年にはゴールドグラブ賞を獲得。
2009年には一塁手として185補殺を記録し、ビル・バックナーが持っていたシーズン補殺記録を更新した。
またMLBの専門家が集い、ポジション別で最高のディフェンシブ・プレイヤーを決めるフィールディング・バイブル・アワードでは、この賞が創設されて以来2006~2009年の四年連続で一塁手部門を受賞し、2011年にも受賞している。
第一歩の速さや機敏さ、フットワーク、悪送球の捕り方、守備範囲の広さで高い評価を受けている。
一塁手ではあるが肩でも評価は高く、巧みなフットワーク後の送球の正確さ、リリースの素早さがメジャーでも有数とされる。
2007年の守備防御点27は、守備防御点が記録されるようになった2003年以降、2位(19点)を大きく引き離して一塁手としてのシーズン記録である。
2006年、2008年の守備防御点もそれぞれ歴代6位、7位につけている。
2011年は、基本的には一塁手であったが、新加入のバークマンが一塁に入る場合は三塁でスタメン出場することもあった。
しかし、故障が増えた2012年以降はDHでの出場が増加し、守備に就く機会が減少している。
走塁面では、2005年に盗塁を18回試み失敗を2回に抑えるという格段の進歩を見せている。
しかしその後3年間では16盗塁に対し失敗も11回と、バッテリーの警戒が強くなると成功率が悪化する面が露呈した。
ただし2009年は20回中16回を成功させている。
また塁間での走り、特に膨らみなく走る点で高い評価を受け、リードの取り方もうまい。
スタットキャストによる走塁時の最高速度(Sprint Speed)では、リーグ平均の27.0ft/sを2015年以降全ての年で下回っている。
2017年と2018年はメジャー全選手中で最も遅く、前者で21.8ft/s、後者で22.2ft/sを記録している。