概略
国籍 | ![]() (旧 ![]() |
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生年月日 | 1952年11月5日(67歳) | ||
出身地 | キエフ | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 72kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード、左ウイング)。
利き足は左。
名GKレフ・ヤシンと並んでソ連を代表するスタープレイヤー。
ソ連の100m走記録を持っていた母親の血を受け継ぎ、その俊足と得点能力からウクライナの矢と呼ばれた。
なお、後に同じウクライナ出身FWであるアンドリー・シェフチェンコがこの愛称を受け継いでいる。
「ウクライナの矢」今でこそこれはシェフチェンコの異名として知られているが、そのシェフチェンコが生まれる1年前の1975年、ソ連国内で4年連続の得点王に輝き、22歳ながらバロンドールを受賞、その素晴らしいスピードと正確なシュートから人々に「ウクライナの矢」と呼ばれていた。
元祖ウクライナの矢こそオレグ・ブロヒンなのだ。
15歳の時にディナモ・キエフにてトップデビューを飾ると、その後は名将ヴァレリー・ロヴァノフスキーのもと、着実に成長を続け18才の時にはレギュラーに定着、その年に最初のリーグ得点王に輝く。
その後は毎年のようにゴールを量産し4年連続得点王に輝くと1975年にはスーパーカップとカップ・ウィナーズカップの2冠を達成、中でもスーパーカップ決勝ではゼップ・マイヤー、ベッケンバウアー、G・ミュラー、ルンメニゲとそうそうたるメンバーを擁するバイエルン・Mを相手にアウェーで1-0、ホームで2-0と完勝した。
この3得点全てを決めたのがブロヒンでありこの年の活躍が認められブロヒンはバロンドールを受賞したのである。
1977年には通算5度目となるリーグ得点王に輝いたブロヒンはディナモ・キエフ在籍19年でリーグ制覇8回、国内カップ5回、カップウィナーズカップ2回、スーパーカップ1回を獲得。
1973年、74年、75年と3年連続してソ連年間最優秀選手賞を受賞し、その能力に相応しいタイトルの数々を手中にしたのである。
獲得タイトル
クラブ
ディナモ・キエフ
- Soviet Top League (8): 1971, 1974, 1975, 1977, 1980, 1981, 1985, 1986
- Soviet Cup (5): 1974, 1978, 1982, 1984–85, 1986–87
- USSR Super Cup: (3): 1981, 1986, 1987
- UEFA Cup Winners Cup (2): 1974–75, 1985–86
- UEFA Super Cup: 1975; Runner-up: 1986
個人
- Merited Master of Sports (1975)
- Merited Coach of Ukraine (2005)
- Ballon d’Or: 1975
- IOC European Footballer of the Season: 1974–75
- Golden Foot: 2009, as a legend
- Soviet Footballer of the Year (3): 1973, 1974, 1975
- Ukrainian Footballer of the Year (9): 1972, 1973, 1974, 1975, 1976, 1977, 1978, 1980, 1981
- Soviet Top League top scorer (5): 1972, 1973, 1974, 1975, 1977
- Soviet Top League All-Time Goals and Appearances Leader
- Soviet Cup All-Time Goals
- UEFA Cup Winners’ Cup 1985–86 top scorer
- European Cup 1986–87 second place on top scorers list.
- USSR national football team All-Time Goals and Caps Leader
- Ukraine’s Golden Player representative
- The best 33 football players of the Soviet Union (15): № 1 (1972—1982, 1985, 1986), № 2 (1983, 1984)
- Club Loyalty Award: 1986
- IFFHS Legends
バロンドール
- 1974 – 19th
- 1975 – 1st
- 1976 – 19th
- 1981 – 5th
経歴
代表歴 | |||
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1972-1988 | ![]() |
112 | (42) |
ユース時代からディナモ・キエフで育ち、1969年にトップでのキャリアをスタート。
15歳の時にディナモ・キエフにてトップデビューを飾ると、その後は名将ヴァレリー・ロバノフスキーのもと、着実に成長を続け18才の時にはレギュラーに定着、その年に最初のリーグ得点王に輝く。
名将ヴァレリー・ロバノフスキー監督のもと、8度のソ連リーグ優勝と、2度のUEFAカップ優勝の原動力になる。
その後は毎年のようにゴールを量産し1972年から4年連続得点王に輝くと1975年にはスーパーカップとカップ・ウィナーズカップの2冠を達成、中でもスーパーカップ決勝ではゼップ・マイヤー、ベッケンバウアー、G・ミュラー、ルンメニゲとそうそうたるメンバーを擁するバイエルン・Mを相手にアウェーで1-0、ホームで2-0と完勝した。
この3得点全てを決めたのがブロヒンでありこの年の活躍が認められブロヒンはバロンドールを受賞したのである。
1975年にはクライフやベッケンバウアーらが全盛期だったにも関わらず、42ポイントを集めたベッケンバウアー、27ポイントを集めたクライフに大差をつける122ポイントを獲得してのバロンドール受賞は当時何よりも価値の高い名誉であった。
1977年には通算5度目となるリーグ得点王に輝いたブロヒンはディナモ・キエフ在籍19年でリーグ制覇8回、国内カップ5回、カップウィナーズカップ2回、スーパーカップ1回を獲得。
1973年、74年、75年と3年連続してソ連年間最優秀選手賞を受賞し、その能力に相応しいタイトルの数々を手中にしたのである。
エピソード
引退後は監督としてギリシャのクラブを渡り歩いた。
1997年には国会議員に当選。
2003年9月にウクライナ代表監督に就任したが、2004年4月13日キエフ郊外で自動車事故に合い病院に運ばれた。
2005年3月、ワールドカップ欧州予選での好成績にもかかわらず、代表監督と国会議員の両立が難しいことを理由にウクライナ代表監督を辞任したが、発表から1週間あまりで続投が決まり、引き続き指揮を執っている。
2006年ドイツW杯決勝トーナメント1回戦ウクライナ対スイス戦のPK戦前に、決着の瞬間を見ることを拒否し、PK戦の采配を選手に丸投げしてロッカー室にこもってしまったというエピソードがある。
尚試合はウクライナがPK戦を制した。
2007年、EURO2008の予選敗退の責任を取り、代表監督を辞任した。
同年12月14日、FCモスクワの監督に就任。
しかし、2008年シーズンは、16チーム中9位で終え、成績不振を理由に解任される。
2011年にウクライナ代表監督に復帰したが、自国開催のEURO2012でグループリーグ敗退に終わり、大会後の2012年9月に退任し、ディナモ・キエフの監督に就任した。
プレースタイル
ソ連の女子100メートル走の記録保持者であった母の血を受け継いだブロヒンは学生時代には100メートル10秒8というタイムを記録。
その抜群のスピードと精度の高いシュート力を武器に得点を量産するストライカーであった。