概略
国籍 | ![]() |
---|---|
出身地 | ![]() オハイオ州ギルモア |
生年月日 | 1867年3月29日 |
没年月日 | 1955年11月4日(88歳没) |
身長 体重 |
188 cm 95.3 kg |
ポジションは投手(ピッチャー)。
右投右打。
長身から放たれる速球とドロップを駆使し、歴代最多の通算511勝を挙げた(敗戦も歴代最多の316敗)。
入団2年目の1891年から1909年まで19年連続で10勝以上を達成。
そのうち20勝以上を15回、30勝以上5回記録している。
1937年にアメリカ野球殿堂入り。
ニックネームの「サイ」とは、「サイクロン(cyclone、暴風)」を略したもので、彼の速球がサイクロンのようにうなりをあげていたことに由来する。
タイトル
- 最多勝利:5回 (1892年、1895年、1901年、1902年、1903年)
- 最優秀防御率:2回 (1892年、1901年)
- 最多奪三振:2回 (1896年、1901年)
- 最多セーブ投手:2回 (1896年、1903年)
記録
- 投手三冠:1回 (1901年)
- 完全試合:1回
- 1904年5月5日対フィラデルフィア・アスレチックス戦
- ノーヒット・ノーラン:2回
- 1897年9月18日対シンシナティ・レッズ戦
- 1908年6月30日対ニューヨーク・ハイランダーズ
- 通算勝利数:511(歴代1位)
- 通算敗北数:319(歴代1位)
- 通算先発:815(歴代1位)
- 通算完投:719(歴代1位)
- 通算自責点:2147(歴代1位)
- 通算被安打:7092(歴代1位)
表彰
- アメリカ野球殿堂入り(1937年)
- サイ・ヤング賞制定(1956年)
- メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム選出(1999年)
- DHLホームタウン・ヒーローズノミネート(2006年)
- フランチャイズ・フォー選出(2015年)
経歴
- クリーブランド・スパイダーズ (1890 – 1898)
- セントルイス・パーフェクトズ
セントルイス・カージナルス (1899 – 1900) - ボストン・アメリカンズ
ボストン・レッドソックス (1901 – 1908) - クリーブランド・ナップス (1909 – 1911)
- ボストン・ラスラーズ (1911)
妻ルバ・ミラーとの結婚を期に野球で生計を立てようと決意したヤングは、1890年にトライステート・リーグのカントン球団に参加、15勝15敗の成績をあげた後、同じ年にクリーブランド・スパイダースと契約した。
23歳の初年度は9勝7敗の成績だったが、2年目の1891年には27勝を上げ、3年目1892年には36勝12敗、リーグ最優秀防御率となる1.93を記録し、その豪腕ぶりが知られるようになった。
4年目の1893年に投手-本塁間の距離が60フィート6インチに広げられるルール改訂があり、ヤングの防御率も3点台まで落ち込んだ。
しかしヤングはその後も年50試合前後、投球回にして400イニング以上を毎年故障もなく投げ続けた。
投手-本塁間の距離が延びた1893年でさえ34勝16敗の成績を上げ、1895年には3度目の30勝に到達し2度目の最多勝利投手となる。
1896年には28勝とリーグ最多の140奪三振を記録、1897年にはノーヒッターを達成するなど、1898年までのスパイダーズ在籍時に20勝を挙げられなかったのは最初の1年目だけという活躍ぶりだった。
1899年にセントルイスに移るが、これはナショナルリーグの優勝を手にしたいスパイダーズのオーナー達が、セントルイス・ブラウンズの経営に参画し、スパイダーズの主力選手達をセントルイスに集めたためである。
ヤングは1899年も26勝を挙げて期待に応えたが、1900年はシーズン中に相手野手と衝突し肋骨を打撲する怪我を負ったため、勝ち星も19勝にとどまった。
1901年、ヤングは32歳になっていたが、この年創設されたアメリカンリーグのボストン・アメリカンズから誘いを受ける。
当時、ナリーグでは選手年俸の上限が2,400ドルだったが、3,000ドルを上回る条件を提示し、結局移籍を決断しボストンへ移ることになった。
新興のリーグに参加した1901年から1904年頃までのヤングの成績は特に目を見張るものがあった。
1901年から1903年まで3年続けてリーグ最多勝利投手となり、ナショナルリーグとの間に初めて行われたワールドシリーズでも2勝をあげて、チームをシリーズ制覇に導いた。
1909年にヤングは12,500ドルの移籍金とともにクリーブランド・ナップスへ移籍する。
ヤングは42歳になっていたが、ここでも19勝15敗、防御率2.26の成績を残す。
その後は登板回数が減り、1911年に45歳で現役を退いた。
エピソード
1890年にメジャーデビューし、1911年に引退するまで、メジャー22年間、そのスピードボールを武器に数々の記録を打ち立てていきます。
19年連続2ケタ勝利、シーズン20勝以上が15回、その内30勝上以上が5回と、現在のメジャーリーグでは考えられない数字を残しました。
1904年には、近代ベースボール初と言われている完全試合を達成し、その後も2度のノーヒットノーランを記録しました。
1904年に達成した完全試合は、37歳の時に達成した史上最年長記録でもあったのですが、2004年にランディ・ジョンソンが40歳で達成し、100年ぶりに更新されました。
通算511勝316敗はともにメジャー記録。
特に勝利数は2位のウォルター・ジョンソンが416勝という事からも、桁違いの数字である事がお分かりいただけると思います。
1903年から始まった第1回ワールドシリーズでは、ボストンの一員として、初代ワールドチャンピオンに大きく貢献しました。
1937年に殿堂入りし、1955年からその栄誉を称えて、シーズン最高の投手に与えられる「サイ・ヤング賞」が制定されました。
初代サイ・ヤング賞はドン・ニューカム(ドジャース)に輝き、近年では、ロジャー・クレメンス、ランディ・ジョンソン、トム・グラビン、グレッグ・マダックス、ペドロ・マルチネス、バリー・ジト、エリック・ガニエと、そうそうたる顔ぶれです。
プレースタイル
威力のある速球とドロップを武器に、17歳の時に既にセミプロチームに入団していたデントン・トゥルー・ヤング投手。
ある試合での暴投が木製のバックネットを破壊し、その日以来ヤングの速球は「サイクロン(竜巻)」と呼ばれるようになり、「サイクロン・ヤング」というニックネームに。
その後に略されて「サイ・ヤング」と呼ばれるようになりました。
暴風が直撃したかのように剛速球でフェンスを壊したからとも、うなりを上げるほど速かったからとも言われる。