バート・スター

概略

生年月日 1934年1月9日
没年月日 2019年5月26日(85歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
アラバマ州モンゴメリー
身長 6′ 1″ =約185.4cm
体重 197 lb =約89.4kg
大学 アラバマ大学
NFLドラフト 1956年 / 17巡目全体199位

 

ポジションはクォーターバック。

 

グリーンベイ・パッカーズで活躍した偉大な選手。

 

プレーオフでは9勝1敗の成績を残し、5回NFLチャンピオンにチームを導いた。

 

現在までのところチームを5回チャンピオンに導いたQBはバート・スターとトム・ブレイディの2人のみである。

 

1977年、プロフットボール殿堂入り、背番号15はグリーンベイ・パッカーズの永久欠番。

 

受賞歴・記録
  • プロボウル選出4回:(1960年-1962年、1966年)
  • オールプロ選出2回:(1961年、1966年)
  • NFLチャンピオン5回:(1961年、1962年、1965年、1966年、1967年)
  • スーパーボウル制覇2回:(第1回、第2回)
  • スーパーボウルMVP2回:(第1回、第2回)
  • シーズンMVP:(1966年)
  • NFL1960年代オールディケイドチーム
  • プロフットボール殿堂
  • グリーンベイ・パッカーズ永久欠番 #15
NFL 通算成績
TD/INT 152/138
パス獲得ヤード 24,718ヤード
パス成功率 57.4%
QBレイティング 80.5
ラン獲得ヤード 1,308ヤード
TDラン 15回

 

経歴

1956-1971 グリーンベイ・パッカーズ

 

大学卒業時の1956年、NFLドラフト17巡目全体200位と低い評価でグリーンベイ・パッカーズに入団した。

 

入団してから数年は実績もキャリアもなかったが、彼に転機が訪れたのは名将ヴィンス・ロンバルディがパッカーズのヘッドコーチに就任した1959年以降である。

 

1960年から1967年までの8年間で62勝24敗4分、地区優勝6回、NFLチャンピオン5回、新興のAFL王座とNFL王座が対戦した、第1回、第2回スーパーボウルを制し、2年連続スーパーボウルMVPとなった。

 

またプロボウルに4回、オールプロに2回選出された。

 

1961年、パス成功率58.3%、2,418ヤードを投げて16TD、16INTでプロボウルに選ばれた。この年のニューヨーク・ジャイアンツとのNFLチャンピオンシップゲームでは3TDパスを投げてチームは37-0で勝利した。

 

1962年、パス成功率62.5%、2,438ヤードを投げて12TD、9INTでプロボウルに選ばれた。

 

1963年、10月のセントルイス・カージナルス戦で負傷し、11月24日のサンフランシスコ・フォーティナイナーズ戦で復帰した。

 

1964年、パス成功率59,9%、2,144ヤードを投げて25TD、4INTの成績をあげた。

 

1965年、パス成功率55.8%、2,055ヤードを投げて16TD、9INTの成績をあげた。

 

1966年のNFLチャンピオンシップゲームではダラス・カウボーイズを34-27で破り、AFL優勝のカンザスシティ・チーフスとの第1回スーパーボウルでパス23回中16回成功、マックス・マギーへの2TDを決めて35-10で勝利、MVPに選ばれた。

 

1967年、前年わずか3INTしか許さなかった彼は、開幕戦のデトロイト・ライオンズ戦、第2週のシカゴ・ベアーズ戦で合計9INTを喫した。

 

第3週のアトランタ・ファルコンズでは肩を負傷し退場した。

 

アイスボウルと呼ばれた極寒のランボー・フィールドで行われた1967年NFLチャンピオンシップゲームではダラス・カウボーイズの強力な守備陣から2TDパスを決めて、14-0とリードした。

 

その後カウボーイズに14-17と逆転され、残り4分50秒、自陣32ヤードから攻撃を開始した。

 

彼のパスなどで、敵陣3ヤードまで前進した後、RBドニー・アンダーソンにボールを渡したが2ヤードしか前進できず、残り時間16秒、第3ダウン敵陣1ヤードからのプレーで、センターのケン・ボウマン、ガードのジェリー・クレイマーの完璧なブロックにより、QBスニークで決勝TDをあげた。オークランド・レイダースとの第2回スーパーボウルでもパス24回中13回成功、202ヤード、1TDで33-14と勝利、2年連続でMVPに選ばれた。

 

この試合でヴィンス・ロンバルディヘッドコーチが勇退した。

 

スーパーボウルMVPに2度以上選ばれているのは彼の他にテリー・ブラッドショー、ジョー・モンタナ、トム・ブレイディ、イーライ・マニングしか達成していない。

 

1971年、スコット・ハンターに先発の座を奪われ、12月19日のマイアミ・ドルフィンズ戦が現役最後の試合となった。

 

この年チームは1958年以来最低の4勝8敗2分に終わった。

 

翌1972年7月1日、現役引退を表明した。

 

プレーオフでは9勝1敗の成績を残し、5回NFLチャンピオンにチームを導いた。

 

現在までのところチームを5回チャンピオンに導いたQBはバート・スターとトム・ブレイディの2人のみである。

 

現役時代、全試合に先発出場したのは1961年、1962年、1964年、1965年のみであった。また300回以上パスを投げたシーズンはなく、バランスの取れた攻撃をコントロールした。

 

1試合あたりのパス試投はおよそ20回、パスオフェンス全盛期であるトム・ブレイディ、ペイトン・マニングだけでなく、サミー・ボウよりもはるかに少ない。

 

このため過小評価されることが多いが、QBレイティングは、サミー・ボウ、シド・ラックマン、ジョニー・ユナイタス、Y・A・ティトルより高い。

エピソード

フィールド外で顕著な功績をあげた選手に贈られるバート・スター賞が設けられており、2011年1月20日にはハリケーン・カトリーナによる被害を受けたニューオーリンズの復興や医療施設への寄付などを行っているドリュー・ブリーズが選ばれた。

 

父親は軍人であった。

 

当初アメリカ陸軍に所属していた父親は、太平洋戦争が始まった後、アメリカ空軍に所属が変わり、軍曹にまでなった。

 

仲の良かった弟を1947年に破傷風で亡くした。

 

地元の高校に進学した彼はアメリカンフットボールを始めたが、2週間後にやめようとした。

 

父親はアメリカフットボールをするか家庭菜園で働くか彼に選択を迫り、彼はアメリカンフットボールを選んだ。

 

高校2年次に先発QBが足を骨折したため、先発QBとなった。

 

この年彼の率いたチームは無敗の成績を残した。

 

3年次には州のオールチーム及びオールアメリカンに選ばれ、全米の多くの大学から奨学金のオファーを受けた。

 

ケンタッキー大学、オーバーン大学への入学も検討した末、彼はアラバマ大学に入学した。

 

クォーターバックとして2年生から正QBとなったがその後故障、4年次にはレギュラーを奪われた。

プレースタイル

現役時代、全試合に先発出場したのは1961年、1962年、1964年、1965年のみであった。

 

また300回以上パスを投げたシーズンはなく、バランスの取れた攻撃をコントロールした。

 

1試合あたりのパス試投はおよそ20回、パスオフェンス全盛期であるトム・ブレイディ、ペイトン・マニングだけでなく、サミー・ボウよりもはるかに少ない。

 

このため過小評価されることが多いが、QBレイティングは、サミー・ボウ、シド・ラックマン、ジョニー・ユナイタス、Y・A・ティトルより高い

 

 

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