ミカエル・ラウドルップ

サッカー

概略

HeilRJ ミカエル・ラウドルップ スーパープレイ集
国籍  デンマーク
生年月日 1964年6月15日(56歳)
出身地 コペンハーゲン
身長 183cm
体重 78kg

 

ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。

 

利き足は右。

 

デンマークサッカー界を代表する選手であり、1980年代中盤から1990年代のヨーロッパを代表する選手のひとり。

 

同じくサッカー選手であった弟のブライアン・ラウドルップと共に「ラウドルップ兄弟」として知られる。

 

父のフィン・ラウドルップも元サッカー選手で代表キャプテンを務めた。

 

1982年、18歳の誕生日にデンマーク代表デビューし、2度のワールドカップ、3度の欧州選手権を含む104試合に出場して37得点を挙げた。

 

1994年11月からは代表引退するまで28試合に渡って代表キャプテンを務めた。

 

1998年6月フランスワールドカップを最後に現役を引退した。

 

1999年、過去25年間のリーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手賞を受賞した。

 

2000年4月にはDannebrog勲章を受勲した。

 

2003年11月、デンマークサッカー協会によってUEFAジュビリーアウォーズのデンマーク代表(過去50年のデンマーク最優秀選手)に選出された。

 

2006年11月には、デンマークサッカー協会によって公式に史上最高のデンマーク人選手に選出された。

 

獲得タイトル

クラブ

ユヴェントスFC
  • セリエA (1): 1985-86
  • インターコンチネンタルカップ (1) : 1985
FCバルセロナ
  • プリメーラ・ディビシオン (4): 1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94
  • コパ・デル・レイ (1) : 1989-90
  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ (2) : 1991, 1992
  • UEFAチャンピオンズカップ (1) : 1991-92
  • UEFAスーパーカップ (1) : 1992
レアル・マドリード
  • プリメーラ・ディビシオン (1) : 1994-95
AFCアヤックス
  • エールディヴィジ (1) : 1997-98
  • KNVBカップ (1) : 1998

代表

デンマーク代表
  • キング・ファハド・カップ (1) : 1995

個人

  • デンマーク年間最優秀選手賞 (2) : 1982, 1985
  • ドン・バロン・アワード 最優秀外国人選手賞 (1) : 1992
  • リーガ・エスパニョーラ 過去25年間の最優秀外国人選手賞 (1) : 1974-1999
  • ワールドサッカー誌20世紀の偉大なサッカー選手100人 59位 : 1999
  • FIFA 100 : 2004
  • UEFAジュビリーアウォーズ デンマーク最優秀選手 : 2005
  • デンマーク史上最高選手賞 : 2006

 

経歴

ラウドルップ イニエスタが最も憧れ真似した超絶スキル集!ゴール&アシスト バルセロナ レアルマドリード ヴィッセル神戸【Legend】
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1981 デンマークの旗 ケベンハウンBK 14 (3)
1982-1983 デンマークの旗 ブレンビー 38 (24)
1983-1985 イタリアの旗 ラツィオ 60 (9)
1985-1989 イタリアの旗 ユヴェントス 102 (16)
1989-1994 スペインの旗 バルセロナ 167 (40)
1994-1996 スペインの旗 レアル・マドリード 62 (12)
1996-1997 日本の旗 ヴィッセル神戸 15 (6)
1997-1998 オランダの旗 アヤックス 21 (11)
通算 479 (121)
代表歴
1980  デンマーク U-17 4 (2)
1980-1981  デンマーク U-19 19 (12)
1982  デンマーク U-21 2 (0)
1982-1998 デンマークの旗 デンマーク 104 (37)

 

クラブ

 

コペンハーゲンのFrederiksberg地区に生まれ、父親のフィン・ラウドルップも幼少時代にプレーしたVanløse IFでサッカーを始めた。

 

1973年にフィンがブレンビーIFの選手兼任監督となると、ラウドルップ家はブロンビーに引っ越し、ミカエルと兄弟のブライアン・ラウドルップもブロンビーの下部組織に移った。

 

1976年、ミカエルは父の後を追ってデンマーク・スーペルリーガ(1部)のケベンハウンBK(現FCコペンハーゲン)の下部組織に移ったが、ブライアンはブロンビーに留まった。

 

1981年にケベンハウンのトップチームに昇格。ブロンビーでプレーしていた父親のフィンは、1981年シーズン終了後のスーペルリーガ昇格を置き土産に現役引退した。

 

ミカエルは1982年にコペンハーゲン郊外のブロンビーに移籍し、デビュー戦となったBoldklubben 1909戦 (7-1) で2得点を挙げた。

 

1982年シーズンはリーグ3位の15得点を挙げ、デンマーク年間最優秀選手賞を受賞した。

 

1983年シーズンも引き続きブロンビーでプレーし、中盤戦までに9得点を挙げた。

 

1983年6月、イタリア・セリエA覇者のユヴェントスFCに移籍。

 

ブロンビーにはデンマーク史上最高の移籍金100万ドルが支払われた。

 

ユヴェントスとの合意前にはリヴァプールFCとの契約間近だったが、リヴァプールが提示内容を3年契約から突然変更、契約年数(4年)を提示してきた、ミカエルは納得せず、リヴァプールとの交渉が決裂していた。

 

また後に移籍することとなるFCバルセロナ、アヤックスなども獲得を試みたが、父親の勧めもあり、ユベントスへ移籍することとなった。

 

当時のセリエAの規定では同時に出場できる外国人選手は2人までだったが、ユヴェントスにはポーランド代表のズビグニェフ・ボニエク、フランス代表のミシェル・プラティニが在籍しており、すぐに昇格組のSSラツィオへ1シーズンの契約でレンタル移籍した。

 

セリエAデビュー戦となった9月12日エラス・ヴェローナFC戦 (2-4) で2得点を挙げると、次節9月18日のインテル戦でもゴールを決めた。

 

しかし1983-84シーズンのラツィオはかろうじてセリエB降格を回避した。

 

ユヴェントスはボニエクとプラティニを手元に置くことを望み、ミカエルは再びラツィオにレンタル移籍した。

 

1984-85シーズンのラツィオは序盤戦から低迷。

 

ミカエル自身も1得点しか挙げられず、セリエB降格となった。

 

1985年夏、ボニエクがASローマに移籍したことでミカエルがユヴェントスに復帰し、プラティニとチームメイトとなった。

 

1985年8月25日、コッパ・イタリア、カゼルターナFC戦で移籍後初ゴールを決め、9月22日ピサ戦でユベントスの選手としてセリエA初ゴールを決めると、ヴェローナ戦、アタランタ戦と3試合連続ゴールを決めた。

 

同年には再びデンマーク年間最優秀選手賞を受賞し、1985-86シーズンにはセリエAとインターコンチネンタルカップの2冠を達成。東京の国立競技場で行われたインターコンチネンタルカップのAAアルヘンティノス・ジュニアーズ戦では、82分に同点ゴールを決めて試合を振り出しに戻した。

 

PK戦ではPKを失敗したが、ユヴェントスは2-2(PK 4-2)で勝利してタイトルを獲得した。

 

1986-87チャンピオンズカップのヴァルル・レイキャヴィークとの対戦の第1試合ではハットトリックを達成した、また第2戦でも2得点を決めた。

 

1987年にプラティニが引退すると、新加入のイアン・ラッシュとともにミカエルがユヴェントスを牽引することを期待されたが、度重なる怪我で大きな活躍が出来ずバルセロナに売却された。

 

1989年、少年時代のアイドル的存在であるヨハン・クライフ監督が獲得を熱望し、ラ・リーガの強豪FCバルセロナに移籍した。

 

しかしユベントス時代に大きな活躍を見せることが出来なかったこともあり、当初は獲得に疑問の声が挙がったが、高いテクニックはクライフのサッカースタイルに完全にマッチし、ウイングの位置から偽9番として、チーム内の酸素とも言える役割を果たし、フリスト・ストイチコフ、ロマーリオらに多くにアシストを供給、UEFAチャンピオンズカップ優勝、リーグ4連覇を成し遂げた。

 

1993-94シーズン、ブラジル代表のロマーリオが加入し、バルセロナの外国人選手は4人となった。

 

チャンピオンズリーグ、ファーストラウンドのディナモ・キエフ戦でシーズン初ゴールを決めるなど、当初はスタメン出場していたが、次第にベンチスタートになることも増えた。

 

レアルマドリ―ドとのクラシコでは途中出場からノールックパスでロマーリオのゴールをアシストするなど、プレー面でロマーリオとの抜群の相性の良さを度々見せた。

 

また優勝がかかる最終節のセヴィージャFC戦では先発出場し、前半にサイド突破からのクロスでストイチコフの同点ゴールをアシスト、後半にはストイチコフのアシストから得点を決め、勝利を引き寄せ、首位を走っていたラ・コルーニャに逆転での優勝に貢献した。

 

しかしクライフ監督とはたびたび衝突したため、ミカエルは1993-94シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝・ACミラン戦ではミラン所属の弟のブライアンと共にベンチ外になった。

 

1994-95シーズンから、レアル・マドリードに移籍。

 

ラウドルップは移籍の理由は遺恨などではなく、プロとしてのものであり、またバルセロナはワールドカップアメリカ大会にかなりの所属選手を出していた為、疲労によりチーム力が落ちると考えたからだと語った。

 

グアルディオラは記者からラウドルップの移籍を聞き涙を流し、移籍を止める様に直に説得を試みた。

 

バルセロナ最大のライバルに移籍したことで議論を呼んだが、ここは攻撃的MFとしてプレー、サモラーノ、ラウールらに多くにアシストを供給し、リーグ優勝を果たした。

 

レアル・マドリードでは2シーズンプレーしただけにもかかわらず、2002年にマルカ紙が実施したインターネット調査では、レアル・マドリードの歴代最優秀選手投票で12位にランクインした。

 

1996年、ジャパンフットボールリーグ(2部に相当)のヴィッセル神戸に入団し、デビュー戦となった8月18日のブランメル仙台戦で初ゴールを含む2ゴールのデビューを飾る。

 

21節のコンサドーレ札幌戦では3アシストを記録し勝利に貢献、ワールドカップ予選出場のためにチームを離脱することもあったが、昇格を争う中、最終節を前にした福島FC戦では決勝ゴールを含む2ゴールを決めるなど、Jリーグ昇格に貢献。

 

1997-98シーズン、モアテン・オルセン率いるエールディヴィジのAFCアヤックスに加入し、3節のユトレヒト戦で移籍後初ゴールを決めると、21節のRKCヴァールヴァイク戦でキャリア2度目のハットトリックを決め、4月11日30節のヘーレンフェーン戦でクラブチームでの現役ラストゴールを決めるなど、僅か21試合の出場ながら、11得点9アシストを記録した。

 

またクラブチームでの現役ラストマッチとなったKNVBカップ決勝のPSV戦では2-0とリードを広げるヤリ・リトマネンのゴールをアシストするなど、1997-98シーズンにリーグとKNVBカップの2冠達成に貢献、契約延長の話を受けたが、同シーズンを最後に引退した。

 

代表

 

代表ではブロンビーでのデビューシーズンにデンマークA代表に初招集され、18歳の誕生日である1982年6月15日、ノルウェー戦でゴールを決めるデビュー。

 

ハラルド・ニールセンに次いで歴代2位の年少出場記録を作った。

 

1984年にフランスで開催されたUEFA欧州選手権1984には中心選手として全試合に出場し、将来有望な若手選手の一人として脚光を浴びた。

 

1986年にメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップでは、「ダニッシュ・ダイナマイト」と賞賛された攻撃的なチームの中でエルケーア・ラルセンと2トップを組み、同大会でデンマーク初の決勝トーナメント進出に貢献した。

 

なお、1次リーグ第2戦のウルグアイ戦(6-1)では、52分に技巧的なドリブル突破からデンマークの3点目の得点を決めている。

 

1988年に西ドイツで開催されたUEFA欧州選手権1988にも出場。1次リーグのスペイン戦でゴールを決めたが、デンマークはグループリーグ敗退に終わった。

 

長年代表を率いたドイツ人のゼップ・ピオンテック監督が大会後に退任すると、その後の監督たちとは対立し、代表辞退と復帰を繰り返すようになった。

 

UEFA EURO ’92予選では3試合に出場したが、1990年11月、メラー・ニールセン監督との意見の相違から、弟のブライアンやヤン・モルビーとともに代表からの引退を表明した。

 

ブライアンはピーター・シュマイケルなどとともにUEFA EURO ’92本大会に出場し、ニールセン監督のチームは快進撃を続けて初優勝を果たした。

 

ミカエルはニールセン監督の守備的サッカースタイルを批判して代表を退いていたが、10時間を超える話し合いの末、1993年8月に代表に復帰した。

 

1994 FIFAワールドカップ アメリカ大会予選では最終節を前に、アイルランドが勝ち点17、デンマークが勝ち点16、スペインが13であった。

 

しかし最終節でデンマークがスペインとの直接対決で敗れ、デンマークはスペインに逆転され、ワールドカップ出場を逃した。

 

UEFA EURO ’96予選では10試合に出場して4得点し、本大会ではキャプテンを務め、兄弟そろって出場したが、1勝1分1敗でグループリーグ敗退に終わった。

 

1998年には、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップにデンマーク代表のキャプテンとして出場。

 

グループリーグではフランス戦でPKによるゴールを決めた。

 

決勝トーナメント1回戦ではアトランタオリンピック優勝のナイジェリアと対戦し、絶妙なパスでメラーの先制点、そしてエッベ・サンドの追加点をアシスト、4-1の大差で勝利し、デンマークをベスト8まで牽引した。

 

準々決勝ではブラジルを苦しめたが、2-3で敗れ、代表のみならず現役生活最後の試合となった。

 

またFIFAによるワールドカップフランス大会オールスターメンバーにも選ばれた。

 

エピソード

Michael Laudrup, the Playmaker Prince [Goals & Skills]

 

同じFCバルセロナとヴィッセル神戸に所属した、アンドレス・イニエスタの憧れた選手で、そのプレーを幼少の頃からプレーを模範とし真似ていたと語り、那須大亮のYouTubeの企画にゲストとして出演した際には、自身が認める凄いMFベスト3の1位をラウドルップとした。

 

2006年4月、レアル・マドリードでチームメイトだったラウル・ゴンサレスはインタビューで「一緒にプレーした選手の中ではラウドルップが最高の選手だ」と述べた。

 

永島昭浩とは同じ年であり]、1997年のJリーグで22ゴールを決めることができたのは、練習中ラウドルップからの(ポジショニングに関する要求)「どう点を取るか、どう準備をして、どうプレーをすれば点が取れるのか。」に応えることで、それらが身に付いたお陰だと後に語った。

 

ヴィッセル神戸時代のチームメイト和田昌裕は、「来るはずがないと思ったタイミングでパスが来たり、決められないだろうという体勢から簡単にゴールを決めたり練習中から驚くことが多かった。」と話した。

 

1998年の現役引退後には、空き時間などにリンビーBKのシニアチームでプレーすることもあった。

 

2000年にデンマーク代表のアシスタントコーチに就任し、36歳で指導者の道を歩み始めた。

 

モアテン・オルセン監督のチームは4-2-3-1フォーメーションを採用し、両翼に機動力のあるウイングを配置してショートパスでボールを支配するサッカーを探求。

 

2002 FIFAワールドカップでは決勝トーナメントに進出した。

 

2002年、デンマーク・スーペルリーガのブレンビーIF監督に就任。

 

代表と似たような戦術の採用を明らかにし、選手時代にデンマーク代表でともにプレーし、監督としてリーグ優勝経験のあるヨン・イェンセンをアシスタントコーチに据えた。

 

リーグ戦では2度2位となった後、2004-05シーズンに就任後初優勝。このシーズンにはダニッシュ・カップと合わせて国内2冠を達成し、2005-06シーズンは再びリーグ戦で2位となった。

 

ブレンビーとの契約延長交渉がうまくいかず、2005-06シーズン終了後にコーチのイェンセンとともにブレンビー監督を退任した。

 

古巣のレアル・マドリードや、ラーシュ・ラーゲルベック監督の後任を探していたスウェーデン代表を含め、いくつかのクラブ・代表から関心を示された。

 

2007年、ブレンビーはラウドルップの承諾を得て、スタジアムに「ミカエル・ラウドルップ・ラウンジ」という名称の新しいラウンジをオープンさせた。

 

その後、数多くのクラブの監督を歴任。

 

プレースタイル

Michael Laudrup ● Craziest Skills & Goals Ever ►

優れたテクニックを持ち、1対1のドリブル突破に強く、相手DF陣をドリブルで崩し、多くのゴールチャンスを演出、パス感覚に優れたラストパスの名手であった。

 

ノールックパスやスルーパスを得意とし、好機を作り出しながら自らもゴールを狙う。

 

またマラドーナらと共に、ジダン以前にマルセイユ・ルーレットを実戦で使っていた選手の一人であった

 

ティエリ・アンリはラウドルップを、「過小評価されているのが理解出来ない、彼は最高の10番、彼のパスは私の神だ、Youtubeにある彼のビデオを月に最低2回は見ているよ。」と話、「一緒にプレーがしたかった。彼以上にパスが上手い選手を歴史上で知らない。」と賞賛した。

 

ミシェル・プラティニは、ラウドルップを「サッカー史上もっとも才能あ*ベッケンバウアーは、90年代ではラウドルップが最高の選手であったと評している。る選手のひとり。利己心の欠如が理由であまりにもゴール数が少ないのが残念だ」と表現した。

 

FCバルセロナでチームメイトだったロマーリオもラウル同様に語り、「パスも出せて得点もできるラウドルップは、ペレ、ディエゴ・マラドーナ、ロマーリオ自身、ジネディーヌ・ジダンに次いでサッカー史上5番目の選手である」と付け加えた。

 

 

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