スポンサーリンク
【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ラディスラオ・クバラ

サッカー

概略

Ladislau Kubala
国籍  ハンガリー
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
スペインの旗 スペイン
生年月日 1927年6月10日
出身地 ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国、ブダペスト
没年月日 2002年5月17日(74歳没)
身長 176cm
体重 82kg

 

ポジションはフォワード(インサイドライト)、ミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

ハンガリーで生まれたクバラは1950年に亡命してバルセロナに加入。

 

1951-52シーズンには5冠達成の立役者となり、バルセロナでの10年間でリーグ優勝4回、カップ制覇5回など輝かしい成績を残した。

 

FCバルセロナ移籍2シーズン目である1951-1952シーズンにはリーグ優勝やコパ・デル・レイなど5冠達成の立役者となり、クバラフィーバーが巻き起こった。

 

このことでソシオの数が増え、カンプ・ノウが建てられた。

 

カンプ・ノウはクバラが立てたといっても過言はない。

 

1999年にはファン投票でクラブ歴代最高選手に選ばれ、その10年後にはスタジアムの外に銅像が建てられている。

 

複数の国の代表になった経験がある異色のプレイヤーでもある。

 

経歴

  • ハンガリーの旗 TEブダペスト 1943-1944
  • ハンガリーの旗 フェレンツヴァーロシュTC 1944-1946
  • チェコスロバキアの旗 SKスロヴァン・ブラチスラヴァ 1946-1948
  • ハンガリーの旗 バシャシュ・ブダペスト 1948-1949
  • イタリアの旗 アウローラ・プロ・パトリア1919
  • スペインの旗 FCバルセロナ 1950-1961
  • スペインの旗 RCDエスパニョール 1963-1965
  • スイスの旗 FCチューリヒ 1965-1967
  • カナダの旗 トロント・ファルコンズ 1967-1969
代表歴
1946-1947 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア 6 (4)
1948 ハンガリーの旗 ハンガリー 3 (0)
1953-1961 スペインの旗 スペイン 19 (11)
1954-1963 カタルーニャ州の旗 カタルーニャ 4 (4)

 

クバラは20代前半から得点能力を開花させ、ブダペストのガンツTEやフェレンツヴァローシュでプレーした。

 

また、チェコスロヴァキアへ移動する前は短期間ハンガリー代表選手としても試合に出たことがある。

 

チェコ移動後はSKスロヴァン・ブラチスラヴァへ入団した。

 

入団1年後にブラチスラヴァの監督で、スロヴァキア代表監督も兼任したフェルディナンド・ダウチクに呼ばれ、スロヴァキア代表のユニフォームに袖を通した。

 

そして、後に彼の妹のアンナと家庭を築くことになる。

 

軍に招集され、クバラとアンナは1948年にハンガリーへ戻りブダペストのヴァシャシュSCと契約したが、すぐ後に妻と息子のブランコをハンガリーに残して彼はアルプス越えを敢行した。

 

家族とは、イタリアで落ち合う手はずとなっていた。

 

クバラはアルプス経由でオーストリアへ向かい、妻は息子をタイヤの中に隠してドナウ川を下る計画だった。

 

家族の到着を待つ間、クバラは短期間だけセリエAのプロ・パトリアでプレーした。

 

新しいクラブで試合に出場し、ゴールも決めると、クバラの名はイタリア全土に広まり、とあるトリノのクラブがベンフィカとの親善試合に彼を招待したいと言ってきた。

 

移動費はすべてクラブ持ちで、飛行機での旅となる計画だった。

 

もちろん「トリノのクラブ」というのは他でもない、往時「グランデ・トリノ」の時代を謳歌していた、かのトリノFCだった。

 

フットボールの歴史上、最強との呼び声の高いチームだ。

 

クバラはすぐにその申し出を受け入れた。

 

しかし、出発間際に彼の妻が深刻な病状の息子を抱えてイタリアへと到着した。

 

結果的に彼はトリノへの合流を断念し、息子の回復に専念した。

 

この決断は、彼の人生において最も重要な決断だったかもしれない。

 

ポルトガルでの親善試合を終えたトリノFC一行は、その帰路となる飛行機の機上で全員が命を落としてしまった。

 

霧の立ち込めた薄暗い空を飛んでいた飛行機は、スベルガの小高い丘と衝突し、機体はすべて焼け落ちた。

 

世に言う「スペルガの悲劇」である。

 

クバラはこの時、FIFAより1年間の公式戦出場試合停止処分を受けていた。

 

軍招集を拒んだことや国を捨てたことを理由に、ハンガリー国内に残ったフットボール関係者が彼に相応の処分を要求したためだった。

 

すぐ後、彼はアメリカに占領されていたチネチッタへと移住した。

 

ローマ郊外にあり、イタリア国内における映画産業の中心地だった。

 

殆ど一文無しに近い状況だったが、そこで彼は「ハンガリア」というチームの創設に携わることになった。

 

 

ハンガリー人やチェコ人、ロシア人、クロアチア人など、東側から逃れてきた多くの難民のためのクラブだった。監督は義理の兄であるダウチクが務めた。

 

1950年には、クラブ活動の一環として彼が主演の映画も制作された。タイトルは「クバラ 平和を探し求めるスター」というものだった。

 

1950年に、ハンガリアはスペインツアーを決行し、レアル・マドリーやエスパニョール、スペイン代表と試合を行った。

 

サンティアゴ・ベルナベウの観客はクバラに魅了され、彼はレアル・マドリーへの移籍を打診されたが、その見返りにダウチクの監督就任を要求したため破談となった。

 

ダウチクも、FIFAの制裁を受けていた一人だった。

 

この時、クバラに関心を抱いていたクラブがもう一つあった。

 

それがFCバルセロナだった。

 

クバラの契約の際のエピソードはいくつか語り継がれているが、ある話によると契約の際にクバラは泥酔しており、騙されて契約させられたという。

 

また別の話では、彼がマドリーより打診された契約内容を、そのままバルセロナのフロントへ持ち込んで条件を釣り上げたというものもある。

 

いずれにせよ、彼がどのようにバルセロナと契約したかは大した問題ではなかった。

 

それ以降、クバラと共にバルセロナの黄金時代が到来する。

 

そしてクラバはスペイン代表にも名を連ねた。

エピソード

Skills of Ladislao Kubala

 

現役時代晩年は選手と監督を兼任し、1969年からはスペイン代表監督として10年以上にわたり指揮を執った。

 

プレースタイル

Laszlo Kubala: How A Refugee Became A Barcelona Legend

クバラは天から与えられた創造性とテクニックを持っていた。

 

ドリブル、パス、シュート、トラップとすべてが超一流。

 

さらにクバラは頑強さに加え、敏捷性も持ち合わせていた。

 

殆どのディフェンダーは彼のスピードに置き去りとなり、彼の筋肉が密集した太ももから放たれる強烈なシュートを防ぐことは出来なかった。

また、常に肉体のケアを欠かさず、完璧主義的な側面も持ち合わせていた。

 

美しく弧を描くフリーキックはディフェンスの頭を越え、ゴールに突き刺さった。

 

このようなボールを蹴ることを出来る者は、1950年代には他にいなかったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サミティエル、クライフと並んでバルサの歴史的選手に数えられるのがラディスラオ・クバラです。

 

ハンガリー人の彼は40年代後半に突入した冷戦時代の母国に嫌気が差し、西側諸国への亡命を志します。

 

そしてスペインでの遠征において当時バルサのスカウトだったサミティエルの目に留まるのです。

 

マドリの内部分裂の隙を突いてバルサはクバラを獲得に成功。1950年のことでした。

 

しかし、ハンガリー協会の反対にあい、クバラが正式にバルサに入団したのはスペイン国籍を取得した51/52シーズンになってからです。

 

クバラ24歳、絶頂期でした。

 

その後11年間バルサに在籍し、クバラは第2黄金時代を築き上げます。

 

349試合に出場し272ゴール。

 

現役引退後は2度に渡り監督も務めている伝説の人物です。

 

2002年7月、惜しまれながらバルセロナの病院にて75年の生涯を閉じています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました