概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1935年5月2日(85歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 175cm | ||
体重 | 70kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ)。
利き足は右。
愛称は「ルイジート」、「エル・アルキテクト(建築家)」。
バルセロナとグランデ・インテルの中心選手。
スペイン代表の1964 欧州ネイションズカップ優勝の立役者。
1960年にはスペイン出身選手として初めてバロンドールに選出された。
スペイン史上最高の選手のひとりとみなされており、エレガントで優雅なプレースタイルが特筆される。
獲得タイトル
クラブ
- バルセロナ
- プリメーラ・ディビシオン優勝 (2) : 1958-59, 1959-60
- コパ・デル・レイ優勝 (2) : 1956-57, 1958-59
- インターシティーズ・フェアーズカップ優勝 (2) : 1957-58, 1959-60
- インテル
- セリエA優勝 (3) : 1962-63, 1964-65, 1965-66
- UEFAチャンピオンズカップ優勝 (2) : 1963-64, 1964-65
- インターコンチネンタルカップ優勝 (2) : 1964, 1965
代表
- スペイン代表
- UEFA欧州選手権優勝 (1) : 1964
個人
- バロンドール (1) : 1960
- UEFA欧州選手権ベストイレブン (1) : 1964
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1953-1954 | ![]() |
17 | (3) |
1954-1961 | ![]() |
122 | (61) |
→1954-1955 | ![]() |
? | (?) |
1961-1970 | ![]() |
256 | (42) |
1970-1973 | ![]() |
63 | (9) |
代表歴 | |||
1957-1972 | ![]() |
32 | (14) |
ガリシア地方のア・コルーニャに生まれ、1949年、14歳の時にデポルティーボ・ラ・コルーニャの下部組織であるファブリルSD(Bチームに相当する)に入団した。
1953年12月6日、FCバルセロナ戦でトップチームデビュー。
デポルティーボではパイーニョやアルセニオ・イグレシアスとともにプレーし、1953-54シーズンには17試合に出場して3得点を挙げた。
1954年夏にバルセロナに移籍したが、1954-55シーズンはセグンダ・ディビシオン(2部)のCDエスパーニャ・インドゥストリアルにレンタル移籍した。
1955年にバルセロナに復帰するとレギュラーに定着し、ラディスラオ・クバラ、チボル・ゾルターン、シャーンドル・コチシュ、アントニ・ラマレッツ、エヴァリストなどとともにプレーした。
エレニオ・エレーラ監督が指揮し、1958-59シーズンにはプリメーラ・ディビシオン(1部)とコパ・ヘネラリシモ(現在のコパ・デル・レイ)のダブル(2冠)を達成。
1958年のバロンドール投票では初めてノミネートされ、1959年の投票では4位の22ポイントを獲得した。
バルセロナでレギュラーとして重要な役割を担い続けた彼は、58-59、59-60シーズンと連続してリーグ優勝に大貢献。
当時は宿敵レアル・マドリーが欧州の舞台でも快進撃を続けていた時代であり、この連覇はまさに偉業として称えられた。
スアレスはこれにより、60年の欧州最優秀選手としてバロンドールを受賞。
フェレンツ・プスカシュ、ウーベ・ゼーラーら名選手を抑えての戴冠だった。
しかし、バルサの英雄は61年、このクラブに別れを告げる。
行き先はイタリア。
前年よりインテルを率いていた名将エレニオ・エレーラ(バルサのリーグ連覇は彼の采配によるものだ)が、スアレスの獲得を強く希望したのだ。
もっとも、この移籍劇の背景には、カンプ・ノウ(57年完成)建設で莫大に膨らんだ借金の返済に苦しんでいたバルサの深刻な財政事情があった。
高額の移籍金を目当てに、26歳と旬なクラックの放出を決断したのである。
こうしてインテルの一員となったスアレスは、ここでキャリアのピークを迎える。
“カテナチオ”と呼ばれる堅固な守備網を敷いたチームにおいて、彼は攻撃の指揮者として君臨し、歴史に残る「グランデ・インテル」の創生に大きな貢献を果たした。
2シーズン目に最初のスクデットを獲得すると、翌シーズンにはチャンピオンズ・カップ(現リーグ)に優勝。同年にはインターコンチネンタル・カップも制して世界一にまで昇り詰めた。
しかもインテルはそれを、2年連続で成し遂げる。
国内でも64-65、65-66シーズンとリーグ連覇を果たしたインテルは、まさに無敵のチームであり、このチームの戦術はトレンドとして、イタリア全土に広まっていった。
インテルで黄金時代を謳歌していた彼はこの時期、スペイン代表としても大きな勲章を手に入れる。
初めて出場したメジャーイベント、62年チリ・ワールドカップはグループリール敗退に終わったものの、2年後のヨーロッパネーションズ・カップ(現欧州選手権)では、サンチャゴ・ベルナベウでのソ連との決勝を制し、初の代表タイトルを母国にもたらした。
スアレスはこの大会、準決勝(ハンガリー戦)、決勝ともに、味方のゴールを演出するなど大活躍を見せ、大会ベストイレブンにも選出されている。
こうして、ワールドカップを除けば、その他の全てのタイトルを獲り尽くしたスアレスはインテルに70年夏まで在籍し、73年にサンプドリアでユニホームを脱いだ。
エピソード
現役引退後は指導者となった。
ジェノアCFCのユースチームを指揮した後、1975年に初めて古巣インテルの監督に就任し、インテルでは計3度(最初以外は暫定監督)に渡って采配を振るった。
1980年から1982年にはU-21スペイン代表監督を務め、1988年にはミゲル・ムニョス監督の後任としてスペイン代表監督に就任。
27試合を指揮し、イタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは2次リーグまで勝ち進んだ。
指導者を退いてからはインテルのスカウトなどを務めた。
プレースタイル
伝説のMFで正確にボールをさばくそのテクニックは神がかりと評価されていた。
創造性溢れるエレガントなプレーから「建築家」というニックネームをつけられたスアレスは、チャンスメイクだけでなく、得点力も高い“クラック(天才)”であり、どんな難しいプレーも簡単そうにこなした。
調子の良い時の彼は、ラディスラオ・クバラ、サンドール・コチシュ、ゾルタン・チボールといったチームメイトの名手にも引けを取らないプレーを見せたが、一方でこの偉大な先輩たちとの比較が若いスアレスを苦しめ、安定感に欠けるという一面もさらけ出した。