概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1965年2月5日(55歳) | ||
出身地 | サチェレ | ||
身長 | 172cm | ||
体重 | 68kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は左。
「東欧(バルカン)のマラドーナ」と呼ばれた、ルーマニア史上最高の選手にして1990年代のヨーロッパを代表する選手の一人。
ルーマニア代表の中心選手として、1983年から2000年まで17年間に渡り選出され、3度のワールドカップ出場に導いた。
代表通算35得点はルーマニア歴代最多記録である。
1999年、ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で25位に選出された。
2004年3月、ペレが選んだ『FIFA 100』で同国から唯一選定された。
長男のヤニス・ハジもサッカー選手である。
獲得タイトル
ステアウア・ブカレスト
レアル・マドリード
ブレシア
バルセロナ
ガラタサライ
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個人
- Divizia A top scorer: 1985, 1986
- European Cup top scorer: 1987–88
- Gazeta Sporturilor Romanian Footballer of the Year: 1985, 1987, 1993, 1994, 1997, 1999, 2000
- FIFA World Cup All-Star Team: 1994
- Ballon d’Or: Fourth place 1994
- FIFA XI: 1998
- Turkish Footballer of the Year: 1996, 1999, 2000
- World Soccer Magazine‘s 100 Greatest Players of the 20th century: 1999
- UEFA Jubilee Awards – Greatest Romanian Footballer of the last 50 Years: 2003
- FIFA 100: 2004
- Golden Foot Legends Award: 2015
- Romania Coach of the Year: 2015, 2017
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1982-1983 | ファルル・コンスタンツァ | 18 | (7) |
1983-1987 | スポルトゥル・ストゥデンツェスク | 108 | (58) |
1987-1990 | ![]() |
97 | (76) |
1990-1992 | ![]() |
64 | (16) |
1992-1994 | ![]() |
61 | (14) |
1994-1996 | ![]() |
36 | (7) |
1996-2001 | ![]() |
132 | (59) |
通算 | 516 | (257) | |
代表歴 | |||
1983-2000 | ![]() |
125 | (35) |
クラブ
ルーマニア国内では早くからその才能が注目され、1982年に17歳でファルル・コンスタンツァへ入団。
翌年にはルーマニア代表に選出され、1984年にわずか19歳でユーロ1984に出場。
1987年には国内の強豪ステアウア・ブカレストへ移籍し、1988-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは決勝進出したが、ACミランに4-0と大差で完敗し、準優勝。
ワールドカップ・イタリア大会での活躍が認められ、ユベントス、ACミランなどが争奪を繰り広げたが、スペインのレアル・マドリードへ移籍、90/91シーズンのリーガ第4節のサラゴサ戦でリーガ初ゴールを決める。
91/92シーズン第22節のビルバオ戦でハットトリックを決め、2シーズン目には35試合に出場し12ゴールを記録した。
92/93シーズン、イタリアのブレシアへ移籍、5節のフォッジア戦でセリエA初ゴールを決めたが、チームは停滞してセリエBに降格した。
1994年のワールドカップアメリカ大会終了後にFCバルセロナに移籍。
同じくワールドカップで活躍したストイチコフやロマーリオなどとクライフ監督の下でドリームチームの一員となったが、出場機会に恵まれず本領を発揮出来なかった。
1996年にトルコのガラタサライへ移籍するが、ここで再び往時のプレーを取り戻した。
1996年当時、ハジはクラブ関係者からの強い要請とバルサでの出場機会激減を期にガラタサライに移籍した。
彼はチームのキャプテンとしてだけでなく「サッカー選手としての心得」「プロとしての心得」をガラダサライの選手たちに植え付け、後のトルコサッカー界隆盛の礎を築いた。
2000年のUEFAカップ優勝を成し遂げ、ガラタサライの名とトルコサッカーの名を国際的なものへと押し上げた。
2001年に現役を引退した。
代表
1983年よりルーマニア代表としてプレー。
1990年にはルーマニアを20年ぶりのワールドカップ出場に導いた。
ワールドカップ・イタリア大会ベスト16進出に貢献。
1994年ワールドカップでのルーマニアの躍進であった。
ハジは背番号10、キャプテンとしてルーマニア攻撃陣の核となり、1次リーグ第1戦、バルデラマ、アスプリージャらを擁し優勝候補の一角と目されたコロンビアを3-1で下した。
この試合でハジは2点目のロングシュート(相手GKのポジショニングミスを突いた左サイドからの30mのロングシュート)を始めルーマニアの3点全てに絡む活躍をみせた。
その後もスイス戦でゴールを奪い、決勝トーナメント1回戦で優勝候補のアルゼンチンをハジの1ゴール1アシストの活躍により3-2で下すなど、合計3ゴール4アシスト、ハジを中心としたカウンターアタックで強豪と渡り合った。
1998年ワールドカップ大会出場、予選リーグのコロンビア戦、イングランド戦でアシストを決め、決勝トーナメント進出に貢献した。
2000年のユーロではイタリア戦で退場となった。
エピソード
ハジが一番輝いたのはやはりアメリカW杯だろう。
大会前の評価は決して高くはなかった。
注目選手のひとりではあったが、その評価は「プレーは一級品だが、ムラがあり好不調の波がある」というものだった。
ルーマニアが入ったのは、開催国のアメリカ、コロンビア、スイスと厳しいグループだった。
初戦の相手は優勝候補の一角にも挙げられていたコロンビア。
当時のコロンビアは、カルロス・バルデラマ、フレディ・リンコン、ファウスティーノ・アスプリージャ、アドルフォ・バレンシアなど多くのタレントを擁し、南米らしいテンポのあるパス回しを得意とする注目のチームだった。
最後はフローリン・ラドチョウにスルーパスを出し先制する。
ボールは右サイドネットに突き刺さった。今も”伝説のゴール”としてファンの目に焼き付いているシーンだ。
ハジの1得点2アシストの活躍でコロンビアを3-1で破った。
ディエゴ・マラドーナは大会期間中にドーピング検査にひっかかり追放されていたが、ガブリエル・バティストゥータ、フェルナンド・レドンド、ディエゴ・シメオネなどスター選手が揃っていた。
後半13分には自らシュートを決め、3-2でアルゼンチンを破り、準々決勝進出を決めた。
ルーマニアはPK戦で力尽きた。
だが彼らは、スウェーデン戦は取材に行かないと言う。
「ルーマニアは強いだろう。ハジはすごいだろう。胸を張って帰れるよ」
アメリカW杯のルーマニア代表の総得点は10点。
ルーマニア国内では「ハジを大統領に」という声が上がったほどだ。
ヨハン・クライフのもと、フリスト・ストイチコフやロマーリオとともに”ドリームチーム”の一員となった。
2001年に現役引退後は監督としてガラタサライやルーマニア代表などを指揮したが、現役時の名声にはほど遠い結果しか残せていない。
2007年には古巣ステアウア・ブカレストの監督に就任したが、同年中に辞任した。
クラブ内で強いプレッシャーを感じていたことを理由に挙げている。
その後、2010年10月より再びガラタサライの監督に就任したが、2011年3月、成績不振により解任された。
2009年には、ルーマニア国内に、FCヴィトルル・コンスタンツァというサッカークラブを立ち上げている。
プレースタイル
ゲームメーカーとして中盤に君臨し、左足から放たれる正確なパス、 ドリブルによって多くのチャンスを演出した。
典型的な10番のポジションを得意としたが、時にセカンドストライカーとしてもプレーした。
典型的なレフティで、ゲームをコントロールするのはもちろんのこと、針の穴を通すような正確なスルーパス、相手をあざ笑うかのようなトリッキーなプレー、ドリブル突破、そして自らシュートも狙う。
その多彩なプレーぶりから「東欧のマラドーナ」と呼ばれていた。
また、テクニック、短気な性格、リーダーシップの面でも、キャリアを通じてマラドーナと比較された。