概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1956年3月3日(64歳) | ||
出身地 | ブィドゴシュチュ | ||
身長 | 181cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはフォワード(セカンドトップ)、ミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「ジビ」、「Bello di notte(美しい夜)」。
70年代後半~80年代中盤のポーランドを引っ張り欧州に旋風を起こした名選手。
ユヴェントスで活躍しリーグ戦と国内カップ優勝1回ずつ、チャンピオンズ・カップの決勝に2度進出(うち優勝1回)、カップ・ウィナーズ・カップ優勝1回、とクラブで2度の欧州制覇を果たし同国最高のスターとなりました。
ポーランド代表では1978、1982、1986年と3度のワールドカップ出場に導き、1982年のワールドカップ・スペイン大会ではベルギー戦でハットトリックを決めるなど、4ゴールを挙げ、MVP投票で4位に入る活躍で、チームの3位入賞に貢献した。
また同年のバロンドール投票では第3位に選ばれた。
獲得タイトル
クラブ
ヴィジェフ・ウッチ
- Ekstraklasa: 1980–81, 1981–82
ユヴェントス
- Serie A: 1983–84
- Coppa Italia: 1982–83
- European Cup: 1984–85
- European Super Cup: 1984
- European Cup Winners’ Cup: 1983–84
ASローマ
- Coppa Italia: 1985–86
個人
- Piłka nożna magazine plebiscite: 1978, 1982
- Ballon d’Or: Third place 1982
- FIFA World Cup All-star Team: 1982
- FIFA 100: 2004
- Golden Foot Legends Award: 2009
- FAI International Football Awards – International Personality: 2012
- Italian Football Hall of Fame: 2019
経歴
クラブ1 | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1975-1982 | ![]() |
172 | (50) |
1982-1985 | ![]() |
111 | (20) |
1985-1988 | ![]() |
47 | (10) |
代表歴 | |||
1976-1988 | ![]() |
80 | (24) |
ビドコシュチで生まれ育ったボニエクはすぐに地元のチーム、ザビシャ・ビドコシュチでプレーを開始すると程なくポーランドで偉大なチームの1つであるビジェフ・ウージにスカウトされる。
ここで才能を開花させたボニエクは7シーズン在籍で156試合50得点を記録し、80-81シーズン、81-82シーズンのリーグ戦連覇に貢献した。
代表では1976年3月24日のアルゼンチン戦で代表デビューを飾ると、同年6月11日のアウェイでは初ゴールを記録。
1978年にはW杯アルゼンチン大会メンバーに召集される。
ドイツ、チュニジア、メキシコと同居した1次グループリーグを1位で通過(メキシコ戦で2ゴールを記録)するが、2次グループリーグで最終的に大会優勝を果すことになるアルゼンチンに完敗すると、ブラジルにも破れあえなく敗退となった。
そして4年後のW杯スペイン大会。
ここでも後に大会優勝チームとなるイタリアと1次グループリーグで同居するが1位で勝ち抜け、2次グループリーグに進出。
2次リーグ初戦となったベルギー戦でボニエクはハットトリックを決め完勝。
2次グループリーグを勝ち抜けるが、準決勝にはボニエクは累積警告により出場することが出来ず、再び合いまみえたイタリアに完敗を喫する。
しかし3位決定戦にて復帰したボニエクを先頭にポーランドはプラティニ、ジレス、ティガナ擁するフランスに3-2で競り勝ち堂々の3位を飾った。
このワールドカップ3位入賞を機に、ポーランドの法律により国内でのプレーを強いられていたボニエクはイタリアの名門ユベントスへの移籍が認められ、82-83シーズン、26歳にて海外進出を果たす。
ここで、同シーズンにユベントスに加入したプラティニやW杯得点王となったロッシ等と供に破壊的な攻撃布陣を形成し在籍わずか3シーズンでスクデット、コッパイタリア、カップウィナーズカップ等可能な限りの全てのタイトルに貢献、84-85シーズンチャンピオンズ・カップ決勝では決勝PKを導き出す活躍でクラブ初となる祈願のタイトルに貢献したが、その栄光も「ヘイゼルの悲劇」によって多少影が薄いものとなったのは残念な所である。
ボニエクは週末の夜の試合でいつも素晴らしいプレーを見せたことから“Bello di Notte = Beauty of the Night” とジャンニ・アニエリに名づけられサポーターからもこの愛称で呼ばれ、親しまれた。
85-86シーズンよりローマへ移籍をするとコッパイタリアを獲得。
1986年W杯メキシコ大会ではスタミナにこそ衰えが見られたが高い技術力は色あせておらず、スウィーパーのポジションでチームに貢献した。
エピソード
引退後は指導者の道へ進み、主にイタリアの地方クラブで指揮を執った後に、2002年7月からはポーランド代表監督に就任したが同年12月に退任している。
現在はイタリアの放送局 Rai Due の Domenica Sportiva という番組で解説者を務めている。
プレースタイル
爆発的なスピード、強烈なシュート、そして豊富な運動量を持つ。
とにかく走る選手だった。
また中盤のゲームメイク、パス能力とドリブル能力にも非凡さを見せた。
高速ドリブルに非凡なテクニックを兼ね備え、コースがあれば強烈な大砲を撃ち込むことができるボニエクが織りなすプレーはどれほどのスペクタクルであったであろうか。