概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1968年10月8日(51歳) | ||
出身地 | イモツキ | ||
身長 | 183cm |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、センターハーフ)。
利き足は右。
愛称は「ゾロ・ズヴォーネ」。
クロアチアの英雄。
1992~2001年にミランに在籍しサビチェビッチの後に10番を引き継ぎ4度のリーグ優勝を経験。
代表では98年W杯では、オランダを破り、チームを3位に押し上げた。
獲得タイトル
クラブ
ミラン
- Serie A: 1992–93, 1993–94, 1995–96, 1998–99
- Supercoppa Italiana: 1992, 1993, 1994
- UEFA Champions League: 1993–94
- UEFA Super Cup: 1994
代表
ユーゴスラビア
- FIFA World Youth Championship: 1987
- UEFA European Under-21 Football Championship: 1990 (Runners-up)
クロアチア
- FIFA World Cup: 1998 (Third place)
個人
- FIFA World Youth Championship Silver Ball: 1987
- Croatian Footballer of the Year: 1991, 1999
- Ballon d’Or: 1994 (24th place)
- SN Yellow Shirt Award: 1991
- Franjo Bučar State Award for Sport: 1998, 2002
- AC Milan: The 20 Greatest Rossoneri of All-Time
- A.C. Milan Hall of Fame
- Fair Play Menarini Award 2017
- Globe Soccer Awards 2018: Special Career Award
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1985-1991 | ![]() |
109 | (45) |
1991-2002 | ![]() |
178 | (21) |
1991-1992 | →![]() |
17 | (2) |
2001-2002 | →![]() |
4 | (0) |
通算 | 308 | (68) | |
代表歴 | |||
1988-1991 | ![]() |
8 | (1) |
1991-1999 | ![]() |
51 | (12) |
クラブ
ユーゴスラビアのディナモ・ザグレブでプロデビューし、19歳にしてキャプテンを務めた。
1990年5月13日、クロアチアとセルビアの対立を背景にしたディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合で起こった暴動の際に、セルビア側の警官隊と乱闘を起こし、9か月間の出場停止処分を受け、ワールドカップ・イタリア大会に参加できなかった。
1991年、謹慎が解けると才能を見込まれてセリエAのACミランへ入団。
1年間バーリへレンタル移籍した後、1992年ACミランに正式に加入、当初は外国籍枠に悩まされ、出場は限られた。
1992-93年チャンピオンズリーグ、スロバン戦において直接FKを決め、ミランでの初得点。
1993-94年シーズンは徐々にレギュラークラスの選手となり、リーグ優勝決定のウディネーゼ戦ではボレーシュートを決めるなど、リーグ優勝とチャンピオンズリーグ優勝の二冠に貢献した。
1994年のトヨタカップ、CAベレス・サルスフィエルド戦では決定機を逃した。
ミランでは1995-96年、1998-99年のセリエA優勝にも貢献した。
しかし怪我などで徐々に出番を失い、2001年よりセルタへ移籍したが、アレクサンドル・モストボイの存在もあり、ここでもサブでの出場に限定され、シーズン途中に突如引退した。
代表
ユーゴスラビア代表では8試合に出場して1得点(フェロー諸島戦でクロスを足で流し込み得点)。
1989年に行われた親善試合のブラジル代表戦では後半から途中出場してストイコビッチ、サビチェビッチ、プロシネチキと中盤を組み一緒にプレー。
なお当時のユーゴを代表する4人が一堂に会したのはこの試合だけである。
ユーゴスラビアが解体し、クロアチア代表として臨んだUEFA EURO ’96ではベスト8に進出し、褒賞金を孤児の教育費や戦火で荒廃した故郷の復興費にあてた。
またワールドカップ初出場となった1998年のワールドカップ・フランス大会では日本と同じH組に入り、グループリーグ突破と3位入賞に貢献した。
2001年、リーガ・エスパニョーラのセルタに移籍したが、シーズン終了を待たずして現役引退を表明し、2002年10月7日には引退試合が催された。
引退試合には親交のある元テニスプレイヤーのゴラン・イワニセビッチも出場していた。
エピソード
「チェスは生活の一部」と語るほどのチェス愛好家、また大変な読書家でもある。
さらに大学で歴史を学び博士号を取得するなど、高い知識、見識を備えた人物と見られ、クロアチア国内で大きな人気を集める。
このことから次代のクロアチアサッカー協会のトップを担うと期待されているが、本人は幾度となくその誘いを断っている。
また、前述の暴動の当事者である自らを「純粋な愛国主義者」を称し、サッカーについては「人間の人文、宗教、愛情、芸術などによって、数多くの特徴を備えている」とクロアチア人としての境遇を踏まえて語っている。
ユーゴスラビア紛争の際には「私は100人の政治家にできないことをできる」と自身の表現力を表現した。
現役引退後は、イタリアの放送局で解説者を務めた。
その後、2016年からは国際サッカー連盟(FIFA)の副事務局長に就任。
2019年6月、古巣ACミランの要請を受け、チーフ・フットボール・オフィサー(CFO)として17年ぶりに古巣ミランへ復帰を果たした。
現役時代に同僚であったスポーツディレクターのパオロ・マルディーニと共にクラブの再建を託されたが、即戦力を獲得して現有戦力を強化する方針であったボバンとマルディーニに対し、CEOのイヴァン・ガジディスは若手育成を方針を掲げるなど両者は対立、報道によれば監督兼スポーツディレクターとしてラルフ・ラングニックの招聘を巡って両者の確執は決定的なものとなり、ついにボバンがメディアでカジディスら経営陣を批判するなど確執が顕在化した。
2020年3月、ACミランはボバンとの契約解除を発表し、わずか9ヶ月でミランを去ることになった。
プレースタイル
最高級テクニックと非常に広い視野を持ち、創造的なプレーを得意とする。
華麗なパスワークはもちろん、強引なドリブル突破も魅力。
派手なプレーは多くないが、正確な技術を武器にゲームをコントロールする。
さらに戦術理解度が高く、献身的なディフェンスもこなす近代的な司令塔。
そのため本来のポジションであるトップ下ではなく、左サイドや中盤の底などでプレーさせられることが多かった。
しかし、どのポジションであろうと与えられた仕事はきちっとこなす頼りになる選手。
ACミラン時代には、ゲームメイカー、ボランチ両ポジションで活躍を見せたが、自身はトップ下でのプレーに強い拘りを持つ。