ドラガン・ストイコビッチ

概略

国籍 セルビアの旗 セルビア
生年月日 1965年3月3日(55歳)
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア ニシュ
身長 175cm
体重 73kg

 

ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

愛称は「ピクシー(妖精)」。

 

その類稀な創造性とテクニックで見るものを魅了した。

 

ユーゴスラビア代表では、ユーロ1984出場、 1984 ロサンゼルス五輪(銅メダル)、1988 ソウル五輪出場、1990 FIFAワールドカップ(ベスト8、ベストイレブン選出)、1998 FIFAワールドカップ(ベスト16)、ユーロ2000(ベスト8)進出などに貢献した同国が誇るスーパースター。

 

全盛期であった1994年ワールドカップは母国の内戦が勃発し出場ができなかった。

 

1990年にフランスのオリンピック・マルセイユに移籍し、UEFAチャンピオンズリーグ 1992-93で優勝したが、チームの八百長問題によってタイトルは剥奪されなかったものの、チャンピオンとして活動する権利を失った。

 

1994年から2001年まで日本の名古屋グランパスエイトに所属し、2度の天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝に貢献した。

 

獲得タイトル

ユーゴスラビア代表
  • ロサンゼルスオリンピック銅メダル (1984)
  • 1990 FIFAワールドカップベストイレブン (1990)
レッドスター・ベオグラード
  • プルヴァ・リーガ優勝:2回 (1988, 1990)
  • プルヴァ・リーガ最優秀選手賞:3回 (1988, 1989, 1990)
  • ユーゴスラブカップ優勝:1回 (1990)
  • レッドスター・ベオグラードの5人目の星人に選出 (1990)
  • ユーゴスラビアリーグ MVP:1988、1989
  • ユーゴスラビアフットボールオブザイヤー:1988、1989
オリンピック・マルセイユ
  • ディヴィジョン・アン優勝:1回 (1991)
  • クラブ創立110周年記念のドリームチームの一員に選出 (2010)
名古屋グランパスエイト
  • 天皇杯優勝:2回 (1995, 1999)
  • Jリーグベストイレブン:3回 (1995, 1996, 1999)
  • Jリーグ最優秀選手賞:1回 (1995)
  • 日本年間最優秀選手賞:1回 (1995)
  • FUJI XEROX SUPER CUP優勝:1回 (1996)
  • Jリーグチャンピオンシップ最優秀選手:1回 (1996)
  • Jリーグオールスターサッカー最優秀選手:3回 (1996, 1998, 2000)
  • サンワバンクカップ優勝:1回 (1997)
  • Jリーグ功労選手賞 (2001)
その他
  • Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013)
  • FIFA XI:1991、1998

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1983-1986 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 FKラドニツキ・ニシュ 70 (8)
1986-1990 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター 120 (54)
1990-1991 フランスの旗 マルセイユ 11 (0)
1991-1992 イタリアの旗 エラス・ヴェローナ 19 (1)
1992-1994 フランスの旗 マルセイユ 18 (5)
1994-2001 日本の旗 名古屋グランパスエイト 184 (57)
代表歴
1983-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 41 (9)
1994-2001 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア 43 (6)

 

1965年3月3日、セルビア第2の都市ニシュ近郊に生まれ、3歳の頃からストリートサッカーに興じていたという。

 

14歳の時にFKラドニツキ・ニシュの下部組織に入団し、16歳でトップチームに昇格した。

 

当時のユーゴスラビアにはレッドスター・ベオグラード、パルチザン・ベオグラード(いずれもセルビア)、ディナモ・ザグレブ、ハイデュク・スプリト(いずれもクロアチア)の4つのビッグクラブがあり、それ以外のクラブから代表選手が招集されることは稀だったが、18歳の時にはじめてユーゴスラビア代表に招集され、フランス戦で初出場してミシェル・プラティニとユニフォーム交換をしている。

 

1984年6月2日、代表2キャップ目のポルトガル戦で初得点を記録し、その直後のUEFA欧州選手権1984に出場するもグループリーグ3戦全敗で敗退した。

 

フランス戦では大会最年少得点を記録し、UEFA EURO 2004にてウェイン・ルーニーに更新されるまで破られることはなかった。

 

同年のロサンゼルスオリンピックでは銅メダルを獲得し、大会中に召集令状が届いたためコソボ自治州に派兵されたが、彼が1年間サッカーから離れている間にラドニツキ・ニシュは2部リーグに降格した。

 

プロサッカー選手として活動する傍ら、地元ニシュの大学で経済学を学んだ。

 

1986年にはレッドスター・ベオグラードに移籍し、スタジアムに照明塔を付けられるだけの巨額の移籍金とレッドスターの選手レギュラー5人が対価として支払われた。

 

移籍直後からヴェリボル・ヴァソヴィッチ監督に実力や人間性を高く評価され、レッドスター史上最年少でキャプテンに就任すると、1986-87シーズンはいきなりチームトップとなる17得点を記録、1987-88シーズンにもチームトップ、リーグでも得点王争い2位の15得点を記録しディナモ・ザグレブから移籍してきた若き天才ロベルト・プロシネツキや古巣のラドニツキ・ニシュから移籍してきた親友ドラギシャ・ビニッチとともにプルヴァ・リーガを制した。

 

1988-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップ2回戦ではACミランと対戦し、敗れはしたもののこの2試合で2得点を決め、大会通じで全4試合に出場し3ゴール4アシストの大活躍で自身の名前を西側のクラブに印象付けた。

 

1988年ソウルオリンピックに出場し、3試合に出場して2得点1アシストと活躍した。

 

1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ではフランスを破る得点を決め、8勝2分の成績で本大会出場を決めた。

 

1989年5月には人格・人気・実力を兼ね備えた選手に贈られるクラブの「星人」(Zvezdina Zvezda)の称号を手にした。

 

この称号はクラブに長く貢献した選手への功労賞のような側面を持っており、在籍わずか3年の24歳の若手であったストイコビッチの受賞は極めて画期的なことであった。

 

レッドスターでは1988年から1990年まで3年連続でリーグ最優秀選手に選ばれた。

 

イビチャ・オシムが監督を務めるユーゴスラビア代表の一員として、1990年に自身初のFIFAワールドカップに臨んだ。

 

1990 FIFAワールドカップグループリーグ初戦の相手は西ドイツであったが、ローター・マテウスに完璧に封じられた。

 

コロンビア戦やアラブ首長国連邦(UAE)戦でも本領を発揮するには至らなかったが、決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では直接フリーキックの得点を含む2得点を決め、ガゼッタ・デッロ・スポルト紙の採点で8.5の高評価を受けた。

 

ディエゴ・マラドーナとの背番号10対決となった準々決勝のアルゼンチン戦はPK戦までもつれたが、その1番手として蹴ったキックを失敗し、そのまま敗れて大会を後にした。

 

FIFAワールドカップ前の1990年1月、フランス・ディヴィジョン・アン2連覇中のオリンピック・マルセイユと移籍金500万ポンドで契約を結んだ。

 

当時のユーゴスラビアでは26歳以下の選手は海外移籍することが許されていなかったが、特例で移籍が認められたのであった。

 

フランス代表のジャン=ピエール・パパンやエリック・カントナ、イングランド代表のクリス・ワドル、ガーナ代表のアベディ・ペレなど名選手が揃う中で背番号10を与えられたが、1990-91シーズン開幕早々のFCメス戦で左膝を負傷し、シーズンの大半を棒に振った。

 

サッカー選手人生で幾度もの膝の負傷に悩まされたが、この時の怪我の度合いは引退を考えるほど深刻であった。

 

UEFAチャンピオンズカップ決勝では古巣のレッドスターと対戦したが、試合終了間際の数分間しか出場できず、PK戦の末に敗れて準優勝に終わった。

 

1991-92シーズンは、セリエAの古豪エラス・ヴェローナFCにレンタル移籍したが、イタリアの守備重視の戦術になじめず、怪我の影響もあって不完全燃焼に終わった。

 

再度マルセイユに戻りUEFAチャンピオンズリーグ 1992-93では、決勝でACミランを破り、リーグ戦で5連覇を達成したが、バランシエンヌFC監督のボロ・プリモラツがマルセイユの八百長を告発し、1994年3月23日にディヴィジョン・ドゥ(2部)降格・UEFAチャンピオンズカップ優勝杯剥奪が決定した。

 

クラブは2年間の契約延長を申し出たが、ストイコビッチはそれを拒否し、半年間という期限を定めてヨーロッパを離れる決断をした。

 

ユーゴスラビア代表では、UEFA EURO ’92予選を破竹の勢いで勝ち進み、7勝1敗で通過したが、予選期間中にクロアチアがユーゴスラビアからの分離独立を宣言し、ズボニミール・ボバン、FWダヴォール・シューケル、ロベルト・ヤルニなどの主力選手がクロアチア国籍を取得してチームを去った。

 

代表チームはストックホルム入りして最後の調整に励んでいたが、内戦への裁定として国連が制裁措置を取り、ユーゴスラビア代表はUEFA EURO ’92の出場停止処分を受けた。

 

6月13日、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の名古屋グランパスエイトと年俸(7ヶ月分)5,000万円で契約し、マルセイユには移籍金9,000万円が支払われた。

 

大物外国人として騒がれたガリー・リネカーが十分に活躍できなかったこともあってか、ファンやマスコミはストイコビッチを懐疑的な目で見る者も多かった。

 

かねてより監督に推薦していたアーセン・ベンゲルが1994年11月に監督に就任したため、半年間だけの在籍という予定を変更し、年俸5,500万円で契約を更改した。

 

12月にはユーゴスラビア代表への制裁措置が一部解除されたため、代表の新キャプテンとして12月23日に行われたブラジルとの親善試合に出場した。

 

5月の中断期間に行ったキャンプでベンゲルの戦術が再確認され、1stステージは15勝11敗(中断期間後は9勝1敗)の4位でシーズンを終えた。

 

ベストイレブン投票ではミッドフィールダー部門最多の得票を集めて選出された 2ndステージ開幕戦のジュビロ磐田戦では1得点3アシストの活躍でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

 

ファンは彼のプレーに魅了され、応援団のコールで叫ばれる名前は「ストイコビッチ」から「ピクシー」に変わった。

 

ヴェルディ川崎との直接対決に敗れて優勝は果たせなかったが、17得点29アシストの活躍を見せ、得点王の福田正博に大差をつけてリーグ最優秀選手に選ばれた。

 

天皇杯ではヴィッセル神戸や鹿島アントラーズを退けて決勝に進出し、決勝ではサンフレッチェ広島に3-0で快勝して優勝を果たした。

 

1996年初の公式戦となったゼロックス・スーパーカップでは横浜マリノスと対戦し、2-0で快勝してタイトルを獲得した

 

彼自身は3ステージ連続でリーグ開幕戦に得点し、チームは開幕から7勝1敗と絶好調だったが、急に失速して1stステージを10勝5敗の6位で終えた。

 

5月26日にはキリンカップにユーゴスラビア代表として出場し、キャプテンとして臨んだ日本戦で代表50キャップ目を記録した。

 

2ndステージ途中、9月28日の柏レイソル戦をもってベンゲルが監督を退任したが、最終的には21勝9敗で2位という好結果を残した。

 

ベンゲルは退団の際、契約が切れるストイコビッチをアーセナルに連れて行くことを熱望しく、アーセナルでのプレーの役割、獲得予定の選手について説明するなど、何度も説得を試みた。

 

また本人もアーセナル移籍について考えたが、9月12日にはクラブとの契約を2年延長して残留を選んだ。

 

Jリーグチャンピオン・ファイナルで優勝し、MVPに選ばれた。

 

11月にはアジアカップウィナーズカップに出場して準優勝した。

 

3月2日、サンワバンクカップのD.C. ユナイテッド戦では1得点2アシストの活躍でMLS王者を下した。

 

1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には毎回日本から駆け付け、1位通過はスペインに許したが、プレーオフではハンガリー相手に2試合合計12-1で大勝して本大会出場を決めた。

 

1998年、1stステージは試合ごとの浮き沈みが激しかったが、終盤の追い上げで3位に順位を上げて幕を閉じた。

 

制裁措置解除後初の国際大会出場となった1998 FIFAワールドカップグループリーグのドイツ戦は2-2の引き分けに終わったが、ストイコビッチを中心とした華麗なパス回しでピッチを支配し、自身も1ゴールを決めて、一時は2-0と優勢に試合を進めた。

 

決勝トーナメント1回戦のオランダ戦ではスロボダン・コムリエノビッチの同点弾をアシストするフリーキックを蹴ったが、ロスタイムに決勝点を決められて敗れた。

 

ワールドカップ期間中には欧州のクラブへの復帰が噂された。

 

2001年キリンカップの日本との親善試合でユーゴスラビア代表のユニフォームを脱いだ。

 

この試合後にはユニフォーム交換の依頼が殺到し、彼の人気の高さを改めて実感させた。

 

名古屋ではリーグ戦178試合に出場し、55得点を記録した。

 

そのうちの14得点はペナルティキックによるものであり、6得点はフリーキックを直接決めたものであり、1得点はコーナーキックを直接決めたものである。

 

木村元彦によればアシスト数は95を数え、アシストした回数が最も多いのは岡山哲也である。

 

7年間の間にもらったイエローカードは69枚、退場処分回数は13回(そのうち一発退場回数は3回)に上った。

エピソード

引退直後には名古屋とテクニカル・アドバイザーの契約を締結した。2001年9月には豊田スタジアムの北10番ゲートが「ピクシーゲート」と命名された。

 

10月9日には豊田スタジアムで引退記念試合(名古屋対レッドスター・ベオグラード)を行い、10月30日にはニシュのチャイル・スタジアムにて引退記念試合(ラドニツキ・ニシュ×ヴァルダル・スコピエ)を行った。同年9月にはユーゴスラビアサッカー協会(のちにセルビア・モンテネグロサッカー協会)会長に就任し、2005年にレッドスター・ベオグラード会長に就任するためにサッカー協会会長を辞任した。

 

2004年3月には日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱された。同年7月にはセルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由にパリに移住した。

 

2007年10月12日、「何かを終わりにし、新しいことを始めるちょうどいい時だ」と発言してレッドスター会長を辞任した。

 

2007年秋、名古屋がセフ・フェルホーセンに代わる2008年シーズンからの監督就任を要請。

 

しかし当時ストイコビッチが持っていたUEFAのコーチライセンスは「UEFA A(2004年取得)」で、Jリーグで監督を行なうのに必要なJFAのS級ライセンスに相当する「UEFA PRO」ではなかった為、これが原因で交渉は一時中断。

 

その後、シーズン開始前までにPROライセンス取得への見通しが立った為に交渉は進捗し、2008年1月にストイコビッチはPROライセンスを取得して名古屋の監督に正式に就任した。

 

2015年8月24日、広州富力の監督に就任することを発表した。

 

5シーズン指揮を任されて、一時は浮上したが好成績を残せなかった。

 

2020年1月3日に監督から退任することが発表された。

 

ストイコビッチは大の親日家として知られている。

 

名古屋在籍時の1999年、母国セルビアのバスケットボール選手で、共に出場したロス五輪以来の親交を持つブラデ・ディバッツとの対談が組まれたことがあった。

 

対談は大いに盛り上がり予定時間を超過したが、彼は神社仏閣の美しさからタクシー運転手の親切な振る舞いまで様々な事象を引き合いに出し、「いかに自分と家族が日本を好きか」ということを興奮気味に語り続けたという。

 

ベオグラードの日本大使館員に真剣に一時帰化の相談をしたというエピソードもある。

 

趣味は盆栽で、夏には浴衣を着て家族と寺院で記念撮影をする。

 

名古屋のゼネラルマネージャーとして共に仕事をした久米一正によれば、日本語は既に「ペラペラ」だが、選手と距離を作るために敢えて話さないという。

ストイコビッチは食生活に於いても日本食好きを公言している。

 

名古屋在籍時の1995年、ホテルのバイキングで中西哲生が食べていた納豆に初めてトライし、それ以後は納豆が大好物になり海外キャンプに行くときも納豆を持参するようにクラブにリクエストしていたが、1997年のオーストラリアキャンプで朝食に納豆が出されなかったことに激怒し、クラブスタッフを日本食食料品店に買いに行かせた。

 

名古屋の監督に就任した2008年のキャンプで納豆を食べていなかった福島新太に「納豆を食べろ。(体が)強くなるから」という指示を出したこともある。

 

他にも生卵、うどん、鮎の塩焼き、梅干しなども好物であり、梅干はとりわけ大きくて柔らかい物が好みである。

 

鮎に関しては鮎を食べるために夏季キャンプに行くと言われるほどで、故郷のニシュに似ているという岐阜県飛騨市での約1週間のキャンプ期間中に30匹の鮎を食べたとも語っている。

 

縄張りを持つ鮎の習性になぞらえて選手たちに「鮎のファイティングスピリットを見習え」というアドバイスを送った事もある。

 

日本食に加えてイタリア料理も好んでいる一方で、中華料理などの油を多用する料理は好んでいない。

 

1998 FIFAワールドカップ直前に行われたユーゴスラビア対日本のテストマッチでは、君が代演奏時にブーイングが響いたが、彼がスタンドに静寂を求めると、途端に静かになった。(試合は1-0でユーゴ勝利)

 

これら彼の日本好きというイメージから派生したものではないが、「ストイコビッチ」という名前に漢字を当てた「『須藤彦一(すとう ひこいち)』という日本名を持っている」とのネタが存在し、週刊朝日等の週刊誌で実際にこの話題が取り上げられたことがある。

 

しかしこれは木村元彦が「2000年頃にとあるスポーツ誌に冗談で書いたもので、本人が知るはずもなく事実ではない」とコメントしている。

 

なお名古屋監督退任後の2015年4月、外務省より「日本・セルビア間の相互理解の促進及び我が国のサッカー界の発展に寄与」の理由で旭日小綬章が授与されている。

プレースタイル

ピクシーはブラジル人の言う“クラッキ”で、「違い」を作ることができるアタッカーである。

 

得点とアシストの両面で貢献し、飛び切りクリエイティブなプレーで観客を楽しませる。

 

常に自分が主体となって試合を組み立てることを好み、シンプルなパス回しと変幻自在のドリブルから決定的なパスを狙うプレーが持ち味である。

 

ボールコントロールが巧みでフリーキックも得意である。

 

トラップからキックまで、正確無比なボール扱いによって「違い」を創出してみせたストイコビッチ。

 

かつて“東欧のマラドーナ”と呼ばれたピクシーだが、プレーの雰囲気が近いのはむしろヨハン・クライフだと思う。

 

鋭利なフェイント、正確無比のパス、そして意表を突く数々のアイディア……。

 

ピクシーのプレーはシンプルだ。

 

ドリブルで抜く時もアウトサイドかインサイドでの切り返しのみ。

 

相手の重心移動を見極めて逆を突く眼が素晴らしい。

 

そしてボディバランス。

 

軸のブレない安定感は切り返し後の復元で威力を発揮し、そのバランスの良さはキックの精度にも繋がっている。

 

ショートパス、ボレー、ロングパス、ふわりと浮かすロブ、どれもピンポイント。

 

抜群のスキルが余裕を生み、余裕がアイディアを生んでいた。

 

フィールドで彼だけが別次元にいるようだった。

 

才能の大きさから言えば世界トップクラス。

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