概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1963年7月22日(56歳) | ||
出身地 | マドリード | ||
身長 | 170cm | ||
体重 | 68kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード、セカンドトップ)。
利き足は右。
「エル・ブイトレ」(ハゲワシ)の異名を持ち、当時のスペイン代表、レアル・マドリードを代表する選手の一人。
1980年代後半のキンタ・デル・ブイトレと呼ばれたレアル・マドリードの中心人物であり、2004年にはFIFAとペレが選ぶ「偉大なサッカー選手100人」であるFIFA100にも選ばれた。
獲得タイトル
クラブ
レアル・マドリード
- La Liga: 1985–86, 1986–87, 1987–88, 1988–89, 1989–90, 1994–95
- Copa del Rey: 1988–89, 1992–93
- Copa de la Liga: 1985
- Supercopa de España: 1988, 1989, 1990, 1993
- UEFA Cup: 1984–85, 1985–86
- Copa Iberoamericana: 1994
代表
スペイン代表
- UEFA European Championship: Runner-up 1984
個人
- Bravo Award: 1985, 1986
- Ballon d’Or: Third place 1986, 1987
- Pichichi Trophy: 1990–91
- FIFA World Cup Silver Boot: 1986
- FIFA World Cup All-Star Team: 1986
- FIFA 100
- FICTS Hall Of Fame and Excellence Guirlande d’Honneur
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1982-1984 | ![]() |
65 | (36) |
1984-1995 | ![]() |
341 | (123) |
1995-1998 | ![]() |
91 | (29) |
代表歴 | |||
1983-1984 | ![]() |
5 | (2) |
1984-1994 | ![]() |
69 | (29) |
クラブ
1963年7月22日に、スペインの首都マドリードで生まれる。
幼少期は、両親が経営する香水店の手伝いをしながら、週末には家族や友人とサッカーを楽しんでいる程度であった。
15歳の頃、学校のサッカーで活躍したことをきっかけにアトレティコ・マドリードのトライアルを受けることを勧められる。
アトレティコ・マドリードとの契約をする直前、レアル・マドリードのジュニアチームの監督をしていた家族の友人に、テストをするため結論を伸ばすよう説得された。
そして、テストの結果レアル・マドリードと練習生の契約を結んだ。
その後、練習試合をたまたま見に来ていたルイス・モロウニーは、リカルド・ガジェゴを探しだして「前線でプレーしているあの変な選手は誰だ?どこで見つけてきたんだ?彼は天才だよ」と叫んだという。
1980年にレアル・マドリードとアマチュア契約を交わす。
その翌シーズンからはカスティージャCFでプレーするようになり、1983-84シーズンには2部リーグ優勝を経験する。
そのシーズンにブトラゲーニョはリーグ21得点を記録し、ヘセ・ロドリゲスが2012-13シーズンに22得点を挙げて更新するまでカスティージャにおけるリーグ最多得点となった。
その後、アルフレッド・ディ・ステファノによって1984-85シーズンにカディスCF戦でトップチームデビューを飾る。
2-0でリードを許した状態でサンティリャーナとの交代で後半から出場したブトラゲーニョは、デビュー戦で2ゴール1アシストを記録しチームの逆転勝利に貢献した。
キンタ・デル・ブイトレの5人の中では、マヌエル・サンチス・オンティジュエロ、マルティン・バスケス、ミゲル・パルデサに次いで4番目のデビューであった。
以来翌シーズンからキンタ・デル・ブイトレの中心としてリーガ5連覇など数々のタイトル獲得に貢献。
個人としても1985年、1986年と2年連続でブラヴォー賞に選ばれた。
黄金期の一角を担うとともに1985年、1986年と2年連続で1位こそ逃したものの、バロンドール投票で3位を獲得した。
レアル・マドリードではフアニートが出場している試合は背番号8番などを着用していたが、フアニートの移籍後は背番号7番を継ぎ、その後フアニートと並ぶ背番号7のアイコンの一人となった。
1994年6月15日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで行われたASローマとの親善試合を最後にレアル・マドリードを去り、メキシコのアトレティコ・セラヤへと移籍。
3年間プレーした後、1998年に現役を引退した。
代表
代表では1984年10月17日のウェールズ戦で代表デビューを果たした。
1986年のメキシコW杯ではデンマーク戦で4得点を挙げるなど活躍を見せた。
ワールドカップでの1試合4得点は、イングランドW杯の準々決勝にてエウゼビオが北朝鮮代表を相手に決めて以来の快挙である。
最終的に5得点を記録しディエゴ・マラドーナ、カレカらと並んでシルバーボールに輝いた。
1990-91シーズンには19得点を挙げてリーガ得点王を獲得するとともに、イタリアW杯にも出場。
1994年のアメリカW杯に出場後、17歳でデビューを飾ったラウール・ゴンサレスにポジションを奪われる形となり、1995年は8試合にしか出場できず1ゴールに止まった。
エピソード
レアル・マドリードの練習生に加わったばかりのころ、毎日スクーターで練習に通っていたブトラゲーニョに対し、アルフレッド・ディ・ステファノは「選手は自分の体には気を付けなければならない。何か他の手段で通うべきだ」と諭した。
その後、土曜日の夜に、友人に会うためにベスパに乗っていたところをディ・ステファノに見つかり、罵声を浴びせられた。
その後、ブトラゲーニョはすぐさまバイクを売った。
1988年、レアル・マドリード所属時に自身の名を冠したテレビゲームが発売された。
現役引退後は古巣レアル・マドリードにフロント入りし、かつてのチームメイトであるホルヘ・バルダーノの後任としてスポーツディレクターに就任し強化担当を務めていたが、2006年に会長の交代により退団した。
しかし、2009年にフロレンティーノ・ペレスが会長に復帰したことによりブトラゲーニョも再び役員に就任した。
プレースタイル
サッカー選手としては決して恵まれた体格ではなかったが、並外れたゴールへの嗅覚と反応のよさ、そして一瞬のスピードを武器に活躍し、1990-91年にはリーグ得点王を獲得。
当時のスペイン代表最多得点記録を持つなど高い決定力を誇った。
素晴らしいポジショニングから一瞬で確実にゴールを奪うそのプレースタイルからエル・ブイトレ(はげ鷲)の異名を持つ。
また、フォワードながらパスの技術も高く、他の選手を使うことにも長け、レアル・マドリードで2トップを組んだウーゴ・サンチェスの決定力を最大限に引き出した。
キャリアの中で1枚もレッドカードを受けたことがなく、紳士的なプレイヤーでもあった。