概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1903年2月10日 | ||
出身地 | コズラウ | ||
没年月日 | 1939年1月23日(35歳没) | ||
身長 | 179cm | ||
体重 | 63kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
「紙の男」、「サッカー界のモーツァルト」などの異名がある。
179cm・63kgという細身の体型と、相手ディフェンダーの間をいつの間にかすり抜けてゴールを決めるプレースタイルから、「紙の男」と呼ばれた。
1930年代前半にヨーロッパ最強といわれ、ヴンダーチームと呼ばれたオーストリア代表の中核となった選手であり、現在も多くの人にオーストリアサッカー史上最高の選手と認められている。
獲得タイトル
シンデラーはIFFHSによってオーストリアの20世紀の最高のサッカー選手としてランク付けされ、世界でも22番目にランクされました。
- 1× Austrian football championship: 1926
- 5× Austrian Cup: 1925, 1926, 1933, 1935, 1936
- 2× Mitropa Cup: 1933, 1936
- 1× Central European International Cup: 1932
- 1x FIFA World Cup Silver Ball: 1934
- 1x FIFA World Cup All-Star Team: 1934
経歴
1924-39 FKアウストリア・ウィーン(24-26はウィーンAS)
代表歴 | |||
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1926-1937 | ![]() |
43 |
クラブ
1918年、15歳の時に機械工見習として働きながらASVヘルタ・ウィーンのユースに入団した。
若い頃から膝に持病を抱えており半月板を手術したため、いつも右膝にサポーターを巻いて試合に出ていた。
このことも彼が肉体的接触を避けるプレースタイルを確立していった一因と見られる。
1924年にはウィーンAS(ウィーンアマチュアスポーツクラブ)へ移籍した。
1926年に同チームがFKアウストリア・ウィーンとなってからも、中心選手として2回のミトローパ・カップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身といわれる、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキア、イタリアの4カ国(後にスイスが加わり5カ国)のクラブチームによるカップ戦)優勝などに大きく貢献した。
1933年、シンデラーは、「オーストリア・ウィーン」 の一員として、『ミトローパ・カップ』 (「中欧最強クラブチーム」 を決める大会) を戦い、優勝をした。
イタリアの強豪ユベントス、インテルを倒し、優勝を果たした。
この頃、シンデラーは、欧州最高の選手だった。
(決勝の相手インテルには、ジュゼッペ・メアッツァが居た)
オーストリア・ウィーンは、決勝でのインテル戦で、敵地、第1戦は1-2で敗れた。
しかし、ホームのウィーンでの第2戦は、3-1で勝利し、「2試合、合計得点」 で上回り、優勝をした。
この第2戦で、シンデラーはハットトリック達成をした。
3得点を、1人で全て決めた。
シンデラーは、歴史に残る大活躍で優勝をした。
代表
1926年には初めてオーストリア代表に選出され、中心選手となっていった。
その後、当時の監督であったフーゴ・マイスルに敗戦の責任を取らされる形で代表に呼ばれなくなった時期があったものの、しばらくして復帰した。
1930年代前半、「オーストリアは世界最強」 と言われていた。
シンデラー復帰後のオーストリア代表は、1931年4月から1934年6月までの3年あまりで30試合して21勝6分3敗という結果を残した。
マティアス・シンデラーは、この強かったオーストリア代表チームのエースだった。
1934年イタリアワールドカップにおいてもシンデラーを中心とするオーストリアは優勝候補の一角と見られていたが、準決勝で開催国であるイタリアと当たり、審判の地元有利の判定などもあって0-1で敗れた。
地元イタリアは、この時代、独裁者ムッソリーニが政権を握っていた。
その為、この大会では、審判が買収されていた。
準決勝でイタリアが、オーストリア相手に決めた決勝ゴールは、オーストリアのゴールキーパーを押し倒し、反則して決めたモノだった。
しかし、これがゴールと認められた。
このW杯1934では、イタリア代表を優勝させる為、この試合以外でもおかしな判定が続出していた。
「世界最強オーストリア」 は、独裁者の横暴のせいでW杯敗退した。
シンデラーは、本来ならば、「優勝 & 大会MVP」 で、この大会を終えられたと思う。
彼は、サッカー史に大きな足跡を残したはずだった。
しかし、邪悪な力により夢を潰されたという訳である。
シンデラー自身もイタリアのルイス・モンティ(もともとアルゼンチン人だったが、ワールドカップのためにムッソリーニがイタリアに帰化させた選手の一人)に徹底的にマークされ、ファウルまがいのタックルを受けてケガをするなど、この試合では活躍できなかった。
続く3位決定戦のドイツ戦ではにもケガのため出場できず、2-3で敗戦して4位に終わった。
オーストリア代表は1938年のフランス大会においても予選を勝ち抜き、本戦進出が決まっていたが、オーストリアという国家そのものが1938年3月にナチス・ドイツに併合されて消滅したために参加不能となった。
W杯1938が開催される時、シンデラーは35才だった。
まだ出場できる可能性はあった。
しかし、1938年3月、ナチス・ドイツがオーストリアを占領した為、自国代表が消滅してしまった。
オーストリアは、「W杯出場、辞退」 となった。
「ヨーロッパ最強」と呼ばれ、ニックネームをつけられるほどの代表チームが政治・国家によって強制的に解体された点は、後に1950年代前半に無敵を誇ったハンガリー代表マジック・マジャールが1956年のハンガリー動乱で終焉を迎えたことと共通している。
その後、彼はナチス・ドイツから、「ドイツ代表での出場」 を要請されたが断った。
併合後、元オーストリア代表の中心選手たちは次々と統一ドイツ代表に参加したが、シンデラーは高齢やケガを理由に招聘を断り続けた。
しかし、1938年4月に開催された「統一ドイツ」対「旧オーストリア」戦では、「旧オーストリア」代表のキャプテンとして参加した。
ナチス関係者からの「『統一ドイツ』代表に勝たせるように」という指示を無視して2-0で勝利し、自身も1ゴールを上げるなど活躍した。
シンデラーは、試合に出場する条件としてオーストリア代表のユニフォームをそれまでの紫色から国旗と同じ赤白に変更させたが、この配色は今でも使われている。
1938年12月、対ヘルタBSC戦で1ゴールを上げたのが生涯最後の試合となった。
シンデラーは、W杯1934優勝をムッソリーニに潰されW杯1938出場は、ヒトラーに潰され、独裁者2人の攻撃のせいで人生を狂わされた選手だ。
本来ならば、シンデラーは、「ワールドカップ2回優勝する可能性があった選手」 である。
本来ならば、後世で、もっと高い評価を受けるべき人だが、妨害を受け、結果を残せなかった為、現在、世界のサッカー・ファンから、ほとんど忘れ去られている。
エピソード
1938年12月、対ヘルタBSC戦で1ゴールを上げたのが生涯最後の試合となった。
翌1939年1月23日、自室で死亡しているところを発見された。
公式には一酸化炭素中毒による事故死と発表されたが、周囲の政治状況に絶望しての自殺説、さらには、警察の捜査資料が紛失(公式には第二次世界大戦のため)していることなどから謀略説もささやかれた。
ただし、2004年にオーストリア国内で明らかになったところでは、シンデラーは1938年にウィーン市内でカフェの経営を始めており、これは元々はユダヤ人であった彼が「アーリア人化」を受け入れた、つまり、ナチスへの協力を誓ったために可能になったのではないかと議論されている。
プレースタイル
オーストリア史上最高のストライカーと讃えられる伝説的スタープレーヤー。
1930年代、世界最強を誇った通称「ブンダ-(驚異の)チーム」の中心的プレーヤーで、「紙の男」の異名通り細身ながら相手ディフェンダーの間をいつの間にかすり抜けてゴールを決める。
強力なシュート力、卓越した戦術眼とテクニックを備え一時代を築いた。
シンデラーは、とても器用で、創造性に溢れ、司令塔の才能を持っていた。
また彼は、スピードがあり、ドリブルを得意としていた。
シンデラーは、センターフォワードだったが、中盤に下りて来て、組み立ても担い、司令塔の役割を果たし、チームに創造性、閃きを与えた。(彼は、「偽9番」 の戦術でプレイする選手だった)
シンデラーは、「組み立てと得点、両方をこなす」 スーパーな選手だった。