概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1929年8月16日 | ||
出身地 | エッセン | ||
没年月日 | 2003年8月14日(73歳没) | ||
身長 | 178cm |
ポジションはフォワード(右ウイング)。
利き足は右。
愛称は「ボス」。
ドイツ史上屈指のウイングプレーヤー。
1954年ワールドカップ・スイス大会優勝の中心メンバーの一人。
獲得タイトル
クラブ
- Deutscher Meister: 1955
- Deutscher Vize-Meister: 1960, 1964
- DFB-Pokalsieger: 1953
代表
- Weltmeister: 1954
経歴
クラブレベルではSVアルテンエッセン1912でキャリアをスタート。
1951年から1959年まで在籍したロートヴァイス・エッセンでは1953年にDFBポカール、1955年にはドイツ選手権優勝に貢献するなど成功を収めた。
1954年W杯直前の南米遠征ではウルグアイの強豪ペニャロールを破るなど大きな結果を残し、同国のナシオナルから高額のオファーが届きますが、ヘルベルガー監督の説得もあってチームに残りました。
その後、1.FCケルンやオランダのFCトゥウェンテといったクラブを渡り歩き、1963年にブンデスリーガが創設されたことに伴いMSVデュースブルクへ移籍したが、アキレス腱の怪我が元となって現役を引退した。
代表
西ドイツ代表としては1954年のFIFAワールドカップ・スイス大会、1958年のFIFAワールドカップ・スウェーデン大会に出場するなど国際Aマッチ40試合出場21得点を記録した。
1951年11月21日トルコ戦で代表デビュー。
1954年W杯予選は4試合で1ゴールを挙げます。本戦では4試合に出てハンガリー戦とユーゴスラヴィア戦で1ゴールずつ挙げます。
スイス大会決勝のハンガリー代表戦では0-2でリードされた状況から1点目のモーロックの得点をアシスト。
2-2の同点で迎えた後半終了間際にペナルティエリア外から左足で決勝点を決め同国を初優勝に導く活躍を見せた。
伝説のチーム「マジック・マジャール」に土をつけての優勝でいた。(ベルンの奇跡)
これが第二次大戦に敗れたドイツに希望をもたらす英雄となった瞬間でした(後に、この活躍を題材にした映画も制作されました)。
この大会の後にはアルコールに溺れる生活を送っていたが、1958年のスウェーデン大会に出場するためにコンディションを整え代表に復帰すると、準々決勝のユーゴスラビア戦では1試合4得点を記録するなど、ジュスト・フォンテーヌに次ぐ6得点を挙げ同国の準決勝進出に貢献した。
1958年のバロンドール投票ではフランス代表コパに次ぐ票数を獲得しました。
また、異なるW杯で4ゴール以上決めた史上初の選手となりました。
W杯通算10ゴールは、ペルーのクビジャス、ポーランドのラト、イングランドのリネカーと肩を並べる記録となっています。
エピソード
舞台はスイス・ワールドカップ決勝。
当時33連勝中だった“最強”ハンガリーを相手に逆転勝利を収めた、いわゆる「ベルンの奇跡」だ。
キックオフから8分で2点のリードを許した西ドイツはしかし、たった10分ほどで試合を振り出しに戻す。
立役者は鋭いクロスでモーロックの1点目を演出し、その2分後に同点弾を挙げたヘルムート・ラーンだ。
偉大なる主将フリッツ・ヴァルターと好連係を築いたストライカーは、84分に決勝点を挙げる一世一代の活躍を披露した。
ワールドカップ初優勝を飾ったこの試合の価値を増幅させたのは、第二次世界大戦の傷が癒えていなかった国民を勇気づけたから。
また“嫌われ者”の国家を国際社会に戻す契機に、そして栄光に彩られたドイツ・サッカー史の始まりにもなった。
2003年にドイツで公開された映画『ベルンの奇蹟』では主要登場人物の一人として描かれている。
引退後はサッカー界から離れ、自動車のセールスマンを務めていた。
2003年8月14日に死去、73歳没。
プレースタイル
大柄な体躯を生かしたドリブル突破を持ち味とした。
当たり負けしない体格にタフネスとスピードを備え、強引な突破からチャンスを作るだけでなく、自らもパワフルな右足シュートで多くのゴールを生み出します。
そして左足からもパワフルかつ正確なキックが蹴れました。
また、強いリーダーシップを発揮したことから「ボス」の愛称で呼ばれた。