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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

アマンシオ・アマロ

サッカー

概略

 

 

国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 1939年10月16日(80歳)
出身地 ア・コルーニャ県ア・コルーニャ
身長 176cm

 

ポジションはフォワード(右ウイング)。

 

利き足は右。

 

愛称は「エル・ブルッホ(マジシャン)」。

 

1960年代、「イエイエ・マドリード(Yé-yé Madrid)」と呼ばれていたレアル・マドリードにあってエースストライカーを務めた。

 

獲得タイトル

クラブ

  • レアル・マドリード
    • リーガ・エスパニョーラ:1963, 1964, 1965, 1967, 1968, 1969, 1972, 1975, 1976
    • コパ・デル・レイ:1970, 1974, 1975
    • UEFAチャンピオンズカップ:1965-66
    • ピチーチ賞:1969-1970, 1970-1971

代表

  • スペイン代表
    • 欧州ネイションズカップ:1964

個人

  • スペイン1部リーグ得点王:1968-69, 1969-70
  • スペイン2部リーグ得点王:1961-62
  • UEFA欧州選手権優秀選手:1964
  • FIFA年間ベストイレブン:1968

 

経歴

⑦②/73 Amancio Amaro vs Ajaⓧ
クラブ
クラブ 出場 (得点)
1958-1962 スペインの旗 デポルティーボ・ラ・コルーニャ 92 (54)
1962-1976 スペインの旗 レアル・マドリード 344 (119)
代表歴
1962-1974 スペインの旗 スペイン 42 (11)

 

15歳の時にビクトリアに入る。

 

1958-1959シーズンにデポルティーボ・ラ・コルーニャに移籍、当時2部リーグだったデポルティーボ・ラ・コルーニャを1部に押し上げ、1959年に1部昇格を果たしたデポルティボ・ラ・コルーニャで絶対的スターとして君臨した。

 

その活躍によって多くの強豪チームのスカウトにインパクトを与え、1962-1963シーズンにレアル・マドリードに加入した。

 

当時、欧州チャンピオンズカップ5連覇を成し遂げ、1950年代末には欧州の王者としてみなされていたエル・ブランコでは、その栄光を担った選手たちが引退。

 

クラブは新しいチームを作る必要に迫られていた。

 

同時期にはソコミュラーが入団している。

 

加入後、最初のシーズンでリーガ優勝を経験すると、1966年には欧州チャンピオンズカップも制覇。

 

ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムで行われたパルチザンとの決勝では相手に先制されたものの、自身とセレナのゴールで逆転勝利を収めた。

 

レアル・マドリードでは、リーグ優勝9回、コパ・デル・レイ3回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝などを成し遂げ、自身もレアル・マドリードの選手としてリーグ119得点、その他大会も含めると155得点を挙げ、2度のピチーチ賞に輝いた。

 

1964年のバロンドールでは、デニス・ロー、ルイス・スアレスらに次いで3番目に多い得票数を集めた。

 

代表でも1964 欧州ネイションズカップ、1966 FIFAワールドカップのスペイン代表に選ばれた。

 

1964年にはスペイン代表でも忘れがたいタイトルをつかんでいる。

 

奇しくもホームのサンティアゴ・ベルナベウで行われたソ連との決勝では右サイドでプレー。

 

マルセリーノのゴールで勝利したスペインは、同国史上初の欧州選手権優勝を果たした。

 

1975-1976年に引退した。

 

エピソード

Amancio – Real Madrid

引退後はコーチとしてレアル・マドリードのジュニアチームを1年間指導し、その後ビジネスに専念する決意をしたが、1982年に会長のルイス・デ・カルロスによって再びレアル・マドリードに戻った。

 

「キンタ・デル・ブイトレ」を世に出したことでも知られ、カスティージャ監督を務めた際にはこの世代と共にクラブの伝説の一つとなる。

 

2部リーガ優勝を果たし、栄光に彩られたマドリディスモ時代の幕開けとなった。
レアル・マドリード・カスティージャの監督として将来キンタ・デル・ブイトレと呼ばれるエミリオ・ブトラゲーニョ、ミチェル、マルティン・バスケス、マヌエル・サンチスらを率い、就任2年目の1983-1984年に2部リーグ優勝に導いた。

 

カスティージャでの実績とブトラゲーニョ、マルティン・バスケス、サンチス、パルデサ、ミチェルらの成長を評価され、1984-85シーズンにはファーストチームを7カ月間指揮。

 

その遺産は、のちにルイス・モロウニー監督によって大いに活用された。

 

その後、結果が出せず、監督を辞任した。

 

監督業を辞めた後も様々な分野でクラブに貢献し、スカウトから始まり、フロレンティーノ・ペレス会長 率いる理事会の役員やクラブ創設100周年行事の責任者などを務めている。

プレースタイル

⑥⑦-⑥⑧ Home Amancio Amaro vs Manchester United

右サイドを主戦場としたボールのアーティストは、誰よりもスペクタルとしてのサッカーを理解していた。

 

その卓越したテクニックとスピードで国内外のサッカー界から注目を集めた。

 

マジシャンと言われるくらいファンタスティックなプレーを披露した。

 

また得点力も高かった。

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