概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1983年4月7日(37歳) | ||
出身地 | ブローニュ=シュル=メール | ||
身長 | 170cm | ||
体重 | 72kg |
ポジションはミッドフィールダー(左サイドハーフ)、フォワード(左ウイング)。
利き足は右。
愛称は「スカーフェイス」。
フランスで“ジダンの後継者”といわれた世界最高レベルの技巧派MF。
攻撃的なポジションならどこでもプレーでき、守備でも豊富な運動量で貢献する。
獲得タイトル
クラブ
- ガラタサライ
- トルコ・カップ:1回 (2004-05)
- マルセイユ
- UEFAインタートトカップ:1回 (2005)
- バイエルン・ミュンヘン
- FIFAクラブワールドカップ:1回 (2013)
- UEFAチャンピオンズリーグ:1回 (2012-13)
- UEFAスーパーカップ:1回 (2013)
- ブンデスリーガ:9回 (2007-08, 2009-10, 2012-13, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18, 2018-19)
- DFBポカール:6回 (2007-08, 2009-10, 2012-13, 2013-14, 2015-16, 2018-19)
- DFLリーガポカール:1回 (2007)
- DFLスーパーカップ:5回 (2010, 2012, 2016, 2017, 2018)
個人
- フランス年間最優秀選手:2回 (2007, 2008)
- ドイツ年間最優秀選手:1回 (2008)
- UEFA年間ベストイレヴン:1回 (2008)
- UEFA欧州最優秀選手賞:1回 (2013)
- FIFAクラブワールドカップ ゴールデンボール賞:1回 (2013)
- セリエA月間最優秀選手賞 :(2019年9月)
経歴
クラブ
13歳でLOSCリール・メトロポールの下部組織に入団し、下部組織のブルーノ・トマソン監督に高い評価を受けたが、学業成績不振により16歳の時に家に送り返された。
2001年に地元のUSブローニュからデビューし、2002年にはオランピック・アレスに加入するも、クラブの財政破綻によりスタッド・ブレスト29に移籍した。
この頃にはEAギャンガンのトライアルを受けて不合格になった経験がある。
2004年にリーグ・アン(1部)のFCメスに移籍し、月間MVPを獲得する活躍を見せたが、首脳陣と対立したために2005年1月にはガラタサライSKに移籍した。
2005年夏にオリンピック・マルセイユに移籍し、2005-06シーズンにはリーグ最優秀若手選手賞を受賞した。
2007年6月6日、4年契約でFCバイエルン・ミュンヘンに移籍した。
通訳役を買って出たDFダニエル・ファン・ブイテンなどの助けもあり、すぐにチームになじんだ。
2007-08シーズンはレギュラーとしてリーグ戦で11ゴールを挙げ、ブンデスリーガとドイツカップの2冠を達成し、リーグ最優秀選手に選ばれた。
2009-10シーズンは新加入のアリエン・ロッベンとともに両サイドから攻撃を牽引し、バイエルンの2シーズンぶりのブンデスリーガ優勝に貢献した。
チャンピオンズリーグでもチームの決勝進出に貢献したが、準決勝ファーストレグのオリンピック・リヨン戦でリサンドロ・ロペスのすねを踏みつけ1発退場となった。
結局バイエルンは決勝に進んだものの、リベリーはこのファールにより3試合の出場停止が課され、決勝に出場することができなかった。
2014年12月6日に行われたバイエル・レバークーゼン戦で、マチュー・デルピエールが保持していたブンデスリーガのフランス人最多出場記録を更新した。
また同試合でバイエルンでの100ゴールを達成した。
2018-19シーズンをもって長年プレーしたバイエルン・ミュンヘンを退団する事が発表された。
同シーズンに優勝し、ブンデスリーガの最多優勝記録を作ると共にホームでの最終ゲームでは惜別のゴールを決めた。
また、優勝したポカール決勝のRBライプツィヒ戦では後半終了間際からポカール決勝最多出場者となる8回目の出場を果たした。
2019年8月21日、ACFフィオレンティーナへの加入が発表された。
9月22日のアタランタ戦で移籍後初ゴールを決め、第6節のACミラン戦でもゴールを決め、チームの勝利に貢献し、2019年9月のセリエA月間MVPに選出された。
しかし11月30日セリエA第14節レッチェ戦で悪質なタックルを受け右足首のじん帯を負傷、長期離脱が決定した。
代表
ユース代表の経験は豊富で、2006年5月27日のメキシコ戦でフランス代表デビューした。
2006年にはドイツワールドカップのフランス代表メンバーに選ばれ、グループリーグでは周りと噛み合わない場面もあったものの、決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では、逆転への足掛かりとなる同点ゴールを決めるなど、徐々に調子を上げ、フランス代表の準優勝に貢献した。
UEFA EURO 2008では不振のフランス代表にあって、中心選手として孤軍奮闘したが、フランスの決勝トーナメント進出を賭けたグループリーグ最終戦の対イタリア戦の前半9分にジャンルカ・ザンブロッタと接触した際に、負傷退場した。
その後のフランスは攻撃の要であったリベリーの穴を埋めることができず、エリック・アビダルの退場処分によって人数が少なくなったこともあり、なすすべなく敗北した。
フランスはわずか1得点しか挙げられず、1勝もできずに大会を去ることとなった。
2010 FIFAワールドカップではチームの中心選手として臨んだものの、主将のパトリス・エヴラらとともに練習ボイコットの首謀者とされたりチームメイトのヨアン・グルキュフをいじめたと報じられるなど、不振に終わったフランス代表の戦犯の1人とされ、大会終了後にはフランスサッカー連盟から3試合の出場停止処分が課された。
その後2011年3月に、エヴラとともにW杯後初めて代表に招集されたが、復帰後最初のホームでの試合となった3月29日のクロアチア戦ではサポーターから大きなブーイングを受けた。
2014 FIFAワールドカップは、腰痛のため欠場した。
エピソード
ドーバー海峡に面した港町ブローニュ=シュル=メールで最も貧しいとされるシュマン・ヴェール地域生まれ。
2歳の時に父親の運転する車で事故に遭い、路上に投げ出されたという経験を持つ。
この時に額から右頬にかけてできた傷は今も深く残っている。
整形外科技術の向上により縫合痕を消す事も可能だが本人は「(父との絆の証であり)慣れ親しんでいる」として整形の意思は無い。
オランピック・アレスを離れ、スタッド・ブレスト29に加わるまでの間に建設作業員である父と現場で働いていた。
2005年にムスリムの夫人と結婚し、自身もイスラム教に改宗している。
その夫人とは1男2女を儲けている。
優勝セレモニー時などにおけるシャンパンファイトでは宗派上アルコール厳禁なために、チームメイトがリベリーに浴びせようと追うも、顔を強張らせ全速力で逃げる様子が撮られている。
陽気で外交的な性格であり、ドイツ移住後もすぐにチームやファンに溶け込んだ。
いたずら好きであり、オリヴァー・カーンにバケツ一杯の水をかけたり、チームバスを運転して道路標識にぶつけたことがある。
歴史上最も優れた選手としてはジネディーヌ・ジダンを挙げている。
2014年6月、アメリカの経済誌フォーブスは世界のアスリートの年収を公表した。
リベリーの年収は1830万ドル(約18億7000万円)であり、世界のアスリートの中で92位。
サッカー選手の中では14位。
プレースタイル
いわゆる「走るファンタジスタ」の代表格である。
独力でのドリブル突破で数多くのチャンスを演出することができるほか、「周りを生かす」「周りに生かされる」ことの両方が可能な選手といえる。
また攻撃的ポジションであれば、どこでもこなせる器用さも彼の魅力。
サイドを切り裂きクロスを上げるという従来のウイングに対する固定観念を振り払った選手の一人であり、切り込んであげるクロスも良質だが、ポジションはウイングなのに並外れた運動量とビジョンを活かした絶妙なポジショニングで、PA内でセンターフォワードのように動いてゴールを奪うこともできる。
そのほかトップ下の位置にいたり、ボランチの位置から仕掛けたりと、ウイングとは思えないことをやってのける。
フォワードの位置も得意とし、このポジションでもPA内で味方からのパスを受けドリブルで仕掛けるということはせず、1列下がって守備をする。
それでいて相手DFからボールを奪ったり、味方と連携したりしてドリブルで仕掛け、アシストしたりゴールを決めたりする。
どこに動けばいいか(オフ・ザ・ボール)を熟知していて、その一定のポジションにいることがない選手である。
守備でも献身的なプレーを見せ、ドイツワールドカップでは運動量の少ないジダンの守備力を補った。
それゆえベッケンバウアーやアンチェロッティ等からも賞賛がやまないほどの評価を受けている。