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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

ベルント・シュスター

サッカー

概略

Bernd Schuster, der Blonde Engel [Goals & Skills]
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 1959年12月22日(60歳)
出身地 アウクスブルク
身長 183cm
体重 75kg

 

ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は右。

 

ドイツ人選手としては珍しいファンタジスタタイプで、その華麗なプレースタイルからブロンダー・エンゲル(金髪の天使)の異名を持った。

 

1980年の欧州選手権において、20歳でゲームメーカーを務め、西ドイツの優勝に貢献。

 

同年のバロンドールでは、同じ西ドイツのカール・ハインツ・ルンメニゲに次ぐ2位に、1981年には第3位、1985年にも第3位に選出された。

 

それ以後は代表でのプレーに興味を示さず辞退を繰り返したため、代表出場試合は21試合と少ない。

 

ワールドカップ出場経験が無いために同年代のミシェル・プラティニやジーコらと比べ知名度が低いが、彼らと並び賞される、1980年代、また現在に至るまで世界を代表するゲームメーカーの1人である。

 

獲得タイトル

クラブ

バルセロナ

  • La Liga: 1984–85
  • Copa del Rey: 1980–81, 1982–83, 1987–88
  • European Cup Winners’ Cup: 1981–82
  • Copa de la Liga: 1983

レアル・マドリード

  • La Liga: 1988–89, 1989–90
  • Copa del Rey: 1988–89
  • Supercopa de España: 1989

アトレティコ・マドリード

  • Copa del Rey: 1990–91, 1991–92

代表

西ドイツ代表

  • UEFA European Championship: 1980

個人

  • UEFA European Championship Team of the Tournament: 1980
  • Ballon d’Or: Runner-up 1980 – Third place 1981, 1985
  • La Liga: Don Balón Award for Best Foreign Player: 1985, 1991
  • kicker Bundesliga Team of the Season: 1993–94
  • Goal of the Year (Germany): 1994

 

経歴

クラブ
クラブ 出場 (得点)
1978-1980 西ドイツの旗 1.FCケルン 61 (10)
1980-1988 スペインの旗 バルセロナ 170 (63)
1988-1990 スペインの旗 レアル・マドリード 61 (13)
1990-1993 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 85 (11)
1993-1996 ドイツの旗 バイエル・レバークーゼン 59 (8)
1996-1997 メキシコの旗 UNAMプーマス 9 (0)
代表歴
1977-1979 西ドイツの旗 西ドイツU-18 10 (2)
1980 西ドイツの旗 西ドイツU-21 1 (0)
1979-1984 西ドイツの旗 西ドイツ 21 (4)

 

クラブ

 

1971年にSVハメルシュミーデでサッカーを始める。

 

78/79シーズンに、名門ケルンで10代でプロデビューすると、リトバルスキー、D・ミュラー、奥寺らと共に活躍。

 

プロデビュー前に、すでにユース代表のエースとしてあまりにも有名な存在であった。

 

79/80シーズンには、ケルンをシーズン2位の好成績に導き、さらに自らも10ゴールを挙げ、西ドイツ屈指のプレイヤーとなる。

 

ケルンでは1980年のDFBポカール準優勝(フォルトゥナ・デュッセルドルフに1-2で敗退)を始めリーグ戦64試合出場10得点を記録した。

 

その活躍が認められ、80年の欧州選手権の西ドイツ代表の司令塔に抜擢されると、攻撃陣を華麗に操り、さらに自らも貴重なゴールを決め、欧州チャンピオンの立役者となった。

 

この年のバロンドールではルンメニゲに次ぐ2位の票数を集め、ヨーロッパで最も注目される選手とまでなった。

 

そして、80/81シーズンの途中にはFCバルセロナの一員となった。

 

バルセロナでもその才能を遺憾なく発揮。

 

81/82シーズンには、キーニ、アラン・シモンセン等と共に、カップウイナーズ・カップを獲得。

 

さらに85/86シーズンには、ミケルス時代以来の11シーズンぶりとなるリーグ制覇を果たし、押しも押されぬFCバルセロナの象徴となった。

 

しかし、このシーズンに監督に就任したテリー・ベナブルスとは非常に折が悪かった。

 

翌86/87シーズン、チャンピオンズカップでは順調に勝ち進み、決勝ではルーマニアのステアウア・ブカレストと対戦。

 

バルセロナの圧倒的優位の下馬評の中、ベナブルスはリスクを冒さない、非常に守備的な布陣で決勝に挑んだ。

 

案の定、両チーム得点を挙げることはできず、シュスターは後半の終了間際に交代を命ぜられる。

 

シュスターは、ロッカーで着替えると、そのまま試合終了を待たずに無断で帰宅した。
(バルセロナはPK戦で5本中4本ステアウアのGKドゥカダムにセーブされ敗れている。)

 

この件でベナブルスだけでなく、フロントとの間にも確執が生まれ、87/88には試合に出場試合はゼロ。

 

1年間飼い殺し状態で過ごすこととなった。

 

そういう経緯の中、88/89シーズンには宿敵レアル・マドリードに移籍。

 

白いユニフォームを着たシュスターは、数シーズンに渡る鬱憤を晴らすかのように素晴らしいプレーを披露。

 

ウーゴ・サンチェス、ブトラゲーニョの2トップを見事に操り、レアル・マドリードの4連覇、5連覇に大きく貢献している。

 

さらにその後、スペイン第3の強豪、アトレティコ・マドリードでもプレーしている。

 

スペイン国内の三つのビッグクラブに所属した選手の一人となった。

 

93/94シーズンには13シーズン振りにブンデスリーガに復帰。

 

レバークーゼンでは、それまでの経験を生かしリベロを務め、後方下がり目の位置から巧みなゲームメイクを担当した。

 

長年無冠であったチームに国内カップをもたらし、自らもシーズンのベスト11に選ばれている。

 

95年から再びドイツを離れ、アメリカ、メキシコでプレーした後、現役を引退している。

 

代表としては21試合に出場し、4ゴールを挙げている。

 

代表

 

1979年5月22日のアイルランド戦で代表デビューを飾る(3-1で西ドイツの勝利)。

 

翌1980年の欧州選手権では弱冠20歳ながら抜群の活躍を見せ優勝に貢献したが、1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会は怪我の影響や、ユップ・デアヴァルとの確執もあって参加を辞退した。

 

その後、1984年2月までに21試合に出場したが24歳の若さで代表から退いた。

 

以降は代表入りを頑なに拒否した。

 

1984年に監督に就任したフランツ・ベッケンバウアーからは1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会の予選、本大会と幾度となく代表復帰の要請を受けたが、マネージャーを務める妻の要求した金銭面など条件の折り合いが付かず、辞退する事となった。

 

1994年にはレバークーゼンでの好調なプレーもあってベルティ・フォクツ監督からFIFAワールドカップ・アメリカ大会出場の要請を受けたが、既に34歳という年齢もあってこれを辞退した。

 

エピソード

Bernd Schuster | Real Madrid | 1988-1990

引退後直ぐに指導者の道へ進み、1997年にSCフォルトゥナ・ケルンの監督に就任した。

 

ブンデスリーガの1.FCケルンやウクライナのシャフタール・ドネツク、リーガ・エスパニョーラのレバンテを指揮した後、2005年6月20日にヘタフェの監督に就任。

 

ヘタフェでは2006-07シーズンのコパ・デル・レイ準決勝でFCバルセロナを破り決勝進出に導くと、その手腕が評価された。

 

2007-08シーズンからは古巣レアル・マドリードの監督に就任し、リーガ・エスパニョーラ優勝に導いた。

 

2008-09シーズンは主力の故障が相次いだこともあり、首位バルセロナから勝ち点差9の5位(2008年12月現在)という不振に陥り、2008年12月9日、成績不振を理由に解任された。

 

2010年6月10日、トルコのベシクタシュJKの監督就任が決まった。

 

契約期間は2年。

 

2011年3月15日、成績不振を理由に監督を辞任した。

 

2013年6月14日、マラガCF監督に就任決定。

 

2018年3月19日、大連一方足球倶楽部の監督に就任することが発表された。

プレースタイル

Bernd Schuster – Goles y jugadas en el Atético de Madrid

西ドイツが生んだ最高級のファンタジスタ。

 

シュスターは巧みなボールテクニックと戦術眼で人々の注目を集めた。

 

圧倒的なテクニックと創造性で、ジーコ、プラティニに並ぶ80年代を代表するトップ下と言われている。

 

ドイツ人には珍しい天才肌のゲームメイカーで視野の広さと展開力に優れ、ミドルレンジのパスを得意とし、中盤の底から長短のパスを織り交ぜたゲームメイクを見せた。

 

特に繊細なボールタッチから繰り出される正確無比なパスは、70年代の西ドイツの名プレーメーカー、ギュンター・ネッツァーが誇った「センチメーターパス」を彷彿とさせると言われていた。

 

華麗な身のこなしでDFを次々と交わし自ら得点を挙げるが、正確無比の美しいまでのパスが最高の武器である。

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