概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1976年7月1日(44歳) | ||
出身地 | オス | ||
身長 | 188cm | ||
体重 | 80kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。(利き手は左)
2000年代オランダを代表するストライカー。
オランダ、イングランド、スペインの3つのリーグで得点王を経験し、UEFAチャンピオンズリーグでも3大会で得点王となった。
また、2002年にはIFFHSの世界得点王にも選ばれた。
獲得タイトル
クラブ
- エールディヴィジ優勝 1999-00, 2000-01
- FAプレミアリーグ優勝 2002-03
- リーガ・エスパニョーラ優勝 2006-07, 2007-08
個人
- エールディヴィジ得点王 2回 1998-99, 1999-00
- FAプレミアリーグ得点王 1回 2002-03
- リーガ・エスパニョーラ得点王 1回 2006-07
- チャンピオンズリーグ得点王 3回 2001-2002, 2002-2003, 2004-2005
- FIFA 100
経歴
クラブ
1993年にオランダのクラブチーム・FCデン・ボスでキャリアをスタート。
セントラルミッドフィールダーからセンターフォワードへとコンバートされるとフォワードとして頭角を現し、1996-97シーズンに31試合に出場して12得点を挙げた。
その翌シーズンに36万ユーロでSCヘーレンフェーンへと移籍。
ヘーレンフェーン加入後、ストライカー起用をしようとしたフォッペ・デ・ハーンに対して「あなたは間違ってるよ。僕は純粋なMF」と抵抗し、前線でチャンスを待ち続けなければならないポジションでのプレーに難色を示していた。
しかしデ・ハーンの熱心な指導によってストライカーとして成長し、31試合で13得点を挙げた。
同クラブでのプレーはその1年のみであった。
1998年にPSVアイントホーフェンへ当時のオランダリーグ最高額の移籍金630万ユーロで移籍。
移籍1年目に31得点を記録してエールディヴィジ得点王となり、ヨーロッパ全体でも2番目に多い得点を決めた選手となった。
その活躍からオランダリーグ最優秀選手に選ばれた。
1999-2000シーズンも勢いは止まらず、2年連続でリーグ得点王、リーグ最優秀選手となった。
PSVでの活躍が海外からも注目され、2000年にマンチェスター・ユナイテッドFCが獲得に名乗りを挙げ、アレックス・ファーガソン監督は、ヘーレンフェーンのトライアウトを受ける息子に「すぐにファン・ニステルローイのサインをもらってきてくれ」と頼んだとされる。
また、マンチェスター・ユナイテッドはPSVに代理人を送り、契約を結んだ。
十字靭帯断裂のため移籍は先送りとなり、翌2001年に入団。
マンチェスター・ユナイテッド移籍1年目にアラン・シアラーやティエリ・アンリらと並んでリーグ記録となる8試合連続ゴールを決めるなど23得点を挙げ、プレミアリーグの得点ランクで2位タイにつけた。
また、UEFAチャンピオンズリーグでも10得点を記録し、大会得点王となる。
その年、PFA年間最優秀選手賞にも選ばれた。
翌年もUEFAチャンピオンズリーグ得点王、更に3つのハットトリックを含む25得点でプレミアリーグ得点王に輝くなど、オランダのみならず世界有数のストライカーに成長した。
2004年2月7日エヴァートンFC戦ではクラブ通算100得点を達成し、ミルウォールとのFAカップ決勝ではPKを含む2ゴールを挙げ、タイトル獲得に貢献した。
2004-05シーズンは怪我によりリーグの多くを欠場した。
しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは8得点を記録し、3度目の得点王となる。
2004年9月16日のオリンピック・リヨン戦での得点はマンチェスター・ユナイテッドでのチャンピオンズリーグ29得点目となり、デニス・ローの有していた欧州大会におけるクラブ最多得点記録28を更新した。
2005-06シーズンもゴールを量産し、最終的に得点ランク2位となる21得点を決めたものの、ウィガン・アスレティックFCとのフットボールリーグカップ決勝などを始めベンチで過ごすことが増えた。
ウェイン・ルーニーを主軸にルイ・サハとファン・ニステルローイをチョイスする監督のアレックス・ファーガソンの起用法に反発。
また、クロッサーとしてホットラインを築いていたデビッド・ベッカムの移籍後に同ポジションに収まったクリスティアーノ・ロナウドとそりが合わなかったことなどもあり、2006年7月27日に移籍金1500万ユーロでレアル・マドリードに移籍した。
移籍早々のリーグ第2節レバンテUD戦でハットトリックの活躍をみせると、2006年11月12日のCAオサスナ戦では前半のみでハットトリックを達成し、後半にも1点を追加し計4得点を取るなど、1年目から得点を量産。
優勝がかかった終盤戦でも、31節から37節までウーゴ・サンチェス以来となる7試合連続ゴールを決めた。
これによりチームのリーグ優勝に貢献し、個人としても25得点をあげ得点王となった。
しかし、2007-08シーズンの後半に負傷した際、メディカルスタッフやプレドラグ・ミヤトヴィッチSDの制止にも関わらず、独断でアメリカで手術を行い残りのシーズンをふいにした。
2008-09シーズンにも負傷をしてしまい、診断のためアメリカへと渡った(この時はクラブとの合意を得た上で行った)。
その結果、右膝半月板の損傷とされ、シーズン中での復帰は絶望とされた。
2009年9月20日のシェレスCD戦で80分にクリスティアーノ・ロナウドに代わって復帰を果たし、89分にはゴールも挙げたが、その試合で再び怪我に見舞われてしまい、6週間の離脱を余儀なくされた。
本人はレアル・マドリードで現役生活を終えたいと代理人を通じ語ったが、レアル・マドリードが2009年夏の移籍市場に行った大型補強の結果、出場機会が激減し、2010年1月24日にレアル・マドリードとの契約を解除してハンブルガーSVに1年半の契約で移籍した。
2010年2月6日の1.FCケルン戦で途中出場しブンデスリーガデビューを飾ると、続く同月13日のシュトゥットガルト戦で2得点を挙げた。
3月11日のUEFAヨーロッパリーグラウンド16・ファーストレグのアンデルレヒト戦では、ヨーロッパリーグ初得点を挙げた。
2011年冬の移籍市場で、ゴンサロ・イグアインの離脱によってFWの補強が急務になったレアル・マドリードへのレンタルでの復帰が取り沙汰された。
ファン・ニステルローイ自身もこの移籍には乗り気であり、移籍金の一部を自ら負担する姿勢もみせた。
しかし、HSV側はこのオファーを拒否した。
その影響もあってか、シーズン後半戦はわずか2得点に終わった。
2011年6月2日、大型補強を行っていたマラガCFへの移籍を発表。
フリーでの1年契約であり、約1年半ぶりのスペイン復帰となった。
2011年10月1日のヘタフェCF戦で移籍後初得点を記録した。
2012年5月14日に現役引退を表明した。
代表
オランダ代表には1998年11月19日のドイツ戦で代表デビューを果たす。
2006ドイツワールドカップメンバーにも選ばれたが、監督のファン・バステンの起用法などに不満を持ち、大会終了後には「マルコ(ファン・バステン)がベンチにいる間は代表として戦わない」とその後の代表招集を拒み続ける。
また、EURO2008予選で若手FWの1人だったフンテラールが怪我で出場できない試合があった時にファン・バステンから直接出てくれないかと電話があったが、ファン・ニステルローイは断った。
フンテラールの代役という形が嫌だったらしい。
その後、ファン・バステンと和解し、2007年8月22日のスイスとの親善試合からオランダ代表に復帰している。
2008年8月5日、代表引退を発表した。
しかし、「2010南アフリカワールドカップに出て欲しいと言うのなら、NOとは言えない」と代表復帰を匂わす発言をしている。
また、半月板の負傷により離脱している間には「代表チームから招集されて、W杯でプレーできるように戦いたい」と語った。
2010南アフリカワールドカップは代表選考から漏れ、出場できなかった。
2010年8月30日にロビン・ファン・ペルシの負傷により、代役として2年ぶりに代表に招集された。
9月3日のEURO2012予選のサンマリノ戦で途中出場し2年ぶりの得点も挙げた。
エピソード
オランダ代表のパトリック・クライファートとは生年月日と身長(体重も1キロ差)が全く同じであるが、犬猿の仲であることはよく知られている。
2人のサッカー人生、生まれた環境等も対照的。
2トップを組んだことがあるが全く噛み合わなかった。
本人ではなくクライファートがオランダ代表で先発メンバーだった時に記者会見の場で「僕はパトリック・クライファートのように完成されたセンターフォワードではないがストライカーとしての自信はある」と言い、ポストプレーによるアシストよりも点を取ることの方が得意だと語った。
プレミアリーグでシーズン跨ぎながらも10試合連続ゴールを記録。
これは長らくプレミアリーグの最長記録だった。(15-16シーズン、ジェイミー・ヴァーディが同一シーズン中に更新)
サッカーの他に、テニスと体操をやっていた時期がある。
2007-08シーズンのUEFAチャンピオンズリーググループステージ最終節、ホームでのラツィオ戦終了後、すぐにピッチサイドへと向かい、観客席の女性にユニフォームを手渡した。
その女性はファン・ニステルローイと同郷の余命2か月と宣告されていた重病患者で、お互いに面識はなかったが、彼女の事情を耳にしたファン・ニステルローイの父親がそれを息子に伝え、ファン・ニステルローイがその試合に招待した。
女性はそれを受け取ると、涙を流しながら感謝の気持ちをキスで表現し、泣き崩れる彼女をファン・ニステルローイは、温かい表情で見守った。
プレースタイル
ポストプレーやヘディングだけでなく、ドリブルの力強さやシュートの正確さなどFWとして必要な能力をすべて備えるオールラウンドなストライカー。
圧倒的なシュート技術と天性の得点感覚でゴールを量産したファン・ニステルローイ。
得点率の高さは歴代のストライカーの中でも指折り。
そんなファン・ニステルローイは、メッシやロナウドのようにスプリントで勝負するタイプの選手ではなかった。
トラップやボレーの技術が異様に高く、右足同様に左足でもコントロールができ、ヘディングも強い…。
あくまで味方選手がいて初め活きるタイプのストライカーであり、オールラウンダータイプの点取り屋であった。
要は典型的なセンターフォワードです。
大柄で足元のテクニックにも優れます。
テクニックに優れている点はオランダ人らしいです。
ポストプレーがうまく、前線で起点となれます。
空中戦に強く、ゴール前でのゴールにつながるプレーは何でもできます。
真骨頂は足元のトラップの柔らかさであると思います(特に足首)。
DFを背負ったままゴールを背にしてボールを受け、トラップから振り向き際のシュートが最も素晴らしいと思います。
シュートテクニックのすごさはファンバステンにも匹敵しうるものがあります。
ただ、足の速さは並で、ドリブルもすごいわけではありません。
そのため単独での突破力や、カウンターからドリブルで独走するなどのプレーは専門外です。