概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1960年11月30日(59歳) | ||
出身地 | レスター | ||
身長 | 177cm | ||
体重 | 74kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「リンクス(山猫)」。
母国イングランドにおいても最高峰に位置する生粋のストライカー。
獲得タイトル
Club
レスター・シティ
- Football League Second Division: 1979–80
エヴァートン
- FA Charity Shield: 1985
バルセロナ
- Copa del Rey: 1987–88
- European Cup Winners’ Cup: 1988–89
トッテナム・ホットスパー
- FA Cup: 1990–91
- FA Charity Shield: 1991 (shared)
代表
- イングランド代表
- FIFA World Cup fourth place: 1990
個人
- English Second Division Top Scorer: 1982–83
- English First Division Top Scorer: 1984–85, 1985–86, 1989–90
- PFA Players’ Player of the Year: 1985–86
- FWA Footballer of the Year: 1985–86, 1991–92
- FIFA World Cup Golden Boot: 1986
- FIFA World Cup All-Star Team: 1986
- Onze de Bronze: 1986
- Ballon d’Or: Runner-up 1986
- FIFA Fair Play Award: 1990
- FWA Tribute Award: 1997
- FIFA World Player of the Year: Bronze award 1991
- FIFA 100
- English Football Hall of Fame: 2003
- PFA Team of the Century (1977–1996): 2007
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1978-1985 | ![]() |
194 | (95) |
1985-1986 | ![]() |
41 | (30) |
1986-1989 | ![]() |
103 | (42) |
1989-1992 | ![]() |
105 | (67) |
1992-1994 | ![]() |
18 | (4) |
代表歴 | |||
1984-1992 | ![]() |
80 | (48) |
クラブ
青果商の息子として生まれ、1974年に地元のクラブチーム・レスター・シティに入団。
1984-85シーズンはレスター・シティで24得点で得点王を獲得、1985-86シーズンはエヴァートンで30得点で得点王を獲得し、FWA年間最優秀選手賞を受賞した。
1986-87シーズンからヨハン・クライフが監督を務めるFCバルセロナに移籍、本来のセンターフォワードではなくウイングとしてプレーしたが、103試合出場42ゴールの成績を残した、1986-87シーズン1月31日のレアル・マドリード戦ではリネカーのハットリックで3-2とクラシコに勝利した。
1988-89シーズン、UEFAカップウィナーズカップでは準決勝、CSKAソフィア戦の1stレグでは1ゴールを決め、2ndレグでも1ゴールと決勝進出に貢献、決勝でサンプドリアを破り優勝を果たした。
1989-90シーズンからトッテナムに移籍、同シーズンは24得点を挙げ、3度目の得点王を獲得、1990-91シーズン、決勝でノッティンガムを2-1と破りFAカップで優勝した。
1991-92シーズン、得点王のタイトルを逃したが、28ゴールを決めて、FWA年間最優秀選手賞を受賞した。
1993年のJリーグ開幕時に名古屋グランパスエイトに移籍。
当時のJリーグ最高年俸(3億円)だった。
トッテナム在籍時のチームメートであるポール・ガスコインとの対決として注目を集めた、開幕前のプレシーズンマッチのラツィオ戦では、決勝ゴールを決め 、グレミオ戦でも2試合連続ゴールと、好調を維持していた。
Jリーグ開幕戦は、ジーコを擁する鹿島アントラーズとの対戦ということで、スタープレーヤー同士の対決として大きな注目を集めたが、0-5と大敗、リネカーもノーゴールに終わった。
5月26日の横浜フリューゲルス戦でJリーグ初ゴールを決めたが、怪我の影響で、まともに出場すら出来ず、リーグ戦においては1年目唯一のゴールとなった。
リーグカップでは、9月10日の清水エスパルス戦で1ゴール、9月25日の横浜マリノス戦で2ゴールを決めた。
1994年シーズン、リネカーは1stステージをほぼ全休したが、最終節のサンフレッチェ広島戦で途中出場して復帰した。
2ndステージから加入のストイコヴィッチとのコンビでの活躍が期待された。
2ndステージの開幕戦となったサンフレッチェ広島戦でこそ共に先発出場したが、ストイコヴィッチはイエローカード2枚で退場になるなど、初年度はチームに馴染まず14試合の出場に留まり、リネカー自身も怪我の影響で常時出場が出来なかったことで、共にプレーしたのは僅か4試合であった。
8月13日のジュビロ磐田戦でシーズン初ゴールを決めて勝利に貢献、9月3日の鹿島アントラーズ戦、9月7日のヴェルディ川崎戦と2戦連続ゴールを決めるも、以降も常時出場が出来ず、シーズン最終戦のサンフレッチェ広島戦では先発し51分までプレーしたが、ゴールを奪えず、ヴェルディ戦のゴールが現役生活ラストゴールとなった。
同年をもって現役を引退した(リーグ戦通算18試合出場4得点)。
代表
1984年5月26日のスコットランド戦にてイングランド代表に初招集され、1985年3月26日アイルランド戦で初ゴールを決める。
1986年のワールドカップ・メキシコ大会では直前に手首をケガしギプスをつけた状態で出場、一次リーグ最終戦のポーランド戦で前半だけでハットトリックを達成、準々決勝のアルゼンチン戦でもゴールを決めるなど、6得点を挙げて得点王に輝き、同年のバロンドール投票では第2位に選ばれた。
1990年のワールドカップ・イタリア大会では、準決勝の西ドイツ戦でゴールを決めたが、延長PK戦の末破れ、決勝進出を逃したが、リネカーは4得点を挙げた。
その大会以降はブライアン・ロブソンの後を継ぎ主将をつとめた。
イングランド代表通算歴代2位の48得点で迎えた1992年5月17日に行われたブラジルとの親善試合では自ら得たPKを外し、歴代1位のボビー・チャールトンの代表49得点に並ぶことはできなかった。
直後に行われたUEFA EURO ’92でも得点を記録できないままにイングランド代表から引退した。
イングランド代表通算80キャップ48得点。
ワールドカップ通算12試合出場10得点。
現役通算333得点。
20年間の現役生活通算568試で一度もレッドカードはおろかイエローカードすらもらったことがなかった。
1990年の「FIFAフェアプレー賞」を受賞している。
エピソード
古巣のレスター・シティへの想いは今なお強く、2002年に同チームが経営破綻した際には私財を提供し救った。
また2015-16シーズンのレスターの快進撃の最中、同年12月には自身のtwitterで「もしレスターが優勝したら、次シーズン初回の『MOTD』にパンツ一丁で出演する」と宣言。
結果的にレスターは周囲の予想を裏切り、快進撃そのままにリーグ優勝を達成。
「パンツ一丁」発言が現実のものとなるか注目を浴びたが、2016-17シーズンが開幕してすぐの2016年8月13日のMOTDで、宣言通りレスターのエンブレム入りのトランクス姿で番組に登場した。
ファンからブリーフ姿を期待していたとの不満をもらったが、自身のtwitterで「トランクスだって下着だよ。十分恥ずかしかった。」とつぶやいた。
プレースタイル
ポジショニングの良さと得点感覚に優れ、リンクス(山猫)に例えられる俊敏な動きで、ゴール前に飛び込んだストライカー。
絶妙なポジショニングで気づけばゴールを量産する。
周囲から最高のボールを引き出す術にも長けている。
肉体的な能力は平均水準かもしれないが、あらゆるラストパスに点で合わせる空間認識能力とゴールビジョンは全てのDFを恐怖に陥れた。
86WCで大会得点王に輝く活躍を見せ、生涯を通じて警告カードを受けなかった、紳士的なプレースタイルでも知られる。