概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1933年10月21日(86歳) | ||
出身地 | グアルニソ | ||
身長 | 171cm |
ポジションはフォワード(左ウイング)。
利き足は左。
愛称はパコ(Paco)、カンタブリアの突風(Galerna del Cantábrico)。
現役時代、レアル・マドリードにて1950-60年代にアルフレッド・ディ・ステファノやフェレンツ・プスカシュらと共に6度チャンピオンズカップを制した。
ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で82位に、国際サッカー歴史統計連盟の20世紀世界最優秀選手ではジュスト・フォンテーヌと並んで30位に選出された。
獲得タイトル
- スペイン代表
- 欧州ネイションズカップ: 1回 (1964)
- レアル・マドリード
- ラ・リーガ: 12回 (1953-54, 1954-55, 1956-57, 1957-58, 1960-61, 1961-62, 1962-63, 1963-64, 1964-65, 1966-67, 1967-68, 1968-69)
- トロフェオ・デル・ヘネラリッシモ: 2回 (1962, 1970)
- UEFAチャンピオンズカップ: 6回 (1955-56, 1956-57, 1957-58, 1958-59, 1959-60, 1965-66)
- インターコンチネンタルカップ: 1回 (1960)
- ラテン・カップ: 2回 (1955, 1957)
個人
- World Soccer World XI: 1960, 1961, 1962
- Golden Foot Legends Award: 2004
- World Soccer: The 100 Greatest Footballers of All Time
- IFFHS Legends
経歴
クラブ1 | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1952-1953 | ![]() |
10 | (2) |
1953-1971 | ![]() |
428 | (126) |
代表歴 | |||
1955-1969 | ![]() |
43 | (5) |
ラーヨ・カンタブリアなどでユース時代を過ごし、1952-53シーズンにラシン・サンタンデールの選手としてプリメーラ・ディビシオンにデビューした。
その翌シーズンにはレアル・マドリードと契約を結んだ。
以降ディ・ステファノ、リアル、コパ、プスカシュ、エヴァリストなどと強力な布陣を組んでリーグ通算427試合128得点の成績を残し、12回のリーグ優勝を達成しました。
レアル・マドリードでは、いずれも個人では単独での歴代最多記録となる12回のリーガ・エスパニョーラ優勝と6回のUEFAチャンピオンズカップ優勝、さらにパオロ・マルディーニと並んで最多記録となる8回のUEFAチャンピオンズカップ決勝への出場を果たした。
レアル・マドリードではクラブ記録となる23個のタイトルを獲得した。
1950年代にはアルフレッド・ディ・ステファノらを擁した第1次黄金期の一員としてチャンピオンズカップ5連覇を達成。
とりわけディ・ステファノからの信頼は厚く、移籍直後は他クラブにレンタルされる予定だったヘントをレアル・マドリードに留まらせ、さらにプレーしやすいようにエクトル・リアルの獲得もクラブに進言した。
1960年代中頃には、すっかり選手が入れ替わってピッリ、アマンシオ・アマロら若手選手が多く、俗にイエイエ・マドリードと呼ばれたチームにあって9シーズンの間キャプテンを務め、1966年に数年ぶりのチャンピオンズカップ優勝を果たした。
チャンピオンズカップでは1955年から1969年までの間に通算43試合に出場して5得点を挙げた。
国内でもリーグ優勝を12回も経験した他、長年にわたって数多くのタイトル獲得に貢献。
シーズン2桁得点を10シーズン記録し、1965-66シーズンにはチーム得点王となった。
また、1955年にスペイン代表に初招集され、その後も長年活躍した。
ワールドカップにも2度出場し、代表キャップ数43は当時のスペイン最多出場記録だった。
晩年は、武器であるスピードが衰えてなお強力な選手であり続けた。
エピソード
チャンピオンズカップ5連覇のうち最も苦労したと言われる第3回大会決勝では、「ディ・ステファノのファイナル」と呼ばれるほど孤軍奮闘し、疲弊し切ったディ・ステファノが延長時に「もう決められるのはお前しかいない、お前が決めろ」と話し、その後ヘントが決勝点を奪ってクラブを優勝に導いたという逸話もある。
フリオ、アントニオという2人の弟もサッカー選手であり、レアル・マドリードでプレーしていたこともあったが、兄のフランシスコほどの成功は手にできなかった。
甥であるフランシスコ・ジョレンテやその息子であるマルコス・ジョレンテもレアル・マドリードに所属したサッカー選手である。
プレースタイル
「カンタブリアの疾風」の異名通り、100m11秒フラットのスピードを活かした突破に得点力も兼ね備えています。
小柄であったが体が強く、卓越した俊足を持つだけでなく技術にも優れ、左ウイングとしては比較的高い得点能力も併せ持っていた。