概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1976年9月26日(43歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 189cm | ||
体重 | 85kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「小皇帝」。
2000年代ドイツを代表する選手。
つねに2位になることが多く“シルバー・コレクターをいわれることもある。
獲得タイトル
個人
- ドイツ年間最優秀選手賞 3回(2002, 2003, 2005)
- UEFA年間最優秀MF賞; 2001-02
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー: 2002
- FIFA100
- FFIFU; 2001-02, 2005-06
- バロンドール; ノミネート 2002, 2003, 2005, 2006, 2008
- 2002 FIFAワールドカップ; FIFA選出ベストイレブン
- UEFA EURO 2004; オールスターチーム選出
- FIFAコンフェデレーションズカップ2005; シルバーシューズ賞
- 2006 FIFAワールドカップ; オールスターチーム選出
- 銀のローレル(2006)
- UEFA EURO 2008; オールスターチーム選出
- Tor des Jahres; 2008 対オーストリア戦
代表
- 2002 FIFAワールドカップ 準優勝
- キリンチャレンジカップ 2004
- FIFAコンフェデレーションズカップ2005 3位
- 2006 FIFAワールドカップ 3位
- UEFA EURO 2008 準優勝
クラブ
カイザースラウテルン
- ブンデスリーガ優勝 1回(1997-98)
バイヤー・レバークーゼン
- サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ) 2位(2001-02, 2010-11)
- DFBポカール 準優勝(2001-02)
- UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02 準優勝
バイエルン・ミュンヘン
- ブンデスリーガ優勝 3回(2002-03, 2004-05, 2005-06)
- DFBポカール優勝 3回(2002-03, 2004-05, 2005-06)
- DFLリーガポカール優勝 1回(2004)
チェルシーFC
- プレミアリーグ優勝 1回(2009-10)
- FAカップ優勝 3回(2006-07, 2008-09, 2009-10)
- カーリングカップ優勝 1回(2006-07)
- コミュニティーシールド優勝 1回(2009)
- UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08 準優勝
経歴
クラブ
1997年、ブンデスリーガ・1.FCカイザースラウテルンに入団。
2年目よりレギュラーとして定着し、能力の高さを発揮する。
1999年にバイヤー・レバークーゼンへ移籍するとドイツ代表にも招集された。
2001-02シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ・国内リーグ・国内カップ戦でそれぞれ準優勝に貢献した。
2002年にはブンデスリーガの強豪クラブであるバイエルン・ミュンヘンに加入し、中盤の核として活躍。
その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・フランツ・ベッケンバウアーの後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「皇帝」に準え、バラックは「小皇帝 (kleiner Kaiser) 」と呼ばれていた。
2006年5月、プレミアリーグのチェルシーFCに移籍。
2007年4月、ニューカッスル戦で相手選手との接触により左足首を負傷。
以降、2度に渡って手術を行い、8ヶ月の戦線離脱となる。
しかし、足首の負傷が完治した2007年12月以降はパフォーマンスも向上し、完全に復調。
イングランドのスタイルにも適応し、チャンピオンズリーグではクラブ史上初の決勝進出への原動力となった。
2009-10シーズンは32試合に出場し、チェルシーの4シーズンぶりのプレミアリーグ優勝に貢献。
しかし、シーズン最終戦であるFAカップ決勝のポーツマスFC戦で、ブンデスリーガ時代から因縁があったケヴィン=プリンス・ボアテングに右足首を踏みつけられた際に靭帯を痛め、2010 FIFAワールドカップ出場が絶望となった。
チェルシーでは4シーズンでリーグ戦105試合に出場した。
2010年夏、契約満了によりチェルシーを退団、同年6月25日にブンデスリーガの古巣バイヤー・レバークーゼンへ復帰した。
2012年6月末でレバークーゼンとの契約が満了し、2012年10月に弁護士を通して現役引退を発表。
2013年6月5日、ライプツィヒにて、かつての同僚や友人が集まる中で引退試合が開催された。
2000年代を代表する選手の一人であり、長らくドイツ代表の中心選手であったが、国際タイトルとは無縁のまま引退することとなった。
代表
1999年4月28日のスコットランド戦で代表デビューを果たす。
2002 FIFAワールドカップ準決勝の韓国戦では、イエローカードをもらうと累積警告で決勝に出場できなくなることを知りながら、味方のミスをカバーするために戦術的ファウルを犯し、イエローカードをもらう。
直後にチームを決勝へと導くゴールを挙げた。
欠場した決勝には敗れて準優勝に終わった。
バラックは大会最多となる4アシストをマークした。
ユルゲン・クリンスマンが2004年に代表監督に就任すると東ドイツ出身の選手として初めてキャプテンに指名された。
自国開催となる2006 FIFAワールドカップでは得点こそできなかったが、その構成力とキャプテンシーで自国を3位に導く活躍を見せた。
EURO2008ではグループリーグのオーストリア戦で決勝点を挙げるなどチームの準優勝に貢献した。
2010 FIFAワールドカップは、前述5月の負傷により欠場となった。
ポーツマスMFのケヴィン=プリンス・ボアテングによるタックルによるもので、右足首靭帯断裂と診断された。
2011年6月には、ドイツサッカー連盟から代表引退が発表された。
しかし、バラック自身はこの発表に不満を持っており、引退試合への出場も拒否した。
エピソード
パラグアイで長年守護神を務めたチラベルトが、日韓W杯のラウンド16で対戦した元ドイツ代表MFバラックについて「体臭がひどかった」と述べている。
「バラックの体臭はとてもひどかったね。試合中はバラックに近づくこともできなかった」
「彼はもっと消臭スプレーを使うべきだったと思うが、もしかするとそれもドイツ代表の戦術だったのかもしれない。だって、あまりの臭いにマンマークすることさえ難しいんだからね」
パラグアイは2002年の日韓ワールドカップに出場し、スペイン、南アフリカ、スロベニアと同組のグループBを2位通過。
ラウンド16ではドイツと戦ったが、0-0で迎えた88分にオリヴァー・ノイヴィルに先制ゴールを許し、0-1で敗れている。
プレースタイル
ピッチ全体から攻撃のチャンスを見つける広い視野とパス、ドリブル、シュートなどに優れてテクニックを持つ。
大柄な体を生かした高いキープ力と強靭なフィジカルを持ち、ピッチ上のあらゆる場所から試合を組み立てる能力を持つ。
また長短のキックの精度も非常に精密であり、アシスト能力も高い。
攻撃能力についても強烈なミドルシュート、高い打点のヘディングで相手を粉砕する。
ミッドフィールダーながらフォワード並の得点力を備えている数少ない選手でもある。
リーチを活かしたボール奪取や。ロングレンジのパス、オーバーラップからのミドルシュートが最大の武器。
しかし、スピードについては自ら不足を認めている。
左右キックが正確なのは、ユース時代に徹底的に練習したため。
ヘディングの上手さは歴代 ミッドフィルダーの中でも屈指である。