概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1939年7月21日 | ||
出身地 | アウクスブルク | ||
没年月日 | 2012年10月11日(73歳没) |
身長178cm。
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
「ブロンドの稲妻」の愛称を持つ。
1960年代ドイツを代表する選手。
主にイタリアを舞台に活躍を続けた。
獲得タイトル
クラブ
ボローニャ
- Serie A: 1963–64
ユヴェントス
- Serie A: 1971–72, 1972–73
- European Cup: Runner-up: 1972–73
- Inter-Cities Fairs Cup: Runner-up: 1971
- Coppa Italia: Runner-up: 1972–73
アウクスブルク
- Regionalliga Süd: 1973–74
代表
西ドイツ
- FIFA World Cup: Runner-up 1966, Third-place 1970
経歴
ハーラーは1957年に故郷のFCアウクスブルクで選手キャリアをスタート。
1962年にイタリアのボローニャFCへ移籍し、翌1963-64シーズンのスクデット制覇に貢献。
1968年からは強豪のユヴェントスへ移籍し、2度のスクデット獲得(1971-72、1972-73)に貢献するなど、主にイタリアを舞台に活躍を続けた。
晩年は、再びFCアウクスブルクへ戻り1979年に現役を引退した。
西ドイツ代表としては、1958年9月24日のデンマーク戦で代表デビューを飾った。
そして1962年のFIFAワールドカップ・チリ大会、1966年のFIFAワールドカップ・イングランド大会、1970年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会と3大会連続出場を果たすなど、国際Aマッチ33試合13得点を記録した。
1966年イングランド大会では西ドイツの準優勝に貢献、決勝のイングランド戦では最初の得点を記録した(試合は2-4で敗退)。
エピソード
60年代のドイツを代表する選手のひとりであった彼は、1939年、宗教和議で有名なアウグスブルクに生まれた。
9歳の時から13年間、地元のFCアウグスブルクでプレーし、1962年からはイタリアのFCボローニャに移籍した。
ドイツ人選手が外国に移籍するのはまだ珍しい時代であり、「外人部隊」のはしりといえる。
後にはユベントスに移り、そこでも大活躍した。
1966年の西ドイツ代表では、ハーラーも含め、カール・ハインツ・シュネリンガー、アルベルト・ブリュルスと計3名の選手が、イタリアのクラブチームに所属していた。
背景には、イタリアに比べてプロ化の遅れたドイツサッカーの国内事情がある。
2006年12月26日、ハーラーは重い心筋梗塞を患い集中治療室へ送られた。
懸命な治療の結果により容態は回復した。
2012年10月11日、死去。
73歳没。
プレースタイル
スピード豊富なプレーヤーで主に攻撃的なMFとして活躍したが、高い得点能力ゆえWGとしてもプレーした。
パス、ドリブル、シュートと攻撃的な基本スキルのレベルも高かった。
特にパスの技術が高く、長短織り交ぜたパスでゲームメイクをした。