概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1961年11月12日(58歳) | ||
出身地 | モンテビデオ | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「エル・プリンシペ(王子様)」。
1980年代ウルグアイを代表するファンタジスタ。
華麗なプレーと甘いルックスでファンを魅了した。
獲得タイトル
代表
- ウルグアイ代表
- 南米ユース選手権 : 1981
- コパ・アメリカ : 1983, 1987, 1995
クラブ
- CAリーベル・プレート
- アルゼンチン・リーグ : 1985-86, 1994アペルトゥーラ, 1996アペルトゥーラ, 1997クラウスーラ, 1997アペルトゥーラ
- コパ・リベルタドーレス : 1996
- スーペルコパ・スダメリカーナ : 1997
- オリンピック・マルセイユ
- リーグ・アン : 1989-90
個人
- 南米年間最優秀選手賞 : 1984, 1995
- アルゼンチン・リーグ得点王 : 1985, 1986, 1994
- アルゼンチン・リーグ最優秀選手 : 1985, 1995
- ディヴィジョン・アン最優秀外国人選手 : 1990
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人80位 : 1999
- CAリーベル・プレート外国人歴代最多得点者
- アルゼンチン・リーグウルグアイ人歴代最多得点者
経歴
クラブ
1961年にモンテビデオのカプーロ地区に生まれ、6歳から14歳までは地元のカディス・ジュニアーズでプレーした。
CAペニャロールやCAリーベル・プレートのトライアルを受けたこともあったが、痩せすぎているという理由で不合格であった。
14歳の時にモンテビデオ・ワンダラーズFCの下部組織に入団し、19歳でトップチームデビューすると、在籍期間中に74試合に出場して20得点した。
1983年に移籍金36万ドルでアルゼンチンのCAリーベル・プレートに移籍し、4月24日のフェロカリル・オエステ戦で初得点を決めた。
移籍初年度は多大なプレッシャーや怪我などで調子が上がらず、リーグ戦では19チーム中18位と散々な成績だったが、1984年にはリーグ戦で準優勝し、リーグ得点王とリーグ最優秀選手のタイトルを獲得した。
さらに、ウルグアイ人として初めて南米年間最優秀選手賞を受賞した。
1985-86シーズンには再び得点王に輝き、リーグ制覇を果たした。
リーベルでは113試合に出場して68得点を決めた。
また1986年には、コパリベルタドーレスカップの優勝に貢献、優勝を置き土産にチームを去る。
1986年、アルゼンチンの経済状況の悪化などの理由からフランス・ディヴィジョン・アン(1部)のラシン・パリに移籍した。
3シーズンで89試合に出場して36得点を決めたが、クラブのディヴィジョン・ドゥ(2部)降格とともにオリンピック・マルセイユに移籍した。
当時のマルセイユにはFWジャン=ピエール・パパン、FWアベディ・ペレ、MFクリス・ワドル、MFディディエ・デシャンなど中盤から前線にかけて名選手がひしめき合っていたが、1989-90シーズンのリーグ戦では28試合で11得点を挙げ、リーグ優勝を飾るとともに、ディヴィジョン・アン最優秀外国人選手賞を受賞した。
UEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出したが、SLベンフィカ戦ではミスを連発して戦犯のひとりにされた。
わずか1シーズンでマルセイユを離れる決断をし、セリエAに昇格したばかりのカリアリ・カルチョに移籍した。
カリアリで3シーズンを過ごし、98試合で17ゴールを記録した。
またカリアリ史上最高のベスト11の一人に選ばれた。
1993年にはJリーグの横浜マリノスに入団するとの憶測もあったが実現せず、1993/94シーズンはトリノFCで1シーズンプレー、コパイタリアでは準決勝に進むセリエBのアンコナに敗れ決勝出場ならず。
リーグ戦では24試合で3ゴールに終わる。
1994年に古巣CAリーベル・プレートに復帰。
リーベル・プレートで過ごした3年半でアペルトゥーラ・クラウスーラ合わせて4度リーグ優勝し、2度目の得点王に輝いた。
1995年には再び南米年間最優秀選手賞に選ばれ、1996年にはコパ・リベルタドーレス優勝に大きく貢献。
トヨタカップのために来日し、ジネディーヌ・ジダンやアレッサンドロ・デル・ピエロらを擁したユヴェントス(イタリア)と対戦したが、0-1で敗戦した。
1997年にはサンパウロFCを破り南米スーパーカップ優勝に貢献した。
1997年リーグ優勝を置き土産に引退。
1999年8月1日には幼少期からの憧れのクラブであったペニャロールとの引退試合が行われ、8万人の観客に加えてウルグアイのフリオ・マリア・サンギネッティ大統領やアルゼンチンのカルロス・メネム大統領も駆け付けた。
代表
1981年には南米ユース選手権を勝ち取った。
1983年10月13日のコパ・アメリカ準決勝・ペルー戦でウルグアイA代表デビューした。
決勝のブラジル戦で代表初ゴールとなる先制点を決めて優勝の立役者となり、大会最優秀選手賞を受賞した。
1986 FIFAワールドカップ1次リーグを辛くも突破したが、決勝トーナメント1回戦でディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンと対戦し、0-1で敗れてベスト16に終わった。
コパ・アメリカ1987準決勝では開催国のアルゼンチンと対戦し、アントニオ・アルサメンディの決勝ゴールをアシストして勝利し、前年のFIFAワールドカップで敗れた雪辱を果たした。
しかし決勝のチリ戦では前半26分に退場処分を受け、優勝の瞬間はピッチの外にいた。
1990年5月に行われたイングランドとの親善試合ではイングランドのファンをも魅了するプレーを見せ、イングランドの代表戦無敗記録を17戦で途切れさせた。
1990 FIFAワールドカップには主将として臨んだが、本来の力を発揮しきれず、4年前と同じベスト16に終わった。
地元ウルグアイで開催されたコパ・アメリカ1995では、2得点を挙げるなど主将として大車輪の活躍でチームを牽引し、優勝で国民の期待に応え、大会最優秀選手にも選ばれた。
その後、一旦はウルグアイ代表を引退したものの、1996年に1998 FIFAワールドカップ南米予選の途中で復帰した。
3度目のFIFAワールドカップ出場を目指したが、ウルグアイが予選敗退したため、1997年に再び引退を表明した。
2010年11月現在、ウルグアイ代表のフィールドプレーヤー中最多出場記録を保持している。
エピソード
世界最高と称されるジダンの憧れ的存在でもある。
彼のプレーはジネディーヌ・ジダンほか多数の選手に影響を与えている。
そのなかでもジダンは敬愛する選手にフランチェスコリの名前を挙げ、自分の息子に「エンツォ」という名前を授けている。
1996年のトヨタカップ試合後にはジダンとユニフォーム交換し、感激したジダンは以下のように述べた。
“子どもの頃の夢はフランチェスコリのユニフォームを手に入れることだった”
プレースタイル
ウルグアイ史上最高のファンタジスタ。
攻撃に必要なスキルを全て兼ねそなえ、すらりとした体形から流れるようなボール捌きでピッチ上を優雅に舞う。
パスやドリブル、シュートに至るまで全てが華麗で、彼に憧れるサッカー選手は数多くおり、後の多くの名選手に影響を与えた。
類い稀な攻撃センスを持ち、常にゴールに近いポジションで実力を発揮。
すらりとした体形であり、華麗なテクニックと、上品で優雅な、流れるようなボール捌きが特徴である。
攻撃の中心となるカリスマ的存在。
柔軟なボールタッチからドリブル、得点センスに加え豊かな創造力と優雅さによってファンを熱狂させたファンタジスタ。
素晴らしいスポーツマンとしても知られ、どんな汚いファウルにも激昂せずプレーで仕返しをする選手だった。