概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1961年9月2日(58歳) | ||
出身地 | サンタ・マルタ | ||
身長 | 179cm | ||
体重 | 74kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「エル・ピーペ(少年)」、「ライオン丸」、「鬼才」。
コロンビアを代表する歴史的名手。
ライオンのたてがみのような独特のヘアスタイルが特徴で、90年代のコロンビアの黄金期の中心として君臨。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で78位に選出された。
2004年3月、『偉大なサッカー選手100人』ではコロンビアから唯一選定された。
獲得タイトル
クラブ
モンペリエ
- Coupe de France: 1990
アトレティコ・ジュニオール
- Colombian Championship: 1993, 1995
タンパベイ・ミューティニー
- MLS Supporters’ Shield: 1996
個人
- Copa América MVP: 1987
- South American Footballer of the Year: 1987, 1993
- South American Team of the Year: 1987, 1993, 1996
- MLS All-Star of the Year: 1996
- Major League Soccer MVP: 1996
- World Soccer’s 100 Greatest Footballers of All Time: 1999
- Colombian Player of the Century: 1999
- MLS Assist leader: 2000 (26 assists – a single season record)
- FIFA 100: 2004
- MLS All-Time Best XI: Midfielder
- Golden Foot: 2013, as football legend
経歴
クラブ
デポルティーボ・カリで1985-86シーズン、1986-87シーズンと国内リーグ2連覇を果たす。
その後、コロンビア国内のクラブを渡り歩き、1988年にフランスのモンペリエHSCに入団した。
ここで3シーズンを過ごし、スペインリーグのレアル・バリャドリードに移籍したが、欧州サッカーにいまひとつ馴染めず、国内リーグに戻った。
1995年にはアトレティコ・ジュニオールでリベルタドーレス杯ベスト4進出。
準決勝においてホセ・ルイス・チラベルトを擁するCAベレス・サルスフィエルド(アルゼンチン)と対戦し、PK戦までもつれた末に敗退した。
晩年はアメリカ合衆国のクラブで過ごし、タンパベイ・ミューティニーでは1996-97シーズンに東カンファレンスでリーグ制覇し、MLS年間最優秀選手を獲得した。
2003年に現役を引退。
日本の治安の良さに興味を持ち、Jリーグに移籍するのではないかという話があったが、実現しなかった。
代表
サッカーコロンビア代表では1987年のコパ・アメリカでボリビア、パラグアイを破り、C組1位で準決勝に進出。
準決勝ではチリに敗れたが、3位決定戦でディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンに勝利した。
その活躍が評価されて同年の南米年間最優秀選手賞を受賞した。
以後、FIFAワールドカップ(以下W杯)では中心選手(いずれも主将で背番号10)として活躍し、コロンビアを1990年イタリア大会、1994年アメリカ大会、1998年フランス大会出場へと導いた。
1993年アメリカW杯南米予選最終戦では、アルゼンチンを5対0と歴史的大差で下しW杯本大会出場を決めた。
バルデラマは同年、2度目の南米年間最優秀選手賞を獲得している。
彼のW杯のハイライトは1990年イタリア大会の1次リーグである。
UAE戦で自身初ゴールをあげ2-0とW杯初勝利する。
2戦目のユーゴスラビアを0-1と落とし、最終戦に引き分け以上でなければ1次リーグ敗退が決まるコロンビアは、ローター・マテウスやユルゲン・クリンスマンを擁する西ドイツと対戦する。
試合終了間際の88分に西ドイツのピエール・リトバルスキーのゴールが決まり、コロンビアの1次リーグ敗退が濃厚となった。
しかし、直後の90分にバルデラマからフレディ・リンコンへスルーパスが通り、リンコンはゴールキーパーのボド・イルクナーの股を抜く同点ゴールが決めた。
この得点により決勝トーナメント進出を決めた。
エピソード
バルデラマが、ブラジル・ワールドカップ開催中におけるセックスの重要性を熱弁した。
コロンビアの全国紙『El Tiempo』が伝えている。
バルデラマが唱える“ワールドカップへの準備”は、色欲に満ちあふれていた。
「選手にはワールドカップ期間中にできるだけセックスをすることを強く勧めたい。セックスが男に悪影響を及ぼすことはなく、むしろプラスに作用する。私が代表の一員としてワールドカップに出ていたときはベスト8以上の成績を残せなかったが、当時代表にはワールドカップ期間中に不可解なセックス禁止令が出ていた。もしもあの当時我々がワールドカップ期間中に散々セックスをしていたら、もっと良い成績を残せていただろうと断言できる。男にとってセックスは糧となる。だからワールドカップで良い結果を求める選手は、必ずワールドカップの期間中にセックスをしろ」
バルデラマがここまで性交について熱弁するのには、相応の理由がある。
彼自身が代表の中心選手であった1990年のイタリアと、1994年のアメリカではそれぞれの開催地でセックスを楽しみたかったのに、当時の協会からの圧力に何も言えなかったことも背景にあるようだ。
ちなみに、バルデラマの一連の発言に対してメキシコ代表のミゲル・エレーラ監督は次のように反論している。
「私はワールドカップの期間中のセックス禁止令には否定的でない。男たるもの女とセックスしたい欲望は切り離せないことは理解できるが、40日間セックスしなかっただけで死亡した男性はこの世にいないだろう。よってセックス禁止令による弊害を心配する必要はない。セックスができなくともサッカーはできる」
プレースタイル
歴史に名を残すパスの名手でコロンビアで鬼才を放つ司令塔。
バルデラマは運動量は少なかったものの、抜群のボディバランスと優れたボールタッチでボールをキープし、狭い局地からの細かいダイレクトパスなど、一瞬で相手のディフェンスラインの急所をえぐる絶妙なスルーパスを放つ、というプレースタイルでした。
また、バルデラマは「1試合で100本以上のインサイドキックによるパスを出す」と言われていました。
インサイドキックを多用するプレースタイルが持ち味で、プレー中の多くの時間をハーフライン付近で過ごしていた。
ゴールに直結するスルーパスを連発するなど戦術眼と空間把握能力に優れ、同世代の俊足プレーヤーであるFWファウスティーノ・アスプリージャとは抜群のコンビを誇っていた。
半身で敵をブロックし、巧みにボールをスクリーンする。
体は大きくないし、リーチもそれほどないのに、ボールの置き方が抜群に上手い。
寄せている敵からすると、けっこう近くにボールがあるのに奪えない。
ステップワークが素早く、下手に足を出せばかわされてしまう。
バルデラマは金色のアフロヘアをなびかせながら、ショートパスを通す。
そしてパス&ゴーでリターンを受け、またボールを守りながらショートパスを繰り出す……さらにこれを繰り返す。
受けて、キープして、パス。
動いて受けて、キープして、パス。
これの連続。
サッカーの基本通りのプレーからテキストブックと形容されたほど基本動作を繰り返す。
彼のパスの精度はずば抜けていた。
対戦した西ドイツ主将マテウスは「彼のパスはシルクの糸のようだった」と評した。