概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1947年7月3日 | ||
出身地 | アムステルダム | ||
没年月日 | 2020年1月24日(72歳没) | ||
身長 | 178cm |
ポジションはフォワード(左ウイング)、ミッドフィールダー(左サイドハーフ、オフェンシブハーフ)。
利き足は左。
愛称は「ロブ」。
1970年代オランダを代表する左ウインガー。
獲得タイトル
クラブ
- クラブ・ブルッヘ
- ベルギーカップ:1970
- アンデルレヒト
- ジュピラー・プロ・リーグ:1971-72、1973-74
- ベルギーカップ:1972、1973、1975、1976
- UEFAカップウィナーズカップ:1975-76、1977-78
- UEFAスーパーカップ:1976、1978
- トゥールーズ
- リーグ・ドゥ:1981-82
代表
- FIFAワールドカップ:1974(準優勝)、1978(準優勝)
- UEFA欧州選手権:1976(3位)
個人
- ジュピラー・プロ・リーグ得点王:1972-73
- UEFAカップウィナーズカップ得点王:1975-76
- ベルギー・ゴールデン・シュー:1976
- オンズドール:1976
- バロンドール:1976(2位)、1978(3位)
- FIFAワールドカップ・ブロンズブーツ:1978
- FIFAワールドカップ・ベストイレブン:1974、1978
- FIFAワールドカップ最多アシスト:1978[6]
- オンズ・ド・ブロンズ:1978、1979
- FIFA100
- FIFAワールドカップ通算1000ゴール目
- UEFAカップウィナーズカップ歴代最多得点者(25点)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 (得点) | |
1965-1969 1969–1971 1971–1980 1980 1981–1982 |
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120 (34) 55 (24) 262 (143) 18 (6) 12 (1) |
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代表歴 | |||
1968-1979 | ![]() |
46 (14) |
1965年、OSVアムステルダムでデビュー、同年DWSアムステルダムに移籍します。
1969年にベルギーのクラブ・ブルージュに移籍し、ここから11年間をベルギーで過ごすことになります。
71年にベルギー最高のチーム・アンデルレヒトに移籍し、リーグ優勝2回、ベルギーカップ優勝4回、欧州カップ・ウィナーズ・カップ優勝2回など、アンデルレヒトの輝かしい成績に貢献します。
主にベルギーのクラブでプレーするなどオランダ国内では無名の存在で(オランダのフットボール界でレンセンブリンクが無名だった訳では無く、「フェイエノールトはリヌス・イスラエルに続いて自分もDWSから獲得しようとしていたが、クーン・ムーラインがすでにブレイクしていたこと、DWSの求めた45万グルデンがフェイエノールトには高すぎた」と本人が後年語っている)、1974年のFIFAワールドカップ・西ドイツ大会ではオランダ代表に選出されたが、開幕前はピート・カイザーら層の厚いFW陣の中で控え選手であった。
しかし1次リーグ第3戦のブルガリア戦以降はレギュラーの座を掴み、2次リーグの東ドイツ戦では1得点を決めた。
1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では左サイドからプレーすることが多かったヨハン・クライフが参加を辞退した事もあり、より自分の本職のポジションでプレーすることができたレンセンブリンクはエースとしてチームを牽引。
前回大会で準優勝に終わったオランダ、その中心は云わずとしれたヨハン・クライフ、しかし78年W杯にクライフは不参加です。
そんなオランダを決勝の舞台まで引っ張ったのがレンセンブリンクでした。
1次リーグイラン戦でハットトリックを達成。
スコットランド戦で前半34分に決めたゴールはW杯通算1000ゴール目の記念ゴールとなった。
2次リーグオーストリア戦でも1ゴールを決め、計5得点の活躍で準優勝に貢献した(得点王は6得点のマリオ・ケンペス)。
80年までベルギーにいた彼は、アメリカに渡り、最後はフランスのツールーズで選手生活に別れを告げます。
エピソード
アンデルレヒト時代のチームメイトで元オランダ代表の選手であるヤン・ムルダーはレンセンブリンクについて、「クライフと同じくらい良い選手だった。そう思っていないのは彼だけだよ。」と話している。
1978年ワールドカップアルゼンチン大会決勝・アルゼンチン戦では、1対1で迎えた後半終了30秒前にルート・クロルのロングパスから上手く抜け出し、キーパーと一対一の場面から放ったシュートがポストに嫌われる場面があった(その後、延長でアルゼンチンが2点を加え1対3で敗退)。
古いサッカーファン(特にオランダのファン)の間では「もしあのシュートが決まっていればオランダの優勝と得点王を獲得出来た筈」と話題に上る事がある。
しかし、レンセンブリンク自身は、「あのときのシュートが、まったく違う方向に外れていればよかったと思うときがある。そうすればこんなにいつまでも言われ続けることはなかった。あの場面でシュートを決めるのは不可能だったんだよ。」と語り、ポストに当てることが精一杯で、ゴールを狙える場面ではなかったと話している。
この大会についてレンセンブリンクは「全ての注目がクライフに集まった1974年大会よりも1978年大会の方がずっと良い気分だった。ただ決勝だけは未だに残念。ライン上に重装備の軍人たちが並び、得点したらどうなるのかと思った」と語っている。
プレースタイル
レンセンブリンクは、華奢な体つきですが、テクニックが高く、自らのドリブルで切り込み、シュート、パスにセンス溢れる左ウイングでした。
テクニックに優れ、非常に柔らかいボールタッチと正確無比なドリブルでサイドを突破してチャンスを作ったかと思うと、突如ゴール前に現れてシュートを放ちゴールを決める職人フォワードです。
遠くから見ると、クライフと見分けがつかないくらいでした。