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【サッカーショップKAMO】海外クラブチーム特集

デヤン・サビチェビッチ

サッカー

概略

Dejan Savicevic, il Genio [Goals & Skills]
国籍 モンテネグロの旗 モンテネグロ
生年月日 1966年9月15日(53歳)
出身地 ポドゴリツァ
身長 180cm
体重 77kg

 

ポジションはフォワード(セカンドトップ)、ミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)。

 

利き足は左。

 

90年代を代表するファンタジスタ。

 

ニックネームはファーストネームからデーヨ。

 

現役時代は「ジェニオ(天才)」の他、「悪魔のドリブラー」等と呼ばれた。

 

「ジェニオ(天才)」という異名に相応しいファンタジスタであると同時に、政治的背景によって全盛期にワールド杯の舞台に上がる事のなかった悲運の選手でもある。

 

シュート力、パスセンスはもちろん、そのドリブル突破力は素晴らしくいくつもの伝説を築き上げた。

 

獲得タイトル

レッドスター

  • ユーゴスラビアリーグ:3回 (1989-90, 1990-91, 1991-92)
  • ユーゴスラビアカップ:1回 (1989-90)
  • UEFAチャンピオンズカップ:1回 (1990-91)
  • インターコンチネンタルカップ:1回 (1991)
  • ユーゴスラビア/セルビア・モンテネグロカップ:1回 (1998-99)

ACミラン

  • セリエA:3回 (1992-93, 1993-94, 1995-96)
  • イタリアスーパーカップ:2回 (1993, 1994)
  • UEFAチャンピオンズリーグ:1回 (1993-94)
  • UEFAスーパーカップ:1回 (1994)

個人

  • ユーゴスラビア最優秀アスリート (1991)
  • ベオグラードスポーツ協会ベストスポーツマン賞 (1991)
  • ユーゴスラビア最優秀選手 (1995)
  • 6スターズオブレッドスター (1991)

 

経歴

  • 1982-1988 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ブドゥチノスト・チトーグラード
  • 1988-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター・ベオグラード
  • 1993-1998 イタリアの旗 ACミラン
  • 1999 ユーゴスラビアの旗 レッドスター・ベオグラード
  • 1999-2001 オーストリアの旗 ラピード・ウィーン
代表歴
1986-2000 ユーゴスラビアの旗ユーゴスラビア連邦共和国の旗 SFRY/FRY 56 (20)

 

クラブ

 

サビチェビッチはOFKチトーグラードの下部組織でサッカーを学び、1982年にブドゥチノスト・チトーグラードへ入団し、15歳でリーグ戦デビューを飾った。

 

その後1988年にレッドスター・ベオグラードへ移籍すると、リーグ3連覇に貢献するなどクラブの全盛期を支えた。

 

UEFAチャンピオンズカップ 1990-91ではロベルト・プロシネツキ、ダルコ・パンチェフらと共に優勝に貢献。

 

1991年12月のトヨタカップではユーゴビッチの決勝ゴールとなった先制点をアシスト、前半終了間際に退場処分を受けたが、チリのCSDコロコロを3-0で下しタイトルを獲得。

 

同年のバロンドールでは同僚のパンチェフやドイツのローター・マテウスと同率の2位に選ばれた。

 

1992年にイタリアのACミランへ移籍。

 

1992-93シーズンは2節のペスカーラ戦で先発しデビューを飾るが、ルート・フリットやマルコ・ファンバステンらといったスター選手を擁したチームの中で外国人枠の問題もあって出場機会に恵まれなかった 。

 

17節ジェノア戦で初ゴールを決める。

 

1993年のトヨタカップでは出場予定であったが、ミランが大会の外国人枠のレギュレーションを勘違いしたため、スタンド観戦となった。

 

1993-94年シーズン後半よりファビオ・カペッロ監督の信頼を得てレギュラーに定着、セリエA優勝、UEFAチャンピオンズリーグ優勝に貢献、UEFAチャンピオンズリーグ決勝のFCバルセロナ戦では22分に右サイドのドリブル突破からダニエレ・マッサーロの先制点をアシスト。

 

47分にはミゲル・アンヘル・ナダルを振り切り、アンドニ・スビサレッタの頭上を越すループシュートを決める活躍などで4-0でバルセロナに大勝しタイトル獲得に貢献した。

 

1994-95年シーズン、準決勝第2戦のPSG戦では2得点、UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95決勝進出に貢献したが、怪我のため決勝を欠場しミランは敗れた。

 

1995-96年シーズン、バッジョが加入、どちらが背番号10番を背負うべきかの論争が起きたが、バッジョは「彼は天才だ。デヤン以外にミランの10番は考えられない。」と10番を譲った。

 

この年再びリーグ優勝に貢献。

 

カペッロは「彼とは口論が絶えなかった。彼は練習も余りせず、ピッチでも手を抜いていた。そのためほかの選手は普段の2倍の運動量を強いられた。しかしそれでも彼を起用したのは、特別な才能が有ったからだ」と語った。

 

1998年6月にミランを退団。

 

翌1999年1月の古巣のレッドスター・ベオグラードに復帰し5ヶ月間在籍。

 

1999-00シーズンからはオーストリアのラピード・ウィーンへ移籍し、2001年限りで現役を引退した。

 

代表

 

ユーゴスラビア代表としては1986年10月29日のトルコ戦で代表デビュー。

 

代表やレッドスターでは親友でもあるドラガン・ストイコビッチに10番を譲って8番を着けることが多かったが1988年3月30日に行われたイタリア戦(パオロ・マルディーニの代表デビュー戦)だけはサビチェビッチが10番、ストイコビッチが7番を着けてプレー。

 

この試合でセンタリングから1アシストを記録した。

 

なおクラブ・代表試合を含め2人が共に出場した試合でサビチェビッチが10番をつけた試合は後にも先にもこの試合だけである。

 

1990年のワールドカップ・イタリア大会では準々決勝進出に貢献したが、代表としてはユーゴスラビア内戦による混乱などから国際舞台への出場を断たれた事もあり、UEFA EURO ’92や1994年のワールドカップ・アメリカ大会など全盛期に開催された大会には出場成らず。

 

キャリアの晩年に差し掛かった1998年のワールドカップ・フランス大会で2大会ぶりのワールドカップ出場を果たし、翌1999年に代表から退いた。

 

エピソード

Dejan Savicevic ● Best Winger Ever ||HD|| ►Most Underrated◄

1994‐1995シーズンのミランはインビンチービリ(無敵艦隊)と呼ばれていた。

 

ロベルト・バッジョ、ジョージ・ウェア、ジャン・ピエール・パパン、ズボニミール・ボバンなど各国のエースがひしめく、まさにタレント軍団だった。

 

そして、この年から背番号固定制度が導入。

 

一人の選手が一年間、同じ背番号を背負うことになる。

 

当然、誰がエースナンバー「10」を着けるのかが話題となった。

 

歴史あるACミランの、記念すべき初代「10」は、誰が背負うべきか?

 

ファンの声では、イタリア代表のエース、ロベルト・バッジョがつけるべきだという意見も多かったが、当のロベルト・バッジョはこう言った。

 

「10番はデヤンのものだ。彼は天才だよ」

 

サビチェビッチがその名を世界に知らしめたのは、1993‐1994年に行われたチャンピオンズリーグ。

 

この年にACミランは決勝に進んだが、相手は監督ヨハン・クライフ率いるバルセロナ。

 

ロマーリオ、ストイチコフ、ラウドルップ、グアルディオラといったスターを揃え、リーガ4連覇を飾った最強の『ドリームチーム』だった。

下馬評では圧倒的にバルセロナ。

 

監督のカペッロですら、「彼らを0点に抑えることは不可能だ」と弱気なコメントを出していた。

 

試合前、当時のACミラン会長でイタリア首相でもあるベルルスコーニ氏がサビチェビッチに向かって「君は天才なんだから、何とかしろ!」と激励したのは有名な話である。

 

いざ試合が始まると、サビチェビッチはバルセロナ陣内で大暴れ。

 

2つのアシストと1つのゴールを決め、ドリームチームを相手に、なんと4-0の大勝利を演出した。

 

特に3点目のループシュートは圧巻で、長い滞空時間、優雅な軌道、息が止まるほど美しいスーパーゴールを決めたサビチェビッチは、文句なしにMVPに輝いた。

この時期のサビチェビッチはバロンドール受賞も夢ではない活躍ぶりだったが、代表チームの政治的制裁により92’欧州選手権や94’W杯の出場が認められなかった。

 

90年イタリアW杯でサビチェビッチが所属したユーゴスラビア代表は、オシム監督に率いられ、マラドーナのアルゼンチンをあと一歩のところまで追いつめた素晴らしいチームだった。

 

ちなみに先のチャンピオンズリーグ決勝の試合終了後、サビチェビッチはユニフォームをオシムの息子にプレゼントしている。

 

プレースタイル

1.5列目で独創的なプレーで試合を決定づけるファンタジスタ。

 

調子の波は激しいが、好調時には緩急に富んだ、柔らかで天才的なドリブル突破を見せる1.5列目アタッカー。

 

“ジェニオ(天才)”と称され、ひらりと相手DFを交わしては意表を付くスルーパス、強烈なミドルシュートを放った。

 

好不調の激しい選手であったが、好調時のドリブルはまさに神がかりで、細かいテクニックに加えて足腰の強さとスピードにも優れていたため、爆発的な瞬発力でスペースに飛び出したかと思うと、深い切り返しと、突然のストップ、Uターンと、追いすがるDFをいいように翻弄して見せた。

 

かといって体ごと止めようと近寄れば、ひょい、と急所を突くようなパスを出されてしまう。

 

まさに手がつけられず、当時世界最強の守備を誇ったセリエAでも、彼を止めることはできなかった。

 

彼の持ち味はその切れ味が鋭く、変化に富んだドリブルであろう。

 

ワンタッチプレーを好まず、ドリブルからプレーを始めるスタイル。

 

そしてシュートやパスにも最高のセンスがあった。

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