概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1952年5月20日(68歳) | ||
出身地 | ヤウンデ | ||
身長 | 176cm | ||
体重 | 72kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
カメルーンの伝説的選手。
アフリカ勢が始めて躍進した1990年ワールドカップイタリア大会のカメルーン代表の中心選手。
1999年、ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で58位に選出された。
2004年には、FIFA 100(国際サッカー連盟の100周年記念として、ペレによって選ばれた125人の「最も偉大なサッカー選手」)の一人として選ばれた。
獲得タイトル
クラブ
レパード・ドゥアラ
- Cameroon Première Division: 1971–72, 1972–73, 1973–74
トネール・ヤウンデ
- African Cup Winners’ Cup: 1975
- Cameroonian Cup: 1991
モナコ
- Coupe de France: 1979–80
バスティア
- Coupe de France: 1980–81
モンペリエ
- Division 2: 1986–87
代表
カメルーン代表
- Africa Cup of Nations: 1984, 1988
個人
- African Footballer of the Year: 1976, 1990
- Africa Cup of Nations Best Player: 1986
- African Cup of Nations Top Scorer: 1986, 1988
- FIFA World Cup Bronze Boot: 1990
- FIFA World Cup All-Star Team: 1990
- FIFA 100
- CAF Best African Player of the last 50 years: 2007
- Golden Foot Legends Award: 2014
- IFFHS Legends
- World Soccer: The 100 Greatest Footballers of All Time
経歴
幼少時は鉄道員である父に連れられ、頻繁に転居。
13歳の時、カメルーンのドゥアラにあるクラブと契約し、プロサッカー選手としてスタートを踏んだ。
18歳の時、別のドゥアラのクラブで初めてのリーグ制覇を達成した。
1976年、トネール・ヤウンデに移籍し、そこでアフリカゴールデンボール賞を受賞した。
アフリカ制覇やアフリカ年間最優秀選手賞受賞など母国で大きな成功を収めた。
1977年、フランスのヴァランシエンヌFCに移籍したが、控え選手のまま2年間を過ごした。
1979年にはモナコに移籍したが、故障を繰り返した。
翌年はSCバスティアへ移籍するも、目立った活躍を見られなかったが1980年にフランスカップ優勝のタイトルを獲得。
1984年にASサンテティエンヌへ移籍し、レギュラーの地位を獲得。
その後、1986年から1989年までモンペリエHSCで活躍した後に引退し、コーチとしてクラブに残った。
フランスでプレーしている間、1978年にはカメルーン代表に初めて選出され、1982年のスペインW杯に出場したが、初戦のペルー戦でゴールを決めたものの反則により取り消され無得点の引分けに終わった。
この時のカメルーンは3引分けの3位と1次リーグで敗退したものの健闘した。
2年後の1984年にはロサンゼルスオリンピックに出場した(1勝2敗の3位で一次リーグ敗退)。
1987年に代表チームから退き、その後インド洋のレユニオンに居を構え、プロとしては引退して、アマチュアクラブのサン・ピエロワーズでプレーしていた。
しかし1990年、カメルーン大統領ポール・ビヤの電話での代表復帰の要請を受け、現役復帰を決断。
「不屈のライオン」(カメルーン代表の愛称)の一員としてイタリアで行われる、1990 FIFAワールドカップに出場した。
開幕戦である前回王者のアルゼンチン戦では2人の退場者を出しながらも1-0で勝利すると、2戦目のルーマニア戦では2得点を挙げて勝利(2-1)に貢献した。
決勝ラウンド1回戦でもコロンビアから延長後半で2得点を挙げ、準々決勝進出を果たした。
準々決勝ではイングランドに途中までリードしながら延長戦の末に敗れ、ミラも得点できなかったが、一度は逆転となったエジェール・エケケのゴールをアシストする活躍を見せ、「不屈のライオン」の躍進は世界に衝撃を与えた。
MVP投票では4位に入った。
アフリカ勢として初のベスト8への進出という偉業を成し遂げました。
ミラはこの大会中4ゴールを挙げ、コーナーポストを囲んでの歓喜の踊りと共に、世界中のサッカーファンに鮮烈な印象を残した。
ミラは4年後の1994年、既にプロリーグレベルの選手としては引退していたが、再びカメルーン大統領ポール・ビヤから代表復帰の要請を受け、アメリカW杯のピッチに立った。
この時、ミラは既に42歳になっていた。
ミラは高齢の為に前回大会に比べ出場時間が極端に減った。
この大会では、カメルーン代表は前回から一転して1分け2敗の成績に終わりグループリーグで姿を消した。
最終戦となったロシア戦ではオレグ・サレンコのワールドカップ記録となった1試合5得点を含む1-6で惨敗。
しかしこの試合で、後半から投入された直後のミラがカメルーン唯一のゴールを決めた。
エピソード
ミラは42歳1か月8日であり、ワールドカップにおける最年長ゴールとして名を刻んでいる。
40歳代選手によるゴールも、2018年大会終了時点でミラだけが達成。
「W杯通算5得点」はカメルーンはもとより、2014年大会でガーナのアサモア・ギャンが通算6ゴールを達成するまで全てのアフリカ国籍選手の最多記録だった。
ミラのゴールパフォーマンスはマサッコ・ダンスと呼ばれ快進撃をするカメルーンの象徴として人々の記憶に残っている。
マサッコ・ダンスはロジェ・ミラがイタリアの地で得点するたびに踊ったダンスの名前です。
コーナーフラッグをまるでダンスのパートナーであるかのように腰をくねらせ、肩を揺すってその周りを嬉しそうに踊るロジェ・ミラのダンスはたちまち有名になり、カメルーンでは未だにそのダンスが踊られているのです。
引退間際だった老いたるロジェ・ミラはある試合の後で観客席にユニフォームを投げ込みました。
そして、そのユニフォームを掴んだ人物こそ、スタンドで観戦していたサミュエル・エトー少年だったのです。
現在は、カメルーンの特別親善大使を務めている。
2010 FIFAワールドカップの期間にはオフィシャルスポンサーのコカ・コーラのCMに出演した。
プレースタイル
彼の持ち味は短い距離での一瞬のスピードとタイミングでビックチャンスを作る動きである。
全体的にほとんど動いてないけど、いつも一番いいポジションにつこうと、さりげなくポジションを移動している。
そして一瞬のスピードとタイミングでボールを受けると得点を決めるのが彼のスタイル。
圧倒的なパワー、スピード、フィニッシュ能力も大きな武器だ。
コメント