概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1963年3月21日(57歳) | ||
出身地 | ザーンダム | ||
身長 | 182cm | ||
体重 | 81kg |
ポジションはディフェンダー(リベロ)。
利き足は右。
愛称は「大砲」、「スノーフレイク」。
80年代のオランダを代表するリベロ。
バルセロナのドリームチームの一員としてリーグ4連覇とチャンピオンズリーグを制覇。
獲得タイトル
クラブ
アヤックス
- Eredivisie: 1984–85
- KNVB Cup: 1985–86
PSV
- Eredivisie: 1986–87, 1987–88, 1988–89
- KNVB Cup: 1987–88, 1988–89
- European Cup: 1987–88
バルセロナ
- La Liga: 1990–91, 1991–92, 1992–93, 1993–94
- Copa del Rey: 1989–90
- Supercopa de España: 1991, 1992, 1994
- European Cup: 1991–92
- European Super Cup: 1992
代表
オランダ代表
- UEFA European Championship: 1988
個人
- Dutch Footballer of the Year: 1987, 1988
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 1988
- UEFA Champions League top scorer: 1993–94
- UEFA Golden Jubilee Poll: No. 26
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1980-1983 | ![]() |
90 | (33) |
1983-1986 | ![]() |
94 | (23) |
1986-1989 | ![]() |
98 | (51) |
1989-1995 | ![]() |
192 | (67) |
1995-1997 | ![]() |
61 | (19) |
通算 | 535 | (193) | |
代表歴 | |||
1982-1994 | ![]() |
78 | (14) |
クラブ
1980年にFCフローニンヘンでキャリアをスタート。
1983年にはアヤックスへ移籍し、正確なボールコントロールと得点能力の高さを発揮すると、ヨーロッパを代表するリベロと称され、中心選手として活躍した。
1984-85シーズンにはリーグ優勝を果たし、1986年にはPSVアイントホーフェンへ移籍。
在籍した3シーズン全てでリーグ優勝を果たし、他にもカップ優勝2回、チャンピオンズカップを獲得した。
1988年チャンピオンズカップ決勝のベンフィカ戦では、PK戦で1人目のキッカーとしてPKを成功させ、優勝を果たした。
同年のインターコンチネンタルカップ、ナショナル戦ではPKでゴールを決めたが、延長PK戦で敗れた。
1989年にはPSVアイントホーフェンでの活躍が評価され、ヨハン・クライフ率いるFCバルセロナに移籍し、在籍期間を通してセットプレーのプレースキッカーを担当、バルセロナに在籍した6シーズンのうち4シーズンで10得点以上を記録した。
バルセロナ在籍中にはラウドルップ、ストイチコフ、ロマーリオ、グアルディオラらがそろった「ドリームチーム」の中心的存在となり、リーグ4連覇と黄金期を築きました。
「エル・ドリーム・チーム (El Dream Team)」の一員としてラ・リーガ4連覇を達成するとともに、バルセロナ史上初のUEFAチャンピオンズリーグ優勝にも貢献した。
1989-90シーズン、リーガ第2節、9月9日オサスナ戦でPKからラリーガ初ゴールを含む2ゴールを決めると、10月7日レアル・マドリード戦でもPKで2ゴールを決めるなど、シーズン14ゴールを決めた。
1990-91シーズン、カップウィナーズカップ、ファーストラウンド2ndレグ、トラブゾンスポル・クラブ戦ではハットトリックを決めるなど(この時相手6人を瞬時に抜き去り、この日決めた2点目のループシュートは賞賛を集めた。)、決勝進出に貢献、決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦でもゴールを決めたが1-2と敗れた。
このシーズンのレアル・マドリードとのクラシコでは10月18日、3月7日いずれの試合でもゴールを決めるなど、ラ・リーガ優勝に貢献した。
1991-92シーズン、イタリア・セリエAのサンプドリアとの決勝戦では延長後半10分に決勝点となるミドルシュートを叩き込んでバルセロナに初のチャンピオンズカップ優勝をもたらし、この年ラ・リーガとの2冠を獲得した。
1993-94シーズン、チャンピオンズリーグではDFながら8ゴールを決め、大会得点王となるなど、決勝進出に貢献したが、決勝ではACミランに0-4と敗れ自身3回目の優勝を逃した。
一方のリーガではレアル・マドリードとのクラシコでFKからゴールを決め、5-0での勝利に貢献。
リーガ最終節でセビージャを破り、ラ・コルーニャに逆転でラ・リーガ4連覇を達成した。
1994-95シーズン終了後に退団した。ラリーガでは通算67ゴールの成績を残した。
1995年にフェイエノールトへ移籍し、2シーズン在籍した後に引退した。
1996-97シーズン、5月25日のヘーレンフェーン戦でシーズン9点目となる現役ラストゴールを決めた。
DFでありながら17シーズンでリーグ戦では通算193得点を決めた(DFとしてはパサレラの182得点を凌ぎ、史上最多である)。
代表
1983年にスウェーデン代表との親善試合で代表デビューを飾った。
オランダは1984年のユーロ、1986年ワールドカップの出場権を逃す。
フリット、ファン・バステン、ライカールト、さらに兄のエルヴィンとともに1988年欧州選手権に出場します。
EURO88では西ドイツ代表戦でゴールを決め、優勝に貢献した。
1990年の1990 FIFAワールドカップでは西ドイツ戦で1ゴールを決めたがベスト16で敗退。
1992年のUEFA EURO ’92では準決勝まで進出したが、PK戦の末デンマークに敗れ連覇を逃した。
1994年のアメリカW杯にも出場、代表では78試合に出場14得点を記録した。
エピソード
選手としてアヤックス、PSV、フェイエノールトでプレーしたのはルート・ヘールスとロナルド・クーマンの二人だけであると言われている。
さらに選手としてだけでなく監督としてもこの3クラブに所属した人物はクーマンただ一人である。
現役当時、オランダ代表内の人種対立の急先鋒となったとされ、バレンシアCF監督時代の混乱と解任後の言動から、指導者としての適性を疑問視されることがある。
サッカージャーナリストの粕谷秀樹はクーマンについて、「指導者に転じてからも私利私欲に走り、バレンシアを崩壊に導いた経緯がある。ぐらついた組織の指揮官としては、最も不適格なタイプだ」と評した。
プレースタイル
主にリベロとしてプレーするサッカー史屈指の攻撃的DF。
高精度の長短のパス、威力抜群のミドルにプレースキック、強靭な精神でPKもほぼ確実に決めてゴールを量産します。
強力かつ正確なキック力はロングフィードのみならず直接フリーキック、ペナルティーキックでも威力を発揮し、キックの名手の名としてロナルド・クーマンの名が知れわたることとなった。
FCバルセロナでは6シーズンのみの在籍であったが、26得点をフリーキックから記録し、メッシに抜かれるまでフリーキックからの最多得点者であった。
戦術理解や統率と頭脳も充実し、チームにおいて攻守に代えの利かない存在といえます。
クーマンはとりあえずロングパスがものすごく正確でした。
リベロとして最後尾から攻撃を組み立てる能力はクーマンが活躍した時代で世界最高といえ、歴代でもずば抜けています。
攻撃参加でも強烈にて正確無比なミドルシュートを最大の武器として非凡な能力を発揮。
PSV時代のほうが攻撃参加が多く、DFながらゴールランキングの上位になったことも。
トヨタカップでは上がりっぱなしでほとんどMF状態でした。
ちなみにクーマンの代名詞のキック。
歴代に名を残すキック力を誇っており、「牛をも殺す」といわれました。