概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1981年3月10日(39歳) | ||
出身地 | ドゥアラ | ||
身長 | 180cm | ||
体重 | 79kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「黒い宝石」。
カメルーン代表の最多得点記録保持者であり、史上最多の4度のアフリカ年間最優秀選手賞受賞、2度のアフリカネイションズカップ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝など数々の栄誉を手にしている。
獲得タイトル
クラブ
- RCDマヨルカ
- コパ・デル・レイ:2002-2003
- FCバルセロナ
- UEFAチャンピオンズリーグ:2005-2006, 2008-2009
- リーガ・エスパニョーラ:2004-2005, 2005-2006, 2008-2009
- コパ・デル・レイ:2008-2009
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ:2005, 2006
- インテルナツィオナーレ・ミラノ
- FIFAクラブワールドカップ:2010
- UEFAチャンピオンズリーグ:2009-2010
- セリエA:2009-2010
- コッパ・イタリア:2009-2010, 2010-2011
- スーペルコッパ・イタリアーナ:2010
代表
- U-23カメルーン代表
- 夏季オリンピック 金メダル:2000
- カメルーン代表
- アフリカネイションズカップ:2000, 2002
個人
- アフリカ年間最優秀若手選手賞:2000
- アフリカ年間最優秀選手賞:2003, 2004, 2005, 2010
- FIFPro年間ベストイレブン:2005, 2006
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー:2005, 2006
- リーガ・エスパニョーラ得点王:2005-06
- アフリカネイションズカップ ベストイレブン:2006
- アフリカネイションズカップ 得点王:2008
- FIFAクラブワールドカップゴールデンボール:2010
経歴
クラブ
カメルーンのドゥアラ市にあるカジ・スポーツアカデミーの一期生。
その後、16歳でレアル・マドリード・カスティージャと契約。
しかし、外国人であった為セグンダ・ディビシオンBでは試合に出場できず、成長を妨げないようレンタルされ、CDレガネス、RCDエスパニョール、RCDマヨルカで過ごした。
2000年のシーズン終了後に、6億6000万円でRCDマヨルカに完全移籍し、2002年にコパ・デル・レイ優勝に導くなど活躍している。
2004-2005シーズンにFCバルセロナに移籍し、リーガ優勝を経験した。
ロナウジーニョ、リオネル・メッシとの3トップは世界最強といわれた。
2006年9月のUEFAチャンピオンズリーグ1次リーグ、ヴェルダー・ブレーメン戦で右ひざ半月板を痛め、全治5ヶ月と診断された。
自身が「第二の故郷」としているマジョルカ島で療養していたが、2007年2月に復帰し、ゴールも決めている。
なお、復帰後の起用法を巡って出場を拒否するなど、トラブルメーカー的な側面も見せた。
2007-08シーズンはティエリ・アンリがバルセロナに加入し、前述のフロントとの衝突などから放出が噂されたが、結局チームに残った。
しかし開幕前のインテルナツィオナーレ・ミラノとの親善試合で怪我を負うと、ボージャン・クルキッチの台頭などもあり出場機会が減少。
ただし、出場した試合では18試合で16ゴールと抜群の決定力を見せた。
また、2007年10月17日にはスペイン国籍を取得し、カメルーンとの二重国籍となった。
2008-09シーズン、監督に就任したジョゼップ・グアルディオラの意向により一度戦力外通告を受けるが、最終的に残留する形で踏み止まると、10月25日の第8節UDアルメリア戦でバルサ史上最短の23分間でのハットトリックを達成し(この時点で8試合9得点を記録、バルサ在籍中の得点率が1.34試合となり、バルサ歴代2位につく)、リオネル・メッシ、アンリとともに世界最強ともいわれる3トップを組むと、自己最多、リーガ2位の30ゴールを記録し、チャンピオンズリーグ決勝のマンチェスター・ユナイテッドFC戦では決勝点を挙げた。
3シーズンぶりのリーガ制覇とチャンピオンズリーグ、さらにはコパ・デル・レイをも制し、スペイン勢史上初の3冠獲得に大きく貢献した。
2009年7月、ズラタン・イブラヒモビッチとのトレード(エトー+移籍金4600万ユーロ)により、5年契約でインテルナツィオナーレ・ミラノへ移籍。
2008-09シーズンセリエA24得点(得点ランキング2位タイ)のディエゴ・ミリートと2トップを組むことになった。
8月8日のスーペルコッパ・イタリアーナ、SSラツィオ戦で移籍後公式戦初出場、初得点を記録すると、セリエAデビューとなった2週間後のASバーリ戦でPKによりセリエA初得点を挙げた。
2010年3月16日のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦2ndレグのチェルシーFC戦では、チームを4シーズンぶりのベスト8へと導く決勝ゴールを挙げた。
その後インテルはセリエA、コッパ・イタリア、チャンピオンズリーグを制し、エトーは史上初めて2シーズン連続で三冠を獲得した選手となった。
2010-11シーズンも好調が続き、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ6戦で1位の7得点を記録。
セリエAでも得点ランクトップを走ったが、11月21日のACキエーヴォ・ヴェローナ戦では相手選手に頭突きをしてしまい、3試合の出場停止処分を受けた。
FIFAクラブワールドカップ2010では決勝のマゼンベ戦で1ゴール1アシストを記録するなど活躍し、ゴールデンボール(MVP)を獲得した。
12月21日にはクラブでの活躍が評価され、4度目のアフリカ年間最優秀選手賞を受賞した。
その後はセリエ、チャンピオンズリーグともに得点王こそ逃したものの攻撃の中心として活躍。
2011年5月9日のコッパ・イタリア決勝のUSチッタ・ディ・パレルモ戦では2得点を挙げ、インテルの2連覇に貢献。
またこの2得点でシーズンの総得点を37とし、バルセロナ時代の2008-09シーズンに記録した自己記録を更新した。
2011年8月24日、ロシア・ダゲスタン共和国に本拠地を置くFCアンジ・マハチカラに3年契約で移籍した。
移籍金は非公表であるが、移籍金2700万ユーロ、年俸は2000万ユーロと伝えられている。
その3日後に行われたロシア・プレミアリーグ第22節のFCロストフ戦(2-2)では後半58分から出場して80分に同点ゴールを挙げ、第23節のFCヴォルガ・ニジニ・ノヴゴロド戦では2試合連続となる得点を挙げた。
2013年8月、アンジは経営規模の縮小を発表。結果、主力選手の大半が市場に出ることになった。
古巣のインテルなどが獲得に動いたが、2013年8月29日、チェルシーFCに1年契約で移籍決定。
再びモウリーニョの下でプレーすることになる。
10月19日のカーディフ・シティFC戦で移籍後初ゴールを挙げると、2014年1月20日のマンチェスター・ユナイテッドFC戦ではハットトリックを達成した。
2014年8月26日、エヴァートンFCに移籍し、その後もクラブを転々とし、2019年に現役を引退した。
代表
1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会にはカメルーン代表史上最年少となる17歳3ヶ月で出場した。
同年のトヨタカップ、2000年のアフリカネイションズカップ、シドニー五輪を制した。
また、カメルーン代表として2002年日韓ワールドカップで来日した際にサガン鳥栖と試合をして決勝点を奪っている。
ワールドカップではグループリーグ第2戦のサウジアラビア戦で決勝点となるゴールを決め勝利に導く。
しかし1勝1分1敗の3位でグループリーグ敗退となった。
2006年ワールドカップドイツ大会のアフリカ最終予選は、アウェーでコートジボワールに勝利し最終戦を前に首位に立つが、最終戦でエジプトに終盤に追いつかれ、ロスタイムにピエール・ウォメがPKを失敗して引き分けに終わる。
最終戦に勝利したコートジボワールに抜かれ本大会出場を逃した(ヤウンデの悲劇)。
2006年のアフリカネイションズカップ・エジプト大会では、準々決勝でワールドカップの最終予選で最後まで出場を争ったコートジボワールとPK戦までもつれたが全員成功し2巡目の最初の番でエトオはクロスバーを越えるミスキックをしてしまい、チームはベスト8で敗れた。
2010年ワールドカップ南アフリカ大会ではグループリーグ初戦の日本戦では、チーム事情から本来のポジションとは異なる右サイドでのプレイを余儀なくされ無得点だったが、デンマーク戦とオランダ戦ではゴールを記録した。
9月5日のアフリカネイションズカップ2012予選のモーリシャス戦で2得点を挙げ、代表通算100試合出場と50得点を達成した。
2011年11月15日、代表戦出場ボーナスの支払いがないことから、アルジェリア代表との親善試合をボイコットして試合は中止された。
これを重く見たカメルーンサッカー連盟は、16日に代表戦15試合の出場停止処分を下したが、エトーは処分が不服であるとして規律委員会に訴え、4試合の出場停止に軽減された。
2014年8月27日、代表引退を表明した。
エピソード
幼い頃に父親に腕時計を買ってもらって以降、腕時計にはこだわりがあり、自らプロデュースも行っている。
2010年W杯予選の際は「カメルーンがW杯に出場できたらチームメイト全員に腕時計をプレゼントする」と宣言し、実際に出場決定後、自らのブランドの450万円相当の腕時計を贈った(計1億円に上る)。
携帯電話のマニアとして知られており、400台もの携帯を所持している(そのうち14台は別々の国、電話番号で稼働中)。
また、2012年1月には母国カメルーンで携帯電話会社を設立した。
フランス・パリ(Paris)の裁判所は、サッカー元カメルーン代表のサミュエル・エトーのかつての交際相手による暴露本の出版を禁止する判決を下した。
出版社はこの決定を不服として上訴している。
ナタリー・コーさんによる暴露本「リベンジポルノ―フットボール、セックス、金:サミュエル・エトーの元交際相手の証言(Revenge Porn – Football, sex, money: the testimony of Samuel Eto’o’s ex’)」には、自らを「辱められて裏切られた」と考えている女性のストーリーがつづられている。
出版予定だった本の中で29歳のナタリーさんは、既婚者であるエトーがスペイン1部リーグのFCバルセロナ、イタリア・セリエAのインテル、イングランド・プレミアリーグのチェルシーでプレーしていた2007年から2014年にかけての自身との関係を暴露している。
この本に対しエトーの弁護士は、フランスのプライバシーに関する法律に違反するとして裁判を起こし、この主張が認められた。
判決を受けてパリにある出版社の弁護人であるオリビエ・パルド氏は、すぐさま上訴している。
パルド氏はAFPに対し、判決は「本当にショックであきれている。全くもって不当だ。本はエトー氏だけでなく、ナタリー・コーの生活をあらわにするものだ」とコメントしている。
エトーとコーさんは、2014年中頃にもめにもめて破局して以来、対立を続けている。
カメルーン出身のコーさんはエトーがインターネットに彼女のヌード写真を流したと主張し、対するエトーはコーさんが「詐欺師で信頼を壊した」と非難している。
コーさんは自身のフェイスブックに動画を投稿し、「判決を残念に思いますが、打ちのめされてなどいません。私はこのストーリーの被害者です。私は真実をありのまま述べることを許されていないのです」と語っている。
ピッチ外ではトラブルメーカーでしばしば舌禍事件を起こす。
有名なものとしては2004-05シーズン優勝セレモニーでのマドリー侮辱事件。
カンプ・ノウで行われた優勝報告会において、超満員に膨れ上がった観衆の前で「Madrid ,cabron saluda al campeon!(くそったれマドリー、チャンピオンに挨拶しろ!)」と叫び物議を醸した。
2006-07、2007-08シーズンの「ロナウジーニョとの衝突」、「クラブ内情暴露事件」など。
マジョルカ在籍時、「黒人の運動神経を持ち、白人のように暮らす」と語ったり、2006年のドイツワールドカップのアフリカ最終予選(通称・ヤウンデの悲劇)後のインタビューにて「PKは自分が蹴ろうとしたが、ウォメが蹴らせてほしいと言ってきたので彼に譲った。」とコメントしたが後に嘘と分かり非難が集中、といったことがある。
プレースタイル
最大の武器は爆発的な瞬発力とスピード。
これを活かした飛び出しやドリブル、味方とのワン・ツーで一気にゴールを陥れるプレーを得意とする。
相手DFを背負いながらゴールを決めるボディバランスも併せ持つ。
また高い戦術理解度を持ち、前線ならどこでもプレー可能で、ボールを持っていない時(オフ・ザ・ボール)の動きの質が高い。
それを活かした味方とのポジションチェンジで相手の守備を混乱させるプレーや、味方が走りこむためのスペースを作り出す動きも得意。
中盤の組み立てにも積極的に加わり、しばしばアシスト役になる。
ピッチ外での印象と違い、ピッチの中では非常に冷静で、クレバーなプレーをする。
非常に献身的な、ある意味でストライカーらしからぬ選手であり、チームのために(ゴールから遠い)サイドで黒子役に徹することも厭わない。
また、アフリカ人特有のスタミナを生かした運動量は非常に豊富。
この運動量と持ち前の戦術理解度を活かし、FWとしてはとりわけ高い守備力を誇り、時にはDFラインまで戻って守備に走る。
バルセロナにおける戦術の核の1つでもあった。
精神力も強く、CL決勝やクラシコなど、土壇場や大舞台で値千金のゴールを決めることが多い。
一方で自身の記録を意識すると力みから悉くシュートを外してしまう一面もあり、そんなところもファンに愛される一因となっている。