概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1971年8月10日(48歳) | ||
出身地 | コーク | ||
身長 | 179cm | ||
体重 | 81kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、ディフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「キーノ」。
アイルランドが生んだ闘将。
サー・アレックス・ファーガソン監督から、指導してきた中で最高の選手と称され、あらゆるサッカー選手やファンから崇拝を受けてきたロイ・キーンは、マンチェスター・ユナイテッドというクラブが持つ揺るぎない精神力と気力を象徴するプレーヤーだった。
獲得タイトル
クラブ
ノッティンガム・フォレスト
- Full Members’ Cup: 1991–92
マンチェスター・ユナイテッド
- Premier League: 1993–94, 1995–96, 1996–97, 1998–99, 1999–2000, 2000–01, 2002–03[186]
- FA Cup: 1993–94, 1995–96, 1998–99, 2003–04
- FA Community Shield: 1993, 1996, 1997, 2003
- UEFA Champions League: 1998–99
- Intercontinental Cup: 1999
セルティック
- Scottish Premier League: 2005–06
- Scottish League Cup: 2005–06
個人
- PFA Team of the Year: 1992–93 Premier League, 1996–97 Premier League, 1999–2000 Premier League, 2000–01 Premier League, 2001–02 Premier Leagueref>“PFA teams send Hatters mad”. The Guardian. London. 15 April 2002. Retrieved 25 April 2018.</ref>
- PFA Team of the Century: (1907–2007)
- Team of the Century 1997–2007
- Overall Team of the Century
- FAI Young International Player of the Year: 1993, 1994
- FAI Senior International Player of the Year: 1997, 2001
- Premier League Player of the Month: October 1998, December 1999
- Sir Matt Busby Player of the Year: 1999, 2000
- RTÉ Sports Person of the Year: 1999
- FWA Footballer of the Year: 2000
- PFA Players’ Player of the Year: 2000
- ESM Team of the Year: 1999–2000
- Premier League 10 Seasons Awards: (1992–93 to 2001–02)
- Overseas Team of the Decade
- English Football Hall of Fame: 2004
- FIFA 100
- Premier League 20 Seasons Awards: (1992–93 to 2011–12)
- Fantasy Teams of the 20 Seasons (Panel choice)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1989-1990 | ![]() |
23 | (1) |
1990-1993 | ![]() |
114 | (22) |
1993-2005 | ![]() |
326 | (33) |
2005-2006 | ![]() |
10 | (1) |
通算 | 473 | (57) | |
代表歴 | |||
1991 | ![]() |
4 | (0) |
1991-2005 | ![]() |
67 | (9) |
クラブ
アイルランド共和国南部のコーク近郊の労働者階級の家に生まれる。
少年時には数年間、ボクサーとしての訓練を積んでいたが、やがてサッカー選手としての才能が開花し、注目を集めるようになる。
子供のころはセルティックとトッテナム・ホットスパーのファンであり、選手としてはリアム・ブレイディとブライアン・ロブソンのファンであったと自伝で回顧している。
しかし、10代の頃のキーンは体格的に見劣りしたため、様々なクラブのセレクションを受けたもののことごとく落とされていた。
結局、1989年にアイルランド・リーグに所属する地元のクラブ、コーブ・ランブラーズと契約してセミプロのサッカー選手となると、キーンはすぐにその実力を発揮し、ファースト・チームのレギュラーの座を手に入れた。
キーンの活躍はイングランドのスカウトの目にとまり、1990年夏、キーンは名門ノッティンガム・フォレストに移籍する。
この時の移籍金は47,000ポンドで、後にノッティンガムが手にする移籍金を考えるとタダ同然の金額であった。
トップチームでのリーグ戦デビューは1990-91シーズン開幕戦のリバプールFC戦で、この時はまだレギュラーではなかったが、やがてキーンはイングランド1部においても十分に通用する実力の持ち主であることを証明し、シーズン半ばでレギュラーの座を獲得した。
ノッティンガムはFAカップやリーグカップで決勝に進出するなど、カップ戦では好成績を残していたが、1992-93シーズンには残留争いに敗れて2部降格が決定。
キーンはブラックバーン・ローヴァーズへの移籍がほぼ確定していたが、移籍の契約書にキーンがサインする直前にアレックス・ファーガソンがキーンに電話をかけてマンチェスター・ユナイテッドに勧誘。
キーンはブラックバーン移籍を撤回し、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍を選んだ。
移籍金は375万ポンドで、当時のイングランド記録であった。
ブライアン・ロブソンの後継者として1993-94シーズン中にレギュラーの座を継承。
このシーズンにはプレミアシップ優勝とFAカップ優勝のダブルを経験している。
1994-95シーズンにチームが無冠に終わるとファーガソン監督はチームの若返りを断行。
ポール・インス、アンドレイ・カンチェルスキス、マーク・ヒューズらベテラン選手を放出して、ライアン・ギグス、デビッド・ベッカム、ポール・スコールズ、ニッキー・バット、ガリー・ネヴィル、フィリップ・ネヴィルら若手を中心としたチーム編成に切り替えた。
この結果、キーンは主将のエリック・カントナに次ぐベテラン選手となった。
1997年にカントナが引退すると、キーンは主将の座を継承。
しかし1997-98シーズンはアルフ・インゲ・ハーランドとの接触プレイによって大怪我を負い(後述)、満足にプレー出来ないシーズンとなった。
1998-99シーズンには、伝説の三冠(プレミアシップ、FAカップ、チャンピオンズリーグ)獲得の原動力となるも、チャンピオンズリーグ決勝は累積警告のためにスタンド観戦となってしまった。
1999-2000シーズンにイングランドの年間最優秀選手に選ばれている。
選手生活の後半は故障と戦いながらも主将として絶大な存在感を発揮し、2002-03シーズンのプレミアリーグ優勝、2003-04シーズンのFAカップ優勝にも貢献した。
しかし、クラブがライバルであるアーセナルFCやチェルシーFCの後塵を拝することが多くなると、次第に若手選手の闘争心の欠如を批判する機会が増えていった。
このような流れの中、2005年11月18日、「MUTV」においてリオ・ファーディナンドを批判したとされる事件(結果的には放送されなかった)と、自身の故障がきっかけとなり、突如マンチェスター・ユナイテッドとの契約を解除。
2005年12月16日、スコティッシュ・プレミアリーグの名門で、アイルランド人のサポーターが極めて多いことで知られるセルティックFCに入団した。
この移籍劇の背景には、かねてから現役生活の最後はセルティックで終わりたいと発言してきたキーンの、セルティックへの思いもあったと推測される。
キーンのセルティックでのデビュー戦では、スタンドに巨大なアイルランド国旗が人文字で描かれ、キーンの絶大な人気を改めて実感させた。
しかしこのデビュー戦であったスコティッシュカップ3回戦で格下相手に負けてしまうと、チームの中盤はブルガリア代表のステュリアン・ペトロフや、キャリアの黄金期だった中村俊輔を中心に確立されていた事もあり、キーンはポジションを獲得できず、出場機会は限られた。
キーンは2006年3月、このシーズン限りでの現役引退を表明した。
2006年5月9日にはオールド・トラッフォードでセルティックとマンチェスター・ユナイテッドによるテスティモニアル・マッチが開催され、前半はセルティック、後半はマンチェスター・ユナイテッドの選手として出場した。
この試合は2万人以上のセルティック・サポーターを含む7万人弱の入場者を集め、200万ポンド以上の収益を出した。
キーンはその大部分を慈善団体に寄付する意向を示した。
代表
1991年5月22日チリ戦でアイルランド代表デビュー。
長く主力としてセントラルミッドフィールダーのレギュラーを務めた。
しかし、キャリア後半には慢性的な臀部の故障もあり、重要な試合を中心に試合を選んで出場するようになった。
チーム内では一匹狼を貫いており、年齢も上で代表通算ゴール記録保持者でもあったナイアル・クインでさえ、ロイと二人きりになるのを恐れていたという。
2002年のFIFAワールドカップでは、直前にサイパン島で行われた合宿中に、彼が行ったアイルランド・サッカー協会批判がマスメディアにセンセーショナルに掲載されたり、練習方法を巡ってコーチのパッキー・ボナーとの対立、練習中にGKのアラン・ケリーが真面目にやらなかったことに腹を立てたキーンがケリーを殴ったりした結果、かねてから折り合いが悪かった監督のミック・マッカーシーとの不仲が決定的となり、ワールドカップに参加しないまま帰国を命じられた。
キーンは後にブライアン・カー監督の指揮下のアイルランド代表に復帰し、2006年FIFAワールドカップドイツ大会の欧州予選ではチームの中心となって活躍したが、アイルランド代表の予選落ちが決定すると再び代表から退いた。
エピソード
2002年に『ロイ・キーン 魂のフットボールライフ』という自伝を出版した。
中でも反響を呼んだのは、2001年4月に行われたマンチェスター・シティとのダービーマッチで、アルフ・インゲ・ハーランド(“怪物”ハーランドの父)に対し、報復を意として故意にハードタックルを行い、怪我をさせたとも取れる記述であった。
1997年、ゲーム中にハーランドと軽く接触して転倒したロイ・キーンに対し、ハーランドは「おおげさに倒れ込むな」という趣旨のことを強い口調で言っている。
実際には、十字靱帯断裂の大怪我で、キーンはほぼ1年を棒に振ることになる。
キーンが膝をひねったのはやや遅れてのタイミングだったため、ハーランド自身は現場では大怪我に気づいていなかった可能性もある。
キーンは後にこの記述をゴーストライターによる脚色であると主張したが、キーンが件の負傷以来ハーランドに悪感情を持っていたのは事実であり、その種の情動がハーランドへのタックルを必要以上に危険なものにした可能性は捨てきれない。
事態を重く見たイングランドサッカー協会は、故意の危険行為とサッカー選手としての品性を欠く自伝出版による金銭享受を理由として、プレミアシップのリーグ戦5試合出場停止と罰金15万ポンドという処分を課した。
この時もキーンは悪びれる様子もなく、「この出場停止期間を当時故障していたでん部の治療に費やせる」という旨のコメントを出している。
ハーランドはこの故障の後、数度の手術を経てピッチに復帰し、数試合に出場したが、結局マンチェスター・シティではレギュラーの座を回復出来ず、2003年に現役を引退している。
被害者となったこのハーランドの息子が、今をときめくドルトムントのFWアーリング・ハーランドだ。
若くしてゴールを量産している“怪物”は、冬の移籍市場で他でもないユナイテッドからもオファーが届いていた。
そのオファーをけってドルトンムントに移籍した後も勢いは止まず、レアル・マドリーが獲得に乗り出すなど、さらなるステップアップが確実視されている。
ロイ・キーンは2005年にはクラブの公式チャンネル『MUTV』の番組でチームメイトたちを批判。
ミドルズブラ相手に4失点した試合でのファン・デル・サール、オシェイ、リオ・ファーディナンド、アラン・スミスら6人のプレーをこき下ろした。
その非難があまりに強烈だっために、ユナイテッドはその映像をお蔵入りに。
この件もあり、キーンは同年11月にユナイテッドとの契約を解除して、セルティックへと去っていった。
ただ、このキーンの言動について、ウェイン・ルーニーは問題なかったと考えているようだ。『The Times』でこう綴った。
「ロイ・キーンは遠慮なく言う人だった。
(2004年に加入した)ユナイテッドでの最初の練習を覚えているよ、『彼に自分のことを印象づけなければいけない』と思ったことをね。
監督ではなく、彼に。
彼が悪名高いMUTVでのインタビューをやった時に自分もユナイテッドにいた。
でも、あの件についての描写には同意できない。
ロイはチームメイトをあまりに叩き過ぎたと思われている。
でも、自分はあのビデオを見たけれど、何の問題もないものだった。
彼は選手たちが10ヤード(9メートル)のパスもできないと言っていた。
マンチェスター・ユナイテッドのためにプレーしているのに、それでは力不足だと。
その通りだよ」
問題となったボロ戦での全失点シーンがこれだ↓
確かに守備がズタボロ…。
ファンデルサールはメンディエタのミドルを弾き切れず、リオはハッセルバインクの餌食に(49秒~)、リチャードソンはPKを献上(1分35秒~)、最後はリオがブチ抜かれてメンディエタが留めの一撃(2分17秒~)。
そのなかで、クリスティアーノ・ロナウドは豪快な一発で一矢を報いている(3分17秒~)。
かつてアルゼンチン代表として活躍したDFガブリエル・エインセ。
その彼がユナイテッド時代の話を明かした。
『JOE』によれば、闘将ロイ・キーンとの間にこんなエピソードがあったそうだ。
「試合に負けた後、自分が真っ先にロッカールームに戻り、ロイ・キーンがその後だった。
試合後真っ先に戻りたかったんだ。負けたから誰ともしゃべりたくなかった。
自分は英語は分からなかったけれど、あれはひどい言葉だった。
私の名前と『失せろ』というのが聞こえた。最高の選手であるロイ・キーンからね。
それがひどい(言葉だ)と知っていたので、彼に詰め寄ったんだ。マンチェスターのアイドルで、誰からも愛された偉大な彼にね。
そして、『お前が失せろ』と言い返した。次に起こったことは覚えてないよ」
そのうえで、キーンからKOされたのかと聞かれると、「Yes」と答えたそうだ。
エインセはキーンにノックアウトされその後の記憶がないようだ。
やはり負けた後のキーンはやばいようだ…。
プレースタイル
闘将として知られ、激しい守備で中盤の潰し屋になれる選手かつ、攻撃の起点となることもできる選手でした。
パスも上手く、キーンはスルーパスじゃなくて足元に出すようなパスを凄く好む。
途中から入ってきた人とかミスしたばっかの人の足元に積極的にパスするのがキーンの特徴だと思います。
運動量も豊富でした。
特に激しい守備は彼の真骨頂。
激しく動き回り、激しい守備でボールを奪う。
マンチェスターUでは中盤の底にいることが多かったです。
中盤の中央をスコールズと組むときはスコールズが積極的に攻撃参加するので、ロイ・キーンは後ろにいることが多かったと思います。
ニッキー・バットと組むときはバットはスコールズのように攻撃的でないので、ロイ・キーンが攻撃参加する回数が増えた。
ただ、ロイ・キーンといえば、やはり、そのメンタリティ、キャプテンシーだろう。
闘将と言えばロイ・キーンというくらい、彼のメンタリティは特筆している。
ピッチの内外を問わず、キーンほど強力なリーダーシップを発揮したスポーツ選手は少ない。
チームメイトを鼓舞し、ピッチの中を縦横無尽に動き回るキーンのイメージは、1990年代のユナイテッドというチームをそのまま定義付けることになった。
歯に衣着せぬ発言で知られ、チームメイトに対しても、自らが要求する高いレベルでのプレーができない場合は、容赦なく攻撃した。
その強烈なリーダーシップでチームを統率し、チームを戦う集団へと変貌させていた。
生粋のファイターです。