概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1976年6月23日(44歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 192cm | ||
体重 | 85kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ)。
利き足は右。
愛称は「プレデター」。
無敗優勝を飾るなどインビジブルズと呼ばれたアーセナルの黄金期を支えたフランス代表の大型センターハーフ。
1998年フランス・ワールドカップ優勝メンバー。
2006年ドイツ・ワールドカップでも準優勝に貢献した。
獲得タイトル
クラブ
アーセナル
- Premier League: 1997–98, 2001–02, 2003–04
- FA Cup: 1997–98, 2001–02, 2004–05
- FA Community Shield: 1998, 1999, 2002
インテル・ミラノ
- Serie A: 2006–07, 2007–08, 2008–09, 2009–10
- Supercoppa Italiana: 2006, 2008
マンチェスター・シティ
- FA Cup: 2010–11
代表
フランス代表
- FIFA World Cup: 1998
- UEFA European Championship: 2000
- FIFA Confederations Cup: 2001
個人
- Division 1 Rookie of the Year: 1995
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 2000
- FIFA Confederations Cup Silver Ball: 2001
- FIFA World Cup All-star team: 2006
- PFA Team of the Year: 1998–99 Premier League, 1999–2000 Premier League, 2000–01 Premier League, 2001–02 Premier League, 2002–03 Premier League, 2003–04 Premier League
- Premier League Player of the Season: 2000–01
- UEFA Team of the Year: 2001
- French Player of the Year: 2001
- Premier League Overseas Team of the Decade: 1992–93 – 2001–02
- Premier League Overall Team of the Decade: 1992–93 – 2001–02
- FIFA 100: 2004
- Sports Illustrated Team of the Decade: 2009
- Équipe type spéciale 20 ans des trophées UNFP: 2011
- English Football Hall of Fame: 2014
- Golden Foot Legends Award: 2019
経歴
1976年6月23日、パトリック・ヴィエラはセネガルの首都ダカールで生まれ、8歳の時に家族とともにフランスへ移住した。
移り住んだ街トラップの地元クラブでプレーを始めたヴィエラだったが、間もなく両親は離婚。
母親の仕事の都合でドルーに引っ越し、ここで頭角を現わす。
13歳ですでに身長が180センチに達したという彼は、ナンシー、ナントといったクラブからスカウトを受けたが、91年にトゥールに入団する。
この頃にはさらに身長が188センチまで伸びていた15歳の少年は、中盤のゲームメーカーとしての高い資質を示すとともに、守備面でも成長を遂げ、早くも自身のプレーの基盤を作り上げつつあった。
そして93年に1部のカンヌに引き抜かれ、ユースチームで5か月ほどを過ごした後、11月20日のナント戦でプロデビュー。
ルイ・フェルナンデス、サフェト・スシッチという歴代監督からは絶大な信頼を寄せられ、10代にしてヴィエラはキャプテンマークを腕に巻いた。
2年目には国内リーグで31試合に出場して2ゴールを挙げた他、欧州カップ戦(UEFAカップ)も経験。そして注目の銘柄となっていた3年目、カンヌの財政難によって移籍は避けられない状況となり、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドからも関心を寄せられたものの、95年11月、ミラン移籍で合意に達した。
「フランク・ライカールトの後継者」との多大な期待をかけられ、月収は100倍にはね上がったが、当時のミランにはマルセル・デサイー、デメトリオ・アルベルティーニら、すでに実績十分なワールドクラスのMFが多く在籍しており、ヴィエラのこのシーズンの出番は公式戦5試合に止まった。
伸び盛りのヴィエラはプレーできない状況を嫌い、退団を希望。
当初、アヤックス行きの可能性があったものの、行き先はアーセナルとなった。
フランス人選手が何人か在籍し、何より監督もフランス人のアーセン・ヴェンゲルだったことで、「母国語で監督と話ができるのは大きい」と、ヴィエラはこの移籍を喜んだ。
彼のプレースタイルは、アーセナルにフィットし、ここから飛躍的な成長を遂げる。
192センチの強靭な体躯を活かしてボールを奪い、そこからゲームを組み立て、さらにポジションを上げてこぼれ球を拾ってミドル、あるいは前線でボールを受けてフィニッシュなど、多くの役割をこなしていった。
1年でリーグ31試合に出場して不動のレギュラーとなり、翌97-98シーズンには7年ぶりのリーグ優勝に貢献。
その後、プレミア制覇は2001-02、03-04シーズンにも成し遂げることとなる。
アーセナルでは他に、FAカップで4度、コミュニティーシールドを4度と、計12個のタイトルを手にした。
「イングランドで揉まれ、誰にも負けないガッツを手に入れた」と後に振り返ったヴィエラだが、当初はその闘争心が過剰なハードプレー、そして相手選手との対立に繋がり、「カードコレクター」と呼ばれるほどに警告・退場が多い選手だったが、徐々にプレーは落ち着き、アーセナルでの最後の3シーズンはキャプテンを務めた。
「世界最高のMF」と称され、あのレアル・マドリーからのオファーを受けながら、アーセナルで9シーズンを過ごしたヴィエラだったが、05年夏、慣れ親しんだクラブを離れる決心を下したのだった。
05年夏にアーセナルを退団してイタリア再上陸を果たし、名門ユベントスの一員として1年目でセリエA制覇に貢献するも、チームに八百長疑惑がかかり、B降格が確実とされたことで移籍を決意。
かつて失意を味わったミランのライバル、インテルのユニホームを身に纏うこととなった。
当時のセリエAは、上位チームの多くが降格や勝点剥奪処分を受けたことで、インテルの一強状態にあり、ヴィエラは加入から3年連続でスクデット獲得の喜びを味わったものの、ジョゼ・モウリーニョが監督になると出場機会は減り、4度目のリーグ優勝、そしてチャンピオンズ・リーグ制覇を飾ることになる09-10シーズンの途中でマンチェスター・シティに新天地を求めた。
シティでは2シーズン目にFAカップに優勝。
ヴィエラがピッチに立ったのは終了間際の90分だったが、ピッチの上でタイトル獲得の喜びを味わうことができた。
これが彼にとって最後のタイトル、そして現役最後の試合となった。
代表
95年にU-21代表のメンバーに名を連ね、96年には出場機会こそ訪れなかったものの、アトランタ・オリンピックにも出場。
そして翌年2月26日、オランダ戦でA代表デビューを飾った。
98年、自国で開催されたワールドカップにも最終メンバーの一員として参加。
グループリーグ、決勝トーナメント進出を決めた後の最終デンマーク戦に先発出場し、ブラジルとの決勝戦では76分にユーリ・ジョルカエフに代わってプレーし、初優勝の瞬間をピッチ上で迎えた。
22歳で世界王者の称号を手にしたヴィエラ。
その2年後にはオランダ・ベルギーでの欧州選手権に出場したが、さらなる成長を遂げていた彼は、長く「レ・ブルー」を牽引してきたキャプテンのディディエ・デシャンやエマニュエル・プティの存在をかすませるほどの活躍を見せる。
準々決勝スペイン戦ではジョルカエフの決勝ゴールをアシストと、結果に直接繋がる重要な仕事を果たした。
決勝ではイタリアに主導権を握られて苦労する時間帯もあったが、これを乗り切ると、攻撃陣が後半アディショナルタイムに劇的な同点ゴール、さらに延長戦でゴールデンゴールを奪い、欧州王者の座も手にしたのだった。
代表でも次々に歓喜を味わう彼にとって、最後のタイトルとなったのは01年。
日本・韓国で開催されたコンフェデレーションズカップだった。
ジネディーヌ・ジダンら主力の何人かが欠場したこの大会でも、フランスは勝ち進み、横浜で日本代表との決勝に臨んだ。
この試合、フランスの決勝点となる唯一のゴールを挙げたのは、他ならぬヴィエラだった。
DFフランク・ルバフの上げたフィードに合わせて前線に飛び込んで頭で合わせ、GK川口能活の頭上を越したのだ。
自ら勝負を決めたヴィエラは、翌年の2002年W杯で再び極東の地に戻って来たが、無残なグループリーグ3連敗で敗退。
2年後、ポルトガルでのEURO2004は、自身が欠場した準々決勝ギリシャ戦でチームの戦いは終わった。
2006年から2009年にかけて、フランス代表キャプテンを務めた。
失意の2大会を終え、迎えた06年ドイツW杯、彼は再び中盤で輝きを放つ。
グループリーグ最終戦、大黒柱のジダンが出場停止という状況でフランスはトーゴ相手に2点差の勝利が求められたが、自ら先制ゴールを決め、さらにティエリ・アンリの2点目をアシストしてチームを救った。
奇しくもこの日は、ヴィエラの30回目の誕生日だった。
さらに決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では、フェルナンド・トーレスを完全に封じながら、攻撃では決勝点となる2点目を頭で決め、またも勝利の立役者となった。
準々決勝ブラジル戦、準決勝ポルトガル戦では相手の攻撃陣を封じ込めて最少得点差勝利に貢献したヴィエラは、決勝イタリア戦では攻撃に厚みを加えていたが、後半にファビオ・カンナバーロとの接触で負傷退場。
彼を失ったフランスは粘ったものの、PK戦の末に涙を飲んだ。
この後、ヴィエラはオーストリア・スイスで開催されたEURO2008でメンバー入りは果たすも、膝の怪我で出場なし。
そして09年6月2日のナイジェリア戦が、代表でのラストマッチとなった。
代表キャップ数107は、歴代6位の数字である。
エピソード
アーセナル時代にも当時、熾烈なライバル関係にあったマンチェスター・ユナイテッドのロイ・キーンと入場前に口論となって乱闘寸前にまでいったり、挑発してきたルート・ファン・ニステルローイに掴みかかったりしている。(トンネル事件)
グラハム・ポール主審やチームメイトたちが割って入ったことで、事態は収拾したものの、この出来事は、当時のライバル関係の激しさを象徴するエピソードとして広く知れ渡っている。
この時、先発メンバーとしてユナイテッド側の列に並び、文字通りの目の前で事の経緯を見ていたシルベストルは、こう語っている。
「緊張感が凄まじかったよ。お互いに選手たちは何かを言い合っていた。そんななかで先に手を出したのは、ヴィエラだった。彼は周りのチームメイトたちにも聞こえるぐらいの大声でガリー・ネビルに言ったんだ。『おい! ネビル! ネビル! 今日は退場するなよ? 試合後に俺が相手になってやるからな』ってね」
シルベストルによれば、これを聞きつけた“闘将”キーンは、すぐさまヴィエラに詰め寄ったという。
「キーンは偉大なキャプテンだった。彼は列の先頭にいたんだけど、すぐに後ろの方へやってきて、ヴィエラに言ったんだ。『俺のチームメイトをどうにかしたいなら、まず俺に言え。話はそれからだ』とね。それからの顛末はみんな知ってるでしょ」
今のユナイテッドとアーセナルに当時のような強烈なライバル関係はなく、ヒートアップすることも少なくなった。
だからこそ、あのトンネルで起きた“マッチアップ”は、語り継がれる事件となっているかもしれない。
ただ、最近のインタビューではいい思い出とも言っている。
2013年に、テレビ番組でキーンと対談し、二人は握手を交わしている。
かつてシニシャ・ミハイロヴィチと試合中に口論になり、黒人差別発言をされたことがある(ただし、ヴィエラも「ジプシー野郎」と発言したとされる)。
インテル移籍により同じクラブでコーチと選手という間柄になったが、ヴィエラ曰く「あの件はもう過去のことですから」とのことだった。
しかし、2006-07シーズン最初のミラノダービーの試合後、ロッカールームで乱闘騒ぎを起こした。
2000年にベルナール・ラマら数人と共同出資で母国セネガルにアマチュアクラブ「ジャンバルスFC」を設立している。
同クラブは2009年にプロサッカークラブとなり2013年にはリーグ初優勝を果たした。
アーセナル時代、レアル・マドリードから100億円以上のオファーが来たと報道され、移籍しなかったことを後悔していたと言われていた。
プレースタイル
当時、世界最強MFの名を手にした大型MF。
192cmという長身ながらも足元のテクニックに優れており、攻撃の組み立てを行なったり、大胆なキーパスでゴールを演出し続けてきました。
また、大柄で屈強な体を武器に、ドリブルでボールを前へ運べる技術ありました。
圧倒的なフィジカルと洗練されたテクニックで他を寄せ付けない力があった。
また、飛び出しで攻撃に参加すれば空いたスペースへ飛び出し強烈なシュートを叩き込む。
当時ヴィエラに競り合って勝てる選手はいないほど空中戦に強く、時折魅せる深い位置からのパスは何度も絶妙なコントロールでわずかな隙間を通し、アシストしてきました。
多彩な攻撃力を持っていたヴィエラですが、守備能力も完璧でした。
長身であるため空中戦にも強く、長い足を生かしたボール奪取力、ダイナミックなスライディング。
中盤で相手を潰すことにも長けていた選手です。
全盛期のアーセナルは、ヴィエラが奪ったボールからショートカウンターって形が黄金ルートでした。
攻撃にも守備にも規格外の能力を持つヴィエラはまさにオールラウンドな怪物です。
中盤に君臨するヴィエラはキャプテンとしてもチームを導く選手で、闘志あるファイターでした。
輝かしいキャリアを歩んできたヴィエラですが、若かりし頃は猛々しい性格でラフプレーが散見されていました。
「カードコレクター」と呼ばれるほど警告が多かった選手でした。
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