概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1978年3月11日(42歳) | ||
出身地 | アビジャン | ||
身長 | 189cm | ||
体重 | 91kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称はティト(Tito)。
コートジボワールの英雄。
2度のアフリカ年間最優秀選手、2度のプレミアリーグ得点王など数々の栄誉を手にしたストライカー。
コートジボワール代表の元主将であり、最多得点記録の保持者でもある。
獲得タイトル
クラブ
チェルシー
- Premier League: 2004–05, 2005–06, 2009–10, 2014–15
- FA Cup: 2006–07, 2008–09, 2009–10, 2011–12
- Football League Cup: 2004–05, 2006–07, 2014–15; runner-up: 2007–08
- FA Community Shield: 2005, 2009
- UEFA Champions League: 2011–12
ガラタサライ
- Süper Lig: 2012–13
- Turkish Cup: 2013–14
- Turkish Super Cup: 2013
フェニックス・ライジング
- Western Conference (USL): 2018
個人
- Africa Cup of Nations Team of the Tournament: 2006, 2008, 2012
- African Footballer of the Year: 2006, 2009
- Alan Hardaker Trophy: 2007
- Ballon d’Or: 2006 (8th place), 2007 (4th place), 2009 (9th place)
- BBC African Footballer of the Year: 2009
- CAF Team of the Year: 2005, 2006, 2009, 2010, 2012
- Chelsea Players’ Player of the Year: 2007
- Chelsea Player of the Year: 2010
- ESM Team of the Year: 2006–07
- FA Community Shield Man of the Match: 2005
- FA Cup Final Man of the Match: 2010
- FIFA FIFPro World XI 5th team: 2013
- FIFA Ballon d’Or: 2010 (9th place), 2012 (8th place)
- FIFA World Player of the Year: 2005 (10th place), 2006 (6th place), 2007 (4th place), 2009 (6th place)
- FIFPro World XI: 2007
- FWA Tribute Award: 2015
- Golden Foot: 2013
- Ivory Coast Player of the Year: 2006, 2007, 2012
- Ligue 1 Goal of the Year: 2003–04
- Ligue 1 Player of the Month: January 2004, May 2004
- Ligue 1 Player of the Year: 2003–04
- Ligue 1 Team of the Year: 2003–04
- MLS All-Star: 2016
- MLS Player of the Month: September 2015, October 2015
- Montreal Impact Top Scorer: 2015[citation needed]
- Onze d’Or: 2004
- Premier League Golden Boot: 2006–07, 2009–10
- PFA Team of the Year: 2006–07 Premier League, 2009–10 Premier League
- Time Top 100: 2010
- Turkish Footballer of the Year: 2013
- UEFA Best Player in Europe Award: 7th place 2012
- UEFA Champions League Final Man of the Match: 2012
- UEFA Team of the Year: 2007
- UNFP Trophy of Honour: 2019
経歴
裕福な銀行員の家庭に生まれる。
将来は医者か何かに、と父親がエリート教育を望んだため、5歳で生まれ故郷のコートジボワールを離れフランスへ。
サッカー選手であった叔父の元で育てられた影響で、学問だけでなくサッカーでも頭角を現す。
18歳までパリ郊外の地元チームに所属、19歳でル・マンUCとプロ契約し選手生活が始まる。
しかし黒人であることから、チームメイトから「なんで黒人がフットボールなんてやってんだ?」と言われるなどし、差別が根強かったサッカー文化に絶望したこともあるという。
ル・マンでは怪我もあり満足な活躍ができず、2001-02シーズン途中からギャンガンに移籍、2002-03シーズンに17得点を挙げると注目され、マルセイユに5年契約で移籍。
素早い順応を見せ、リーグで18得点を挙げ、2003-04シーズンのリーグ・アン最優秀選手に選出された。
UEFAカップでも6ゴールを挙げて準優勝の原動力になった。
チャンピオンズリーグで対戦した当時FCポルトのモウリーニョ監督の目に留まり同監督とともにイングランド・プレミアリーグのチェルシーへ、同クラブ史上最高額の推定移籍金3600万ユーロで移籍した。
背番号を15番から11番に変更した2006-07シーズン、アンドリー・シェフチェンコの加入により出番が少なくなると思われていたが、2トップで使われる形が多くなることもありチェルシー加入3シーズン目で本領発揮、開幕から活躍を見せアフリカ年間最優秀選手に選ばれる。
最終的に公式戦59試合出場33得点を挙げた。
20得点を挙げてプレミアリーグ得点王となった。
2008-09シーズンに就任したルイス・フェリペ・スコラーリ監督の下では、怪我などにより控えに回る事が多く不発に終わったが、2009年2月に就任したフース・ヒディンク監督の下では、これまでにはなかったニコラ・アネルカとの2トップを組み、UEFAチャンピオンズリーグ2008-09のユヴェントス戦では1stレグ、2ndレグともにゴールを決めるなど、怪我からの復調を印象付ける活躍をみせ、改めてエースとしての存在感を見せつけた。
2009年5月6日にスタンフォード・ブリッジにおいて開催されたUEFAチャンピオンズリーグ準決勝2ndレグ、FCバルセロナ戦において主審を務めたトム・ヘニンク・エブレベの判定に対して試合後に激しい批判を行い、後に行動が不適切であったとして謝罪した。
また、以前から慕っていた元チェルシー監督のジョゼ・モウリーニョを追ってインテル・ミラノに移籍するという噂がメディアの間で度々出ていたが本人がこれを否定、更にはチェルシーとの契約延長が決まった。
2009-10シーズンのアンチェロッティ監督の下では前シーズン得点王のニコラ・アネルカと2トップを組み、ゴールを量産。
自身は「相手にとって最も怖いFWコンビになる」とコメントしている。
2009年10月10日のマラウイ戦ではコートジボワールの2大会連続W杯出場を決める同点ゴールを挙げた。
そして2010年5月9日、勝てば自力でのチェルシーの優勝が決まる最終節のウィガン戦でハットトリックを達成するなどチームを勝利に導き、リーグ通算29点を挙げ得点王も獲得した。
さらにチームは総得点103点という記録を叩き出し、プレミアリーグのシーズン最多得点記録を更新している。
UEFAチャンピオンズリーグ 2011-12 決勝では1点ビハインドから同点ゴールをヘディングで決め、PK戦でも最後のキッカーとして成功させチームを優勝に導いた。
この試合ではUEFA選出のマン・オブ・ザ・マッチにも選ばれている。
2011-12シーズンをもってチェルシー退団を発表。
同クラブ初となるUEFAチャンピオンズリーグの優勝を決めたPKが、チェルシーでのラストタッチとなった。
2012年6月20日に自身のホームページで、中国スーパーリーグの上海申花に移籍する事を発表した。
しかし、給料未払いなどの問題から移籍が噂されるようになり、ユヴェントスやミラン移籍の噂が注目された。
2013年1月にトルコ・スュペル・リグのガラタサライに移籍した。
2013-14シーズンで契約満了によりガラタサライを退団し、2014年7月25日、古巣のチェルシーに復帰した。
背番号は15番を使用する事になっていたが、その後チェルシーで最も成功したシーズン時につけていた背番号である11番に変更された。
2014年10月21日、チャンピオンズリーグのNKマリボル戦でチェルシー復帰後初ゴールを挙げた。
2015年5月24日にチェルシー退団を発表した。
2014年8月に代表を引退した。
フリー状態となっていたが、2015年7月27日にMLSのモントリオール・インパクトへの加入を発表した。
2017年からは、北米サッカーリーグ(実質アメリカ2部)に所属するフェニックス・ライジングFCにて共同オーナー兼選手としてプレー。
10月20日には、リーグ戦で40ヤード超の距離から直接FKを決めて話題となった。
2018年3月に今シーズン限りでの引退を示唆していたが、11月21日に正式に引退を発表。
自身のキャリアについて、「選手として成し遂げてきたことにこれ以上誇りに思えることはない」と振り返った。
エピソード
幼い頃フランスへ移住していたため、フランス人としてフランス代表でプレーすることも可能であったが、母国であるコートジボワール代表を選択。
DFコロ・トゥーレと共に母国をW杯初出場に導く原動力となった。
コートジボワールでは、ディディエ・ドログバは大統領よりも力があると言われています。
コートジボワールでは、2002年より北部・南部の対立から内戦が勃発していました。
そのような内戦状態が続く中、2005年10月、06年ドイツ大会の本大会進出を決めた試合の後、マイクを手にしたドログバは、更衣室でチーム全員と一緒に、生中継のテレビカメラに向かってひざまずき、内戦をやめるよう訴えたのです。
「コートジボワール市民の皆さん、北部出身の、南部の、中部の、そして西部出身の皆さん、私たちはこうやってひざまずき皆さんに懇願します。許し合ってください。コートジボワールほどの偉大な国がいつまでも混乱し続けるわけにはいきません。武器を置いて、選挙を実施してください。そうすれば全てが良くなります」
このドログバの熱い演説の結果、内戦は1週間以内に治まったそうです。
2011年6月に、2010年コートジボワール危機以降混迷が続くコートジボワールの和平を進める11人の特別委員の1人として政府に選出された。
アメリカ『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」の中に選ばれている。
2017年5月、ESPNは世界で最も有名なアスリート100人を発表し、80位に選出された。
サッカー選手としては31位。
プレースタイル
ドログバの最大の特徴は、まずはその体格です。
189センチ・91キロという大型FWで、その圧倒的なフィジカルを活かしたプレーが得意です。
相手のチャージにも負けないパワータイプというのが、彼の基本的なプレースタイルになります。
ゴリゴリと相手を倒しながら進んでいく姿は本当に迫力があります。
相手DFが体を当てても振れる印象が全くりません。
それに加えて、状況判断がいいことも大きな特徴です。
サイドへの送り、スルーパス、単独での突破など、一瞬にして状況を分析し、その都度ベストな選択をする判断力に優れているのも魅力かなと。
そのプレースタイルは結果として、砲弾のような強烈なシュートを相手ゴールに見舞うのですから、格闘技サッカーとも言えそうなほどです。
身長が高いので空中戦でも絶対的な強さを見せます。
もちろん、アフリカ系の選手ならではのスピード、高度な足元のテクニックも当然備わっています。
このベースがなければここまで長くFWとして活躍できないわけですから。
まさに理想的なワントップ、エースストライカーということになるでしょう。