概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1970年6月7日(50歳) | ||
出身地 | サンパウロ | ||
身長 | 176cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはディフェンダー(右サイドバック)。
利き足は右。
「カフー」はニックネームで、1970年代に活躍したカフリンガという名前のサッカー選手に由来する。
長らく活躍したイタリアでは振り子を意味する「イル・ペンドリーノ」という異名で呼ばれたこともあった。
また「右サイドの支配者」という異名でも呼ばれる。
長らくブラジル代表の右サイドバックに君臨した選手。
歴史上、最高クラスの右サイドバックの一人だ。
ペレの選んだ偉大なサッカー選手100人、「FIFA 100」に選ばれている。
獲得タイトル
クラブ
- サンパウロ
- Campeonato Brasileiro Série A (1): 1991
- Campeonato Paulista (2): 1991, 1992
- Copa CONMEBOL (1): 1994
- Copa Libertadores (2): 1992, 1993
- Supercopa Sudamericana (1): 1993
- Recopa Sudamericana (2): 1993, 1994
- Intercontinental Cup (2): 1992, 1993
- レアル・サラゴサ
- UEFA Cup Winners’ Cup (1): 1994–95
- パルメイラス
- Campeonato Paulista (1): 1996
- ローマ
- Serie A (1): 2000–01
- ACミラン
- Serie A (1): 2003–04
- Supercoppa Italiana (1): 2004
- UEFA Champions League (1): 2006–07
- UEFA Super Cup (2): 2003, 2007
- FIFA Club World Cup (1): 2007
代表
- ブラジル代表
- FIFA World Cup (2): 1994, 2002
- Copa América (2): 1997, 1999
- FIFA Confederations Cup (1): 1997
個人
- South American Team of the Year (4): 1992, 1993, 1994, 1995
- South American Footballer of the Year (1): 1994
- FIFA World Cup All-Star Team: 2002 (Reserve)
- FIFA 100
- UEFA Team of the Year (2): 2004, 2005
- FIFPro World XI (1): 2005
- Sports Illustrated Team of the Decade: 2009
- ESPN World Team of the Decade: 2009
- World Soccer Greatest XI of all time: 2013
- A.C. Milan Hall of Fame
- A.S. Roma Hall of Fame
- World XI: Team of the 21st Century
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1990-1994 | ![]() |
117 | (7) |
1994-1995 | ![]() |
16 | (0) |
1995 | ![]() |
2 | (0) |
1995-1997 | ![]() |
35 | (0) |
1997-2003 | ![]() |
163 | (5) |
2003-2008 | ![]() |
119 | (4) |
通算 | 452 | (16) | |
代表歴 | |||
1990-2006 | ![]() |
142 | (5) |
クラブ
1988年、18歳の時に地元サンパウロのサンパウロFCに入団した。
入団後にサイドバックにコンバートされ、1992年トヨタカップではFCバルセロナを破り優勝、1993年のトヨタカップのACミラン戦ではパリ―ニャの先制ゴールをアシストし大会連覇に貢献するなど活躍した。
1994年のワールドカップにおける活躍が認められてスペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・サラゴサに移籍した。
しかし、レアル・サラゴサでは機能せず1年で退団し、再び地元サンパウロのSEパルメイラスに移籍することになる。
1997年、イタリアセリエAの強豪ASローマに移籍。
ASローマの18年ぶりとなるスクデット制覇に貢献するなど主力として活躍した。
33歳となった2003年夏にはASローマを退団し、Jリーグ・横浜F・マリノスへの入団合意が伝えられたが、最終的には違約金を横浜FMに支払う形で、ACミランがカフーを獲得した。
ACミラン移籍後は右サイドバックのレギュラーとしていきなり2003-04シーズンのACミランのスクデットに貢献するなど、主力としての変わらぬ活躍を見せることになる。
2006年まで長くUEFAチャンピオンズリーグのタイトルは獲得できずにいたが、UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07で19年目にして初の栄冠に輝くなど、ベテランとなっても衰えぬ活躍を見せていたが、2007-08シーズンの終了後、ACミランとの契約満了に伴い退団と同時に現役引退。
代表
1990年より、衰えの見えていたブラジル代表の右サイドバックであるジョルジーニョの後継者として期待され、1990年9月12日のスペイン戦で代表デビューを果たした。
その後の1994年のワールドカップ決勝では、試合中のジョルジーニョの故障に伴い、途中交代して優勝に貢献した。
以後、代表のレギュラーとしての地位を確立し、1998年、2002年、2006年のワールドカップでもレギュラーとして出場している。
同じ時期に左サイドバックのレギュラーとして起用されていたロベルト・カルロスとは攻撃的なサイドバックコンビとして、果敢なオーバーラップを見せていた。
また、長らくキャプテンを務め、ブラジル代表の精神的支柱でもあった。
2006年のドイツ大会では準々決勝のフランス戦で、ブラジル代表は中盤を封じられたため、ボールがロベルト・カルロスとカフーに集まったものの、2人は共に低調なプレーに終始してボールを奪われるシーンが目立ったことから、ブラジル本国などでは敗退の大きな原因として槍玉に挙げられた。
これ以後、カフーは年齢のこともあり、代表招集されることはなくなっている(長らく両サイドバックとして活躍してきていたロベルト・カルロスはこのワールドカップでの代表引退を表明しており、やはり以後招集されていない)。
現在のところ、代表通算キャップ数は142を数えており、これはブラジル代表における歴代最多記録である。
また、1994年、1998年、2002年、2006年の4度のFIFAワールドカップに出場しているが、このうち2006年を除く3回はいずれも決勝まで進んでおり(優勝2回、準優勝1回)、決勝戦の試合出場を3度経験した唯一の選手である。
エピソード
試合中においても、笑顔を絶やさない選手である。
サッカー界きっての“ガム好き”を公言している。
試合中は、ずっとガムをクチャクチャ噛んでいる。
2019年9月、友人や息子のダニーロとサッカーで遊んでいたところ、試合中にダニーロが昏倒。
カフー自ら病院へ搬送したが、30歳という若さでそのまま帰らぬ人となった。
ダニーロは元々、冠動脈硬化症を患っており、数日後に手術を受ける予定だった。
息子の死から2カ月はずっと泣いて過ごしていたと、のちにカフーは話してくれた。
「人生には、時に説明するのも難しいことが起こる。息子は私と一心同体だった。私は必死で彼を助けようとしたが、そのかいもなく、彼は私たちを残して逝ってしまった。本当に言葉では表せない苦しみだ。プロ選手として鍛えた私の身体やメンタルは強いはずなのに、それは通じない。何度優勝しようが、自分の息子を救えなければ、何の意味もない。本当に自分が無力に感じるよ」
引退後は、指導者には転身せず、夫人と共にスポーツ代理店を経営するなど実業家となったが、2019年にはスポーツ代理店の経営不振や投資の失敗により、およそ600万ドルもの負債を抱えていることが報じられている。
カフーはサンパウロ市でも最も貧しい地区ジャルジン・イレニの出身だ。
子供の頃はいくつかの家族とともにバラックのような家に住み、バス代がないのでどこに行くにも歩き、食事も1日1回のことが多かったという。
だからこそ苦しんでいる子供を見過ごすことはできず、2004年、同地区に「フォンダソン・カフー(カフー基金)」という施設を設立した。
地域の子供たちはここにきて食事をしたり、スポーツや音楽、パソコンの使い方などを習ったり、簡単な医療なども受けられる。
また、貧困の根本を打開するため、親に職業訓練を実施したりもしていた。
ブラジルで最も有名な基金であり、多くの選手がそれに続いた。
カフーは新しい形のヒーローだった。
ところが、2017年頃からこの基金の資金繰りが苦しくなってくる。
「基金を運営するのには月4万ドル(約440万円)は必要だ。しかしスポンサーがどんどん撤退する今、私のポケットマネーだけでは厳しすぎる」
カフーはそうこぼしていた。
それでも、どうにか子供たちのために基金を存続させようと、金策に走ったようだった。
しかし、2019年の7月にその借金が焦げ付き、基金を運営していたカフーの会社「カピ・ペンタ・インターナショナル・プレーヤー」は破産した。
5つの銀行と融資会社が債務不履行でカフーを訴え、その清算のために、カフーは5つのマンションを売り払った。
それとは別に、裁判所は彼と妻のレジーナが所有する15の不動産も差し押さえた。
当時、基金には950人の子供たちが在籍していた。
基金がなくなれば、子供たちは行き場も食べるものもなくなってしまう。
カフーは存続のために奔走したが、2019年のクリスマスを前に、施設はついに閉鎖されてしまった。
息子の死に続いて、今度は16年続けてきた基金を失ってしまったのだ。
年が2020年に改まっても、カフーの不運はまだ続いた。
今度は仮想通貨に関する詐欺罪に問われてしまったのである。
昨年の8月、カフーは「アルプクリプト」という会社に頼まれ、同社のイメージキャラクターとなった。
顧客が金を預けると、会社はそれでビットコインを買い、価格が上がった分が顧客の儲けとなる。
3000ドル(約33万円)を預ければ月末には最大2.5%の利息がつくという触れ込みだった。
しかし、その会社はもうない。
ある程度の金を集めると、社長らはブラジル国外に逃げてしまった。
顧客は投資した金を失い、会社を提訴したが、訴えるべき相手はすでに消えてしまっていた。
残っていたのは会社の広告塔になっていたカフーだけだった。
もちろん、カフーは無罪を主張した。
自分はただ宣伝に起用されただけで、会社の事業内容には一切かかわっていない。
それどころか彼自身も一銭ももらっておらず、自分も被害者だ、と。
だが、カフーがいくら釈明しても裁判所は聞き入れず、まず4月に彼の銀行にある300万レアル(約700万円)を凍結した。
しかしそれだけでは足りないと判断したのか、この6月9日には530万レアル(約1300万円)を差し押さえ、さらに5つの不動産が競売にかけられることとなった。
プレースタイル
90分間アップダウンするスタミナが最大の武器。
カフーについての一般的な評価は「運動量がある」「クロスがうまい」といったところでしょうか。
もしくは「オーバーラップのタイミングが抜群」などもよく耳にします。
これらは全て的を射た表現であり、カフーという選手の個人としての特徴を的確に表している言葉です。
ただ、これらは一流のサイドバックなら全て持っているありきたりな特性でもあります。
ではカフーはそれらの一流のサイドバックと何が違うのでしょうか。
カフーは典型的なチームプレーヤーでした。
彼は類まれな「利他的メンタリティー」の持ち主であり、常にチームのことを考えていた。
自陣の深いところでCBからボールを受け、相手が寄せてくる。
ここでカフーは第一の選択肢として味方のボランチを探します。
そして相手がチェックに来たら、そのボランチと壁パスでワンツーをもらう。
彼はドリブルなどせずに、相手を「突破」してしまいます。
カフーほど勤勉に「ボールの動きは人よりも早い」を実践していたサッカー選手を、他に知りません。
これは最も単純な例ですが、三角形の作り方によっては壁パスで一気に2、3人もの相手を置き去りにすることが可能です。
しかも、ボールを失う危険性は限りなく0に近い。
相手にファウルする余地すら与えないこの「突破」は、チームにリズムをもたらします。
ちなみに、相手がチェックに来ない場合には、カフーはすぐCBにバックパスします。
そしてほとんどの場合、そのCBはもう一人のCBにパスをして、作りの起点は逆サイドに移ることになります。
このCBへのバックパスには、カフーのプレー・ビジョンの広さがよく現れています。
彼は素早く逆サイドにボールを動かすことで、結果的に自分が上がるスペースが生まれるということをよくわかっていたのでしょう。
ボランチとはまた違った観点から、右サイドで試合をコントロールしていたのです。
カフーのプレーは非常にシンプルなものでした。
ブラジル人にしては珍しくアウトサイドを使わず、自陣でのボールタッチはほぼ全てインサイドでした。
そしてプレーのほとんどを2タッチ以内で行っていたのです。
これはチームにとって非常にありがたいことでした。
インサイドキックはボールを受けるタイミングを計りやすく、アンダー2でパスを回せれば相手を走らせることが出来るからです。
これこそカフーがボールを長く保持する、いわゆる「強いチーム」で重宝された理由なのでしょう。
カフーは守備も出来る選手でした。
ロベルト・カルロスに代表される攻撃を売りにするSBは、往々にして守備時の位置取りが悪い場合が少なくありません。
端的に言えば、裏を取られすぎなのです。
無謀な攻撃参加、集中力の欠如がその主な原因です。
カフーはそういった守備面での問題とは無縁でした。
攻守の切り替えとポジショニングが絶妙でした。
たまに裏を取られることはありましたが、その多くはチームとしての問題であり、個人として集中力を欠いたことでピンチを招くようなことは皆無でした。
カフーはそのキャリアを通じて効率的かつ効果的なプレーを見せ続け、SBとしての理想像を後世に残したといっても過言ではないでしょう。
サイドの選手でありながら身体的に負担の掛かるドリブル突破に頼らないプレースタイルであったために、継続性・安定感があり、結果として長くカンピオーネとしての選手生命を保つことにつながったのだと思います。