概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1955年4月21日(65歳) | ||
出身地 | ベロオリゾンテ | ||
身長 | 183cm | ||
体重 | 78kg |
ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)。
利き足は右。
愛称は「ヒゲ」。
ブラジル代表のレギュラーとして1978、1982年ワールドカップに出場したが、1986年ワールドカップは負傷で出場出来なかった。
黄金のカルテットの一人として80年代のブラジルの中盤を支えた。
獲得タイトル
クラブ
- ナシオナル
- Campeonato Amazonense: 1974
- アトレティコ・ミネイロ
- Campeonato Mineiro: 1976, 1978, 1979, 1980, 1981, 1982, 1983
- Campeonato Brasileiro Série A: 1977 runner-up, 1980 runner-up
- ローマ
- Coppa Italia: 1984, 1986
- European Cup: 1984 runner-up
- サンプドリア
- Serie A: 1990–91
- Coppa Italia: 1988, 1989, 1991 runner-up
- UEFA Cup Winners’ Cup: 1989 runner-up, 1990
- European Cup: 1992 runner-up
- サンパウロ
- Campeonato Paulista: 1992
- Intercontinental Cup: 1992, 1993
- Copa Libertadores: 1992, 1993
- Supercopa Sudamericana: 1993
- Recopa Sudamericana: 1993, 1994
個人
- South American U-20 Championship Top Scorer: 1977
- Bola de Ouro: 1977, 1980
- Bola de Prata: 1976, 1977, 1980
- FIFA XI (Reserve): 1979
- Intercontinental Cup Most Valuable Player of the Match Award: 1993
- A.S. Roma Hall of Fame: 2016
経歴
1980年代にブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、パウロ・ロベルト・ファルカンと「黄金のカルテット」を中盤で形成した。
ブラジルのアトレチコ・ミネイロでプロのキャリアをスタートさせ、約10年間プレーし、ブラジル代表でも中心選手の一人として、1978年のアルゼンチンワールドカップに中心選手として出場、優勝には届かなかったが、ブラジルの3位に貢献した。
1982年のスペインワールドカップにもジーコらと黄金のカルテットの一員として出場したが、セレーゾのミスパスによりロッシに得点を許し、イタリアに敗れた後、全盛期にイタリアのセリエAに渡った。
ASローマではブラジル代表のチームメートであるファルカン、イタリア代表の中心選手ブルーノ・コンティ、ユベントスから移籍のボニエク、と共に中心選手の一人としてプレー。
通算成績104試合25得点、2016年にはローマの殿堂入りも果たした。
1983-84シーズン、コッパ・イタリアの優勝に貢献、UEFAチャンピオンズカップ決勝進出に貢献、決勝でも先発としてプレーしたが決勝ではリヴァプールFCに敗れた。
セレーゾは「試合後、ローマサポーターによるグラッツェ、ローマのサポーターソングが響いていたことは、とてもファンタスティックな光景だった。今でも、あの日のことを思い出すぐらいだ」と当時を振り返った。
1985-86シーズン、コッパ・イタリアで2度目の優勝に貢献したが、サンプドリアとの決勝第2戦での怪我の為、ブラジル代表として1986年メキシコワールドカップ出場を逃した。
UCサンプドリアに移り長年に渡り中心選手として活躍、チーム初のセリエA制覇やカップウィナーズカップ獲得など、ロベルト・マンチーニ、ジャンルカ・ビアリ、ジャンルカ・パリューカらとサンプドリアの黄金期を築いた。
1987-88シーズン、コパ・イタリア優勝に貢献。
1988-89シーズン、コパ・イタリア優勝に貢献、カップウィナーズカップ決勝の進出に貢献したがFCバルセロナに敗れた。
1989-90シーズン、負傷で決勝には出場出来なかったが、カップウィナーズカップ優勝に貢献。
1990-91シーズン、怪我で多くの試合を欠場したが、7節のACミランとのゲームでは決勝点を 、26節のSSCナポリとのゲームの先制点、優勝が決定したレッチェとのゲームで先制点となるミドルシュートを決めるなど、チーム初のスクデットに貢献。
1991-92シーズン、UEFAチャンピオンズカップ決勝の進出に貢献、決勝でも先発出場し、ペップ・グアルディオラを良く押さえたが、ジャンルカ・ビアリが決定的チャンスを3度逃がし、FCバルセロナに敗れ、同シーズン限りでサンプドリアを退団した。
1991-92シーズンのセリエA終了後、テレ・サンターナ元ブラジル代表監督の誘いで、母国ブラジルのサンパウロFCに所属、カフー、ミューレルらと共に、サンパウロに多くのタイトルをもたらした。
1992年、リーグ優勝、1992年12月のトヨタカップでは先発出場し、効果的なパスを再三見せるなど、優勝に貢献、同年5月のUCサンプドリア所属時にチャンピオンズカップの決勝で敗れたFCバルセロナに勝利し雪辱を果たした。
1993年、リベルタドーレスカップ優勝、トヨタカップの優勝に貢献。
ACミランとの対戦では、ACミランDF陣の隙を突く鋭いパスからミューレルの決勝点となるゴールをアシスト、38歳ながら1ゴール1アシストを記録して大会MVPに選ばれた。
スーペルコパスダメリカーナ、レコパカップの優勝にも貢献した。
その後は1994年にクルゼイロECでプレー、サンパウロFCへ復帰、最後はアトレチコ・ミネイロでプレー後、1997年に現役を引退した。
エピソード
現役時代から蓄えている口ひげがトレードマーク。
愛称もヒゲ。
元オランダ代表のフランク・ライカールトが目標としていた選手であった。
息子のレオナルドはレア・ティーの名前でトランスジェンダーのファッションモデルとして活躍しており、ジバンシィの女性モデルに起用された。
引退後は監督となった。
鹿島の監督時、親友であるマンチーニの引退試合に急遽駆け付け、MVPを受賞した。
プレースタイル
細身のフレームを備え背が高く強力なミッドフィールダーであるセレーゾは、史上最高のブラジルの守備的ミッドフィールダーの1人と見なされており、運動量、スタミナ、戦術的意識、そしてダイナミックで肉体的なエネルギッシュなプレースタイルが特徴。
守備では強固なフィジカルやタックルだけでなく、豊富なスタミナで中盤で激しい守備をした。
守備だけでなく長短の正確なパスも武器に活躍した。
長短のパスの精度も高く、ボールを奪取し、確実に前線につなぐプレーをする選手でした。
時には前線にも攻め上がり、効果的なプレーをする。
エレガントで非常に創造的なプレーヤーでもあり、テクニック、プレービジョン、ゲームを理解する能力にすぐれており、プレーエリアが広く広範囲をカーバーできる。
攻守に活躍できる選手でした。