概略
国籍 | ![]() |
||
---|---|---|---|
生年月日 | 1953年10月16日(66歳) | ||
出身地 | アベラルド・ルス | ||
身長 | 183cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ)。
利き足は右。
「走る指揮官」、「ローマの鷹」の異名をとった。
80年代ブラジル代表の黄金のカルテットの中盤の一人。
クラブレベルではローマで一時代を築く。
ローマのサポーター達はファルカンを「王政ローマ時代の7人のローマ王達に匹敵する」と賞賛し「第8代ローマ王」と称した。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で85位に選出された。
獲得タイトル
クラブ
- インテルナシオナル
- Campeonato Brasileiro: 1975, 1976, 1979
- Campeonato Gaúcho: 1973, 1974, 1975, 1976, 1978
- Vice-campeão da Taça Libertadores da América: 1980
- ローマ
- Copa da Itália: 1980–81, 1981–82 e 1983–84
- Campeonato Italiano: 1982–83
- Vice-campeão da Liga dos Campeões: 1983–84
- サンパウロ
- Campeonato Paulista: 1985
- Taça dos Campeões Estaduais Rio-São Paulo: 1985
代表
- ブラジル代表
- Torneio Pré-Olímpico Sul-Americano Sub-23: 1971
- Torneio Internacional de Cannes Sub-20: 1972
- Copa Roca: 1976
- Copa Rio Branco: 1976
- Taça Oswaldo Cruz: 1976
- Taça do Atlântico: 1976
- Torneio do Bicentenário dos Estados Unidos: 1976
- Mundialito de Cáli: 1977
- Copa América: 3° lugar em 1979
- Copa do Mundo: 5° lugar em 1982
個人
- FIFA 100: 2004
- Bola de Prata da Revista Placar: 1975, 1978, 1979
- Bola de Ouro da Revista Placar: 1978, 1979
- Craque do Campeonato Brasileiro (Oficial): 1975, 1979
- Chuteira de Ouro Adidas (Artilheiro da Temporada – gols oficiais): 1979
- Onze de Bronze: 1982
- Onze de Prata: 1983
- Bola de Prata da Copa do Mundo FIFA: 1982
- 2° maior futebolista sul-americano do ano: 1982
- 3° maior futebolista sul-americano do ano: 1979
- Um dos Craques do time das estrelas da Copa da Espanha – (World Cup All – Star Team Player): 1982
- 3° Melhor jogador do mundo “World Soccer”: 1982
- Integrante da Superseleção do Mundo “All Star” de 1982 – Guerin Sportivo (ITA); 1983
- FIFA XI: 1982, 1986
- 3° Melhor jogador do mundo “World Soccer”: 1983
- Seleção do Campeonato Italiano Temporada 83/84 – Guerin Sportivo (ITA): 1984
- 5° Maior Craque do Brasil na década de 70 – Revista Placar – (Eleito pela crítica):1979
- 2° Maior Craque brasileiro da década de 80
- 12° Maior jogador brasileiro do século XX Pela IFFHS: 1999
- 31° Maior jogador sul-americano do século IFFHS: 1999
- 100 Craques do Século – World Soccer (Eleito pelos leitores): 1999
- Único brasileiro eleito entre os 18 melhores jogadores dos últimos 50 anos do Campeonato Italiano: 2011
- Time dos sonhos – Revista Placar: 2012
- Hall da Fama da A.S. Roma: 2013
- Hall da Fama do Futebol Italiano: 2016
- Hall da Fama do Campeonato Italiano: 2017
経歴
クラブ | |||
---|---|---|---|
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1972-1980 | ![]() |
158 | (22) |
1980-1985 | ![]() |
107 | (22) |
1985-1986 | ![]() |
10 | (0) |
代表歴 | |||
1976-1986 | ![]() |
36 | (9) |
クラブではインテルナシオナルでリオグランデ・ド・スル州選手権に5回、ブラジル全国選手権に3回優勝。
1980年にイタリアのASローマに移籍すると1982-83シーズンに41年ぶりのリーグ優勝に貢献。
翌1983-84シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ準優勝に導いた。
決勝でどう見てもキーパーチャージとしか思えない先制ゴールを決められPK戦にもつれ込んだ試合はファルカンが駄々こねて蹴るのを拒否った末、ローマ二人目コンティ、五人目グラッツィアーニが外してリバプールに軍配。
リバプールの一人目が外してただけに残念な結果となりました。
ブラジル代表では1976年に代表デビューを飾るが、通算記録は36試合9ゴールと少なめである。
当初は攻撃的MFとしてプレーしていたため、ジーコの控えであった。
しかし1982年ワールドカップでは、ボランチとしてジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともに黄金のカルテットを形成した。
82年のブラジル代表の「クワトロ・オーメン・ジ・オーロ」、いわゆる「黄金のカルテット」の一員として、当時ブラジルの中盤はジーコ、ソクラテス、セレーゾ、そしてファルカンという中盤の超豪華タレントがそろっており、控えのMFバチスタや左ウイングのエデル、左右SBのジュニオール&レアンドロらの存在もあって、テレ・サンターナ監督が「ああ、目つぶっててもうちは全勝で優勝すっから」発言するほどの強さを誇り、その言葉どおり圧倒的強さで一次リーグを突破(2-1,4-1,4-0)し、二次リーグでもマラドーナがいたアルゼンチン相手に3-1で圧勝した。
しかし次のイタリア戦でプライドにかけて攻めに出たブラジルはパオロ・ロッシのハットで3-2とまさかの敗戦。
ファルカンのW杯は終りました。
ちなみにこのときファルカンは、ドリブルからの素晴らしいミドルでブラジルの2点目を決めとります。
ゴールに至るパスや他選手との連動性の巧妙さと共にその存在感を示した。
ちなみにこの大会、結局ファルカンは全部で3点を挙げ、チーム内得点ランク二位(一位はジーコ)に輝きました。
しかし5年間を過ごしたローマから、ヴァスコに移籍して迎えた次のW杯メキシコ大会では、あまり出場機会に恵まれず、2試合のみの出場にとどまり、以後W杯に出ることはありませんでした。
その後サンパウロで活躍し、現役を引退。
エピソード
1990年にブラジル代表監督に就任し、指導者としてのキャリアを本格的にスタートさせた。
カフー、マウロ・シルバら若手選手を中心に代表招集を行い、1991年のコパ・アメリカに挑み準優勝の成績を残すが、1年で解任された。
その後はメキシコのクラブ・アメリカや、プロとして初めて契約したインテルナシオナルを指揮した。
1994年にハンス・オフトの後任として日本代表監督に就任する。
当時のマスコミからはこれを意外な人物として受け止められた。
当初、日本サッカー協会 (JFA) は経験豊富で「修羅場をくぐった経験のある人物」(川淵三郎談) を代表監督に、という選考条件でテレ・サンタナらとの間で交渉を進めていたが、スタッフ費用込の年契約10億円という金銭面で折り合いが合わず決裂。
元フランス代表監督のミシェル・イダルゴ、元アルゼンチン代表選手であったオズワルド・アルディレスに打診するも拒まれる。
その後、当時のJFA関係者であったセルジオ越後を通じてファルカンと交渉に至り、その結果の人選であった。
ファルカンは数年後を睨み、オランダ2部SBVエクセルシオールから帰国した小倉隆史や前園真聖、岩本輝雄ら多くの若手選手を代表に抜擢するも、前任の代表監督であるハンス・オフトの細かい戦術的指揮から、ほぼ選手の自主性に任せたファルカンの指導法に選手らが戸惑い、「オフトと違う」と監督としてのファルカンを疑問視する声が出始める。
そして、就任直後のキリン杯においてフランス代表に惨敗、広島で行われたアジア大会準々決勝で韓国代表に敗れると、これらの責任を問われ解任された。
敗戦後に会場を去るとき、サポーターの一人に「ブラジルに帰れ。二度と来るな」と叫びながら空き缶を投げられるも、「日本にも一人だけ本物のサポーターがいたな」と話した。
その後は1996年から2010年まで、ブラジルのテレビ局「ヘジ・グローボ」で、14年間に渡って解説者として活躍した。
また「ラジオ・ガウーショ」でサッカー選手のインタビュー番組を毎週行っていた。
2011年に古巣のインテルナシオナルの監督として久しぶりに監督復帰を果たした。
2012年はECバイーアの監督を務めた。
2015年9月20日、スポルチ・レシフェの監督に就任した。
プレースタイル
史上最高のボランチといわれる選手。
両足から放たれる優雅なパス、そして力強いシュートを駆使して、試合を支配することのできる選手でした。
下がり目の位置から放つ正確なロングパスを駆使して中盤を操り、機を見て前方へ進出しミドルシュートを放つ、またトリッキーなパスを使って攻撃に変化を与えることを得意とした。
そのプレイスタイルは、イタリアのサポーターから「ユニフォームとスパイクの代わりにスーツと革靴を身に着けても、彼は同様のプレイができるだろう」称えられた。
パスもシュートも、種類が多彩といえばいいのか、コントロールが正確だといえばいいのか、表現に悩むほどのプレーの幅を持った選手です。
また、フリーランニングに全く無駄がないのも見逃すべきではないでしょう。
つまり視野が広いのです。
MFとして必要な能力が、非常に洗練されている選手とも言えます。
チームの為にフリーランを惜しまず、時には相手の決定的な場面で守備的な貢献をし、サイドに顔を出しては高精度のクロスをあげ、自らも積極的にゴールを狙い、最後には観客を酔わせる。
卓越した戦術眼を称えて「走る指揮官」の異名が定着した。
そのことから、現役引退後は「名監督」になるだろうと期待された。
明らかに革新的なプレーを魅せていたという点で、やはり史上最高のボランチの座を手にしている。