概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1969年6月6日(51歳) | ||
出身地 | ブエノスアイレス | ||
身長 | 186cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ、ディフェンシブハーフ)。
利き足は左。
ピッチ上でのプレーにも気品を漂わせたエレガントなアルゼンチン代表MF。
レアル・マドリードで一時代を築いた。
その輝かしいキャリアを通じて6つのタイトルを獲得。
UEFAチャンピオンズリーグも2度制覇し、ベルナベウのファンに心から愛された。
獲得タイトル
クラブ
- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ : 1994-95, 1996-97
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 1997
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1997-98, 1999-2000
- インターコンチネンタルカップ : 1998
- ACミラン
- セリエA : 2003-04
- コッパ・イタリア : 2002-03
- UEFAチャンピオンズリーグ : 2002-03
- UEFAスーパーカップ : 2003
代表
- アルゼンチン代表
- 南米U-17選手権 : 1985
- FIFAコンフェデレーションズカップ : 1992
- コパ・アメリカ : 1993
個人
- UEFA年間最優秀選手 : 1999-2000
- FIFAコンフェデレーションズカップ最優秀選手 : 1992
- CDテネリフェ年間最優秀選手 : 1992-93, 1993-94
- レアル・マドリード年間最優秀選手 : 1996-97, 1999-2000
- ESMチーム・オブ・ザ・イヤー : 1997-98
- トロフェオEFE : 1990年代最優秀選手 (イベロアメリカ圏出身の選手で、1990年代にスペイン・リーグでプレイした選手で最優秀選手)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1985-1990 | ![]() |
65 | (1) |
1990-1994 | ![]() |
103 | (8) |
1994-2000 | ![]() |
165 | (4) |
2000-2004 | ![]() |
16 | (0) |
通算 | 349 | (13) | |
代表歴 | |||
1992-1999 | ![]() |
29 | (1) |
クラブ
1969年、ブエノスアイレスの中流階級の家庭に生まれる。
少年時代はフットサルでボールに慣れ親しんだという。
当時憧れていたサッカー選手はリカルド・ボチーニであった。
10歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織に入団。
1985年9月29日、対CAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・フフイ戦にて15歳でトップチームデビュー。
程無くしてレギュラーポジションを得た。
1990年に自由契約扱いとなり、スペインのCDテネリフェを移籍先に選ぶ。
テネリフェではアルゼンチン人監督のホルヘ・バルダーノに重用され、UEFAカップ出場を経験した。
1994年にバルダーノがレアル・マドリードの監督に就任すると、レドンドもレアル・マドリードに移籍した。
レアル・マドリード移籍後も時折怪我に見舞われたものの、バルダーノやファビオ・カペッロ、ユップ・ハインケスなどの元でプレーした。
レアル・マドリードに在籍した6シーズンの間に、リーガ・エスパニョーラ優勝2回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝2回、インターコンチネンタルカップ優勝1回を経験。
1999-2000シーズンのUEFAチャンピオンズリーグは主将としてチームを牽引。
在任中、オールド・トラッフォードで行なわれた準決勝・対マンチェスター・ユナイテッドFC戦における、ドリブル突破から一発のヒールキックでヘニング・ベルグを抜き去り、タッチライン際からのスルーパスでラウル・ゴンサレスの決勝ゴールをアシストした。
マンチェスター・ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンはこの試合の後、「あの選手のブーツには磁石でも入っているのか?」と感嘆の声を上げた。
大会を通してフル回転したレドンドは、レアル・マドリード史上初となるチャンピオンズリーグMVPに輝いた。
フロレンティーノ・ペレスが会長に就任した2000年オフシーズン、1,800万ユーロの移籍金でイタリア・ACミランへ移籍。
しかし移籍直後、シーズン前のトレーニング中に右膝の靭帯を断裂。
合併症の手術等も含めて復帰までに2年の歳月を要した。
その間、高額のサラリーが契約上保証されていたにも関わらず、「チームに貢献してからもらう」と言って休養中のサラリーを全額返還したというエピソードがある。
2003年3月12日のUEFAチャンピオンズリーグレアル・マドリード戦にてスターティングメンバーとしてサンティアゴ・ベルナベウに帰還。
後半79分にアンドレア・ピルロとの交代でピッチを去る際には、スタンドからスタンディングオベーションが送られた。
ミランはチャンピオンズリーグ制覇、スクデット獲得とタイトルに恵まれるが、レドンド自身は怪我を克服出来ず、全盛期の輝きを取り戻すことはないまま、2004年のシーズン終了をもって34歳で現役を退いた。
代表
アルヘンティノス時代に、1990年のW杯イタリア大会に臨むアルゼンチン代表の要請を受けるも、招集を辞退した。
その後監督がアルフィオ・バシーレに替わり、1992年6月18日、対オーストラリア戦でA代表デビュー。
中盤の要「5番」として1992年のFIFAコンフェデレーションズカップ、1993年のコパ・アメリカ優勝に尽力。
コンフェデレーションズカップでは、大会最優秀選手に選ばれた。
1994年のW杯アメリカ大会にも出場を果たすが、チームは決勝トーナメント1回戦で敗退した。
アメリカW杯後就任したダニエル・パサレラ監督とは起用法を巡って衝突(この時はレドンドのトレードマークだった長髪を切るかどうかで揉めたと報じられ、1998年フランス大会でレドンドが代表を辞退した理由ともされている)。
パサレラの後任マルセロ・ビエルサの招集には応じ、2002年のW杯日韓大会に出場する意欲も見せていたが、前述の負傷により本大会出場を断念せざるを得なかった。
代表通算29試合出場1得点、W杯通算4試合出場0得点。
エピソード
94年W杯アメリカ大会、彼のチームであるアルゼンチンはマラドーナの疑惑によるごたごたでW杯を去った。
98年フランス大会、このときのアルゼンチン代表監督はダニエル・パサレラ。
はじめは些細な問題だった、パサレラは代表チームの若返りに着手した、このとき彼は彼のチームとって将来頭痛の種になるであろうベテラン選手を閉め出すために一つの方便を思いついた。
それは、代表チームに長髪を認めないというものだった。
レドンドをはじめとする多くの選手はサッカーと髪型は関係ないと反論。
その些細な論争はエスカレートし彼は代表チームに召集されなかったのである。
その後、パサレラの代表チームは規律と若い力により優勝候補にあげられるようなチームに成長し、これもスーパースターの資格を持つ男デニス・ベルカンプにとどめを刺されるまで快進撃を続けるのである。
マルカにより行われたレアル・マドリードの外国人選手ベストイレブン企画では、ジネディーヌ・ジダンやルイス・フィーゴ、ミカエル・ラウドルップらと共にMFのポジションに名を連ねた。
また、前述のヒールキックについてもマルカのウェブ投票でレアル・マドリード史上最高のバックヒールに選ばれた。
引退後はブエノスアイレスに住み、レアル・マドリード関連のチャリティーマッチなどに時折顔を出している。
プレースタイル
エレガントを漂わせる華麗なプレースタイルを持ちながら中盤でのディフェンス能力は相手攻撃時のチャンスを確実に摘む。
ルックスも抜群であり「エル・プリンシペ(王子)」の異名を持つアルゼンチンを代表する世界屈指のMF(ボランチ)。
当たりが激しく、ボール回収能力は抜群。
背筋をピンと伸ばしたエレガントなプレースタイルで知られており、パスのスキルや優れたゲームビジョンを兼ね備えていた。
華麗なパスワークでゲームメイクをしたかと思うとエレガントなドリブルで突破を図る。
機を心得た相手ゴール前への進入などは、スペクタルでさえあった。
彼のプレーの特徴は、総合力である。
攻撃的ミッドフィルダーの勘の良さを持ち、素早く危険の芽を摘む守備、アルゼンチン人特有の小さなトライアングルの中での素早いパス回しと遠くに視線をおいて背筋を伸ばしたドリブル。
そのいずれもが高いレベルで備わっている。
しかもそれだけではなく、実にうまいタイミングでファウルを使う、そのタイミングとはストッパーが体を投げ出して止めなければならないプレーをその一歩手前で彼がつぶしてしまう。
彼がいればストッパーの仕事の苦労が半減するだろう。
まさに守備的ミッドフィルダーとして完成されたプレーを見せてくれる。