概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1952年8月3日(67歳) | ||
出身地 | コルドバ州 ベル・ビジェ |
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身長 | 169cm | ||
体重 | 66kg |
ポジションはミッドフィールダー(センターハーフ)。
利き足は右。
愛称は「オジー」。
アルゼンチン代表の中心選手の一人としてワールカップ制覇に貢献。
クラブレベルでは、トッテナム・ホットスパーなどで活躍。
2008年トッテナムの殿堂入りを果たす。
獲得タイトル
クラブ
トッテナム・ホットスパー
- FA Cup: 1980–81
- FA Charity Shield: 1981 (shared)
- UEFA Cup: 1983–84
代表
アルゼンチン代表
- FIFA World Cup: 1978
個人
- Football League 100 Legends list (as the only Argentinian)
- Football League First Division PFA Team of the Year: 1979
- Golden Foot: 2013
経歴
- 1969年 – 1973年
インスティトゥートACコルドバ
- 1974年
CAベルグラーノ
- 1975年 – 1978年
CAウラカン
- 1978年 – 1988年
トッテナム・ホットスパーFC
- 1982年 – 1983年
パリ・サンジェルマンFC (期限付き移籍)
- 1985年
セントジョージFC (期限付き移籍)
- 1982年 – 1983年
- 1988年
ブラックバーン・ローヴァーズFC
- 1989年
クイーンズ・パーク・レンジャーズFC
- 1989年
フォートローダーデール・ストライカーズ
代表歴 | |||
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1973-1982 | ![]() |
63 | (8) |
アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップで優勝したアルゼンチン代表の主力としてダニエル・パサレラ、マリオ・ケンペスらとともにチームを牽引し、地元開催のワールドカップで同国の初優勝に貢献、大会最優秀MFに選出された。
1982 FIFAワールドカップでも全5試合にフル出場した。
1978年のワールドカップ後に、リカルド・ビジャとともに、ふたり合わせて75万ポンドの大金でイングランドのトッテナム・ホットスパーに移籍、トッテナムで約10シーズンプレーした。
1979年ジャパンカップ(現キリンカップ)で来日、日本代表と対戦した。
1981年にはFAカップ獲得に貢献、1982年もFAカップ決勝進出に貢献。
同年、イングランドとアルゼンチンの間にフォークランド紛争が発生したため、混乱を避けるためにフランスのパリ・サンジェルマンにレンタル移籍した。
トッテナムでは1984年にUEFAカップ優勝に貢献。
その後クイーンズ・パーク・レンジャーズやアメリカで短期間プレーした後、現役を引退した。
エピソード
趣味は読書、チェス、オペラ観賞である。
弁護士資格を持つ事でも知られる。
また当時の代表は「エース以外の背番号はアルファベット順につける」という慣習があった為、『背番号1を付けたフィールドプレイヤー』としても有名であった。
トッテナム在籍中、イギリスとアルゼンチンの間でフォークランド紛争が起こったが、この時トッテナムファンから「オジーが残ってくれるなら、フォークランドはアルゼンチンにくれてやらなくもない」といった意味の横断幕が出るほど、トッテナムのサポーターから愛された存在だった。
1981年に公開されたシルヴェスター・スタローン主演映画、『勝利への脱出』にペレ、ボビー・ムーア、マイク・サマビー、ジョン・ウォークら当時のサッカー界のスター選手達と共に連合軍捕虜チームのプレーヤー役で出演、1ゴールを決めた。
プレースタイル
正確無比なシュート、パスで攻撃を司る史上最高クラスのMF。
卓越したボールキープで仲間の効果的な動き出しを引き出し、さらなる連携でフィニッシュに絡む。
オフ・ザ・ボールの動きや、賢さ、戦術眼に優れており、ボールスキルも高い、非常にクレバーな選手。
テクニックを活かしクリエイティブなプレーもできるが、豊富なスタミナを活かした守備も特徴で、高い運動量で攻守に貢献するハードワーカー。