概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1984年6月8日(36歳) | ||
出身地 | サンロレンソ | ||
身長 | 170cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
愛称は「ヘフェシート(小さなボス)」。
リヴァプールやバルセロナで活躍し、アルゼンチン代表のキャプテンを務めた。
獲得タイトル
クラブ
リーベル・プレート
- Argentine Primera División: 2003–04 Clausura
コリンチャンス
- Campeonato Brasileiro Série A: 2005
バルセロナ
- La Liga: 2010–11, 2012–13, 2014–15, 2015–16, 2017–18
- Copa del Rey: 2011–12, 2014–15, 2015–16, 2016–17, 2017–18
- Supercopa de España: 2011, 2013, 2016
- UEFA Champions League: 2010–11, 2014–15
- UEFA Super Cup: 2011, 2015
- FIFA Club World Cup: 2011, 2015
代表
アルゼンチン代表
- FIFA World Cup runner-up: 2014
- Copa América runner-up: 2004, 2007, 2015, 2016
- Olympic Gold Medal: 2004, 2008
- CONMEBOL Pre-Olympic Tournament: 2004
個人
- Copa América Team of the Tournament: 2015, 2016
- UEFA Champions League Team of the Season: 2014–15
- FC Barcelona Player of the Season (Trofeo Aldo Rovira): 2013–14
- FIFPro World XI 3rd team: 2015
- FIFPro World XI 4th team: 2014
- FIFPro World XI 5th team: 2016, 2017
- Toulon Tournament Best Player: 2003
- South American Team of the Year: 2004, 2005
経歴
クラブ
地元のクラブでプレーしていた頃はフォワードだったが、父親がコーチを務めていたクラブに入団してミッドフィールダーにコンバートされた。
14歳でリーベル・プレートの下部組織に入団した。
2003年7月、アルゼンチン代表デビュー直後にトップチーム登録され、2004年にはクラウスーラ(後期リーグ)でリーグ優勝を果たした。
同年のコパ・リベルタドーレスでは準決勝まで勝ち進んだが、そこで地元ライバルのボカ・ジュニアーズに敗れて決勝進出はならなかった。
レアル・マドリードやデポルティーボ・ラ・コルーニャなど複数の欧州クラブが興味を示していたが、リーベル・プレートは認めず、アルゼンチンにとどまっている。
2004-05シーズンはあまり成功だったとは言えず、クラウスーラは3位、アペルトゥーラ(前期リーグ)は10位に終わった。
コパ・リベルタドーレスでは再び準決勝まで進んだが、ブラジルのサンパウロFCに敗れた。
2005年のコンフェデレーションズカップ後、1500万ドル(約18億円)の移籍金でブラジルのコリンチャンスに移籍した。
シーズン中盤に加入したコリンチャンスで9試合に出場した後、2005年9月に左足を疲労骨折し、シーズン終盤を棒にふった。
6ヶ月の離脱の後、2006年3月5日に復帰している。FIFAワールドカップによって中断された2006年シーズンはブラジル・セリエB(2部)降格の危機にあったが、相変わらず欧州のクラブからの関心が報道された。
2006年夏の移籍期間が閉まる直前、コリンチャンスの同僚FWカルロス・テベスと共にイングランドのウェストハム・ユナイテッドへ移籍した。
この移籍に関して、本当にウェストハムが彼の保有権を持っているのか、もしくは第三者が登録書を持っているのか、また高額のオファーがウェストハムに来た際は売却を強制させられるのかどうかなどが噂された。
2007年1月16日、リヴァプールはマスチェラーノの獲得許可をFIFAに求めた。
FIFAの規則は、どの選手も1年間に3つの異なるクラブでプレーすることはできないというものだったが、このとき彼は既にコリンチャンスとウェストハムでプレーしていた。
FIFAは1月31日に移籍を許可し、リヴァプールは移籍期間終了直前に登録書類を提出したが、イングランドサッカー協会 (FA) はすぐには登録を認めなかった。
2月6日からリヴァプールのメルウッドで練習を始め、2月10日には初めて招集メンバー入りし、UEFAチャンピオンズリーグの試合へ向けた準備を進めた。
2月20日には移籍がFAから公式に認められると、2月24日のシェフィールド・ユナイテッド戦でデビューし、4-0で快勝した。
4月2日にFAはウェストハムに世界最高記録となる550万ポンドの罰金を課した。
UEFAチャンピオンズリーグの初出場は4月3日に行われた準々決勝PSV戦1stレグ(アウェー)で、すぐさまレギュラーとしての地位を確立した彼はACミランとの決勝にも出場した。
彼とMFシャビ・アロンソで相手MFカカとMFクラレンス・セードルフを抑えることに成功したが、試合には1-2で敗れた。
しかし、ファンの投票でのマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
2008年2月29日、リヴァプールと4年契約を果たし、保有権を完全に獲得した。
この移籍でリヴァプールは、保有権を持つメディア・スポーツ・インベストメント社に1860万ユーロ(約40億円)を支払ったと伝えられているが、これは移籍金ではなく、選手の4年分の給料である。
3月15日、レディング戦で20ヤードの距離からシュートを決め、プレミアリーグ初得点を挙げた。
ディフェンス陣に退場者や負傷者が出た際には、サイドバックやセンターバックといったポジションでプレーすることもあった。
2010年8月30日、メディカルチェックが完了し、4年契約でFCバルセロナへ移籍した。
移籍金は2200万ユーロ(約23億5000万円)と推定されている。
9月11日のエルクレスCF戦 (0-2) で先発出場してリーガ・エスパニョーラデビューしたが、この試合は本拠地カンプ・ノウで16ヶ月ぶりの敗戦となった。
当初は守備的ミッドフィールダーのセルヒオ・ブスケツの控えであったが、2010-11シーズンは最終ラインに怪我人が続出したこともあり、センターバックとしてもプレーするようになった。
2015-16シーズン終了後、ユベントスFCへの移籍が噂されたが結局残留した。
センターバックとして定位置を掴み、長らくレギュラーであったが、2016-17シーズンにサミュエル・ユムティティが加入すると徐々に出場機会が減少し、移籍が噂されるようになった。
2017年4月26日、CAオサスナ戦でPKを決め、クラブ在籍7年・公式戦319試合目にして初ゴールを記録した。
2018年1月23日、1月の退団が正式に発表された。
2018年1月24日、河北華夏幸福足球倶楽部に移籍し、2019年12月7日、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタへの移籍を発表した。
代表
CAリーベル・プレートの下部組織に入団してすぐU-15アルゼンチン代表に選ばれた。
2001年9月にはFWカルロス・テベスやFWマクシミリアーノ・ロペスとともにFIFA U-17ワールドカップに出場し、4位入賞の原動力となった。
アペルトゥーラの2003-04シーズン中、FIFAワールドユース選手権に出場し、自身は傑出したプレーを見せたものの、FIFA U-17ワールドカップと同じ4位に終わった。
出場停止処分を受けたために3位決定戦には出場できなかった。
2004年1月、U-23アルゼンチン代表に選出。
アテネオリンピックでは無失点で金メダルを獲得した。
2008年6月の北京オリンピックにはオーバーエイジ枠で出場し、MFフェルナンド・ガゴとともにダブルボランチを組み、堅牢な守備組織を形成した。
ブラジルとの準決勝で、リヴァプールFCで同僚のMFルーカス・レイヴァに後ろから倒され、ルーカスは一発退場となった。
更にその3分後、MFチアゴ・ネーヴィスに後ろから倒され、またも相手選手は一発退場となった。
アルゼンチンは大会2連覇を果たし、マスチェラーノはアルゼンチンのサッカー選手として初めて2大会連続で金メダルを獲得した。
ユースレベルで顕著な活躍を見せたためリバープレートでトップチームの試合に出場する前にアルゼンチンA代表に招集され、2003年7月16日のウルグアイとの親善試合でデビューした。
なお、リーベルプレートでのデビューが遅れたのは、センターハーフのポジションにキャプテンのMFレオナルド・アストラーダがいたためであった。
2004年にはコパ・アメリカに出場し、決勝でPK戦の末にブラジルに敗れた。
この大会ではチームメイトによる投票でチームのベストプレーヤーに選ばれた。
2005年にはドイツで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップに出場したが、決勝でブラジルに1-4で敗れ、失望を胸に大会を去った。
2006年のFIFAワールドカップではアルゼンチン代表の5試合全てにフル出場したが、準々決勝でドイツに敗れてベスト8に終わった。
2007年7月、コパ・アメリカ2007の試合で1試合2得点を決め、この大会でチームのベストプレーヤーに選ばれた。
それまでの成功とは打って変わって、2008年は我慢の年となった。
2008年6月8日のアメリカ戦ではイエローカードを2枚受け、アルゼンチン代表の試合で初めて退場処分を食らった。
2008年11月にディエゴ・マラドーナ監督がアルゼンチン代表監督に就任するとキャプテンに指名された。
「チームのキャプテンは、キャプテンマークを巻いて生まれてきたような、持って生まれた特別な才能がある選手がつとめるべきだと思う」と、暗に自分は向いていないという趣旨の発言をしたが、11月10日にハビエル・サネッティに代わる新キャプテンに就任した。
マラドーナは「私のチームはマスチェラーノと残りの10人で構成されている」と述べ、彼の重要性を強調した。
2013年6月11日、ブラジル・ワールドカップ予選のエクアドル戦で試合終了間際にスタッフを蹴り退場処分を受けた。
2014 FIFAワールドカップでは卓越した守備力とリーダーシップでチームを牽引し、ワールドカップ準優勝に大きく貢献した。
2017年10月、南米予選の最終戦でエクアドルに勝利してワールドカップ出場を決め、2018 FIFAワールドカップをもって代表を引退することが発表された。
エピソード
そのタックルを行なった直後、苦痛に顔を歪めてなかなか立ち上がれなかった理由について、試合後マスチェラーノは恥ずかしそうにそう説明していた。
プレースタイル
マスチェラーノは、激しいタックルでボールを奪取することに特徴があるプレーヤー。
本来のプレーエリアは、中盤の底で、ピンチの芽を摘み取るところが、プレースタイルにありました。
時には、タックルが激しすぎて、レッドカードをもらって退場になることもありましたが、マスチェラーノのタックルはとても驚異的なものでした。
身体能力の特徴はというと
・スピード
・ボディバランス
・フィジカルコンタクトの強さ
が挙げられます。
身長は低いですが、相手の懐に入り込むのがうまいです。
また攻撃面での特徴はというと
・ドリブルでの持ち運び
・ラストパス
・ビルドアップ能力
・ミドルシュート
などが挙げられます。
守備面に注目がいきがちですが、攻撃的な能力も水準以上に備えています。
バルセロナに移籍してからはボランチではなく主にセンターバックとして起用されることが増えて、後ろからのビルドアップ能力が上がりました。
ボランチの時のような攻撃参加はあまり見られなくなってしまいました。
年齢的な変化もあるでしょうが、状況に合わせてプレースタイルを変えていける頭の良さもマスチェラーノ選手の特徴の一つだと思います。
守備面での特徴はというと
・ハードタックル
・スライディングタックル
・ボール奪取能力
・インターセプト
・対人守備能力
・危機察知能力
・カバーリング
・ポジショニング
などが挙げられます。
高さ以外の守備に必要とされる能力はすべて高いレベルで兼ね備えていると思います。
リバプール時代は対人守備に強く、ハードマーカーのイメージが強かったですがバルセロナに移籍してからはポジショニングで賢く守る術に磨きをかけた感じです。
そんな守備のスペシャリストであるマスチェラーノ選手の守備の凄さはというとボールを奪う能力の高さだと思います。
選手全体の技術や戦術的な向上により、なかなかボールをミスで失うことが少なくなった現代サッカーにおいてボールを奪う能力は非常に重要になります。
バルセロナのサッカーはポゼッション(ボール保持)型と呼ばれますが、ボールを失わずにパスを繋ぐことと同じぐらい失った時にすぐに奪い返すことは必須。
マスチェラーノの凄さは失った後すぐにボールを奪うことです。
特に守備範囲の広さと対人守備能力の高さ、ポジショニングの良さ、読みの鋭さが高い。
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