概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1973年4月14日(47歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 177cm | ||
体重 | 75kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
愛称は「エル・ラトン(鼠)」。
63試合に渡ってアルゼンチン代表のキャプテンを務めた。
3度のFIFAワールドカップに出場し、ハビエル・サネッティに次ぐ同国歴代2位の115試合に出場している。
獲得タイトル
代表
- U-23アルゼンチン代表
- オリンピックサッカー : 2004
- Pan American Games: 1995
クラブ
- CAリーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン : 1994-95A
- ACミラン
- セリエA : 1998-99
- バレンシアCF
- リーガ・エスパニョーラ : 2001-02, 2003-04
- UEFAカップ : 2003-04
- UEFAスーパーカップ : 2004
個人
- South American Team of the Year: 1994
- UEFA Club Best Defender of the Year: 2000–01
- European Sports Media Team of the Year: 2003–04
- 2006 FIFA World Cup All-Star Team
経歴
クラブ
1992年にフェロカリル・オエステからデビューし、3シーズンを過ごした後にCAリーベル・プレートに移籍すると、守備の要として頭角を現した。
1995年夏、イタリア・セリエAのパルマACはアジャラの保有権を獲得したが、すでにEU圏外選手枠が埋まっていたために、SSCナポリと共同保有という形をとり、1995年から1998年まではSSCナポリでプレーした。
1998年夏にはACミランに移籍し、2シーズンを過ごしたが、選手層の厚さから常時出場することはできなかった。
1998年夏、移籍金625万ポンドでリーガ・エスパニョーラのバレンシアCFに移籍した。
2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは決勝に進出し、決勝ではバイエルン・ミュンヘンにPK戦の末に敗れたが、同大会の最優秀ディフェンダーに選出された。
2001-02シーズンはリーガ・エスパニョーラで優勝し、2003-04シーズンにはリーガ・エスパニョーラとUEFAカップ優勝を果たした。
2004-05シーズンは負傷により多くの試合を欠場し、2004年夏のUEFAスーパーカップ・FCポルト戦には出場していない。
2006年8月、クラブのスポーツディレクターのアメデオ・カルボーニは2007年夏に切れるアジャラとの契約を延長しないことを決めた。
2007年2月7日、アジャラは同じバレンシア州に本拠地を置くビジャレアルCFへシーズン終了後に移籍することを発表したが、7月14日にはビジャレアルとの契約を覆してレアル・サラゴサと3年契約を結んだ。
バレンシアからビジャレアルにはフリートランスファーで移籍することになっていたが、契約解除の違約金としてサラゴサからビジャレアルに600万ユーロ(480万ポンド)が支払われた。
サラゴサはDFガブリエル・ミリートをFCバルセロナに放出しており、ディフェンダーの層の薄さに頭を悩ませていた。
2008年5月3日、デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦 (1-0) の後半ロスタイムに移籍後初得点となる決勝点を決めた。
ディフェンス陣の柱として期待され、2007-08シーズンは33試合に先発出場したが、目立った活躍することなくシーズンを終えた。
クラブも2度の監督交代をするなど迷走し、18位でセグンダ・ディビシオン(2部)降格。
なお、一度もプレーすることなく契約を解除したビジャレアルは過去最高の2位と躍進し、サラゴサと対照的な成績であった。
2008-09シーズンもサラゴサでプレーし、2008年11月22日のSDエイバル戦 (3-0) では73分に移籍後2点目となる得点を、2009年2月29日のレアル・ムルシア戦 (4-1) では移籍後3点目を決めた。
1シーズンでのプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格に貢献したが、2010年1月23日、クラブとの契約を解除して退団した。
2010年2月2日、フリートランスファーでラシン・クラブに入団した。
12月30日、現役引退を発表した。
代表
1994年11月16日、チリ戦でアルゼンチン代表デビューした。
1996年にはアトランタオリンピックに出場し、チームの銀メダル獲得に貢献した。
1998年にはフランスで開催されたワールドカップに出場し、チームのベスト8進出に貢献した。
2002年には日本と韓国で共催されたワールドカップにキャプテンとして出場するはずであったが、第1戦のナイジェリア戦直前に負傷して1試合にも出場できず、チームはグループリーグで敗退した。
2004年にはアテネオリンピックにオーバーエイジ枠のキャプテンとして出場。
強固なディフェンス陣をまとめあげ、無失点優勝の最大の功労者となった。
2006年にはドイツで開催されたワールドカップに出場し、重要な役割を担ってチームのベスト8進出に貢献した。
準々決勝のドイツ戦 (1-1) ではヘディングで先制点を決めたが、PK戦ではイェンス・レーマンに止められ、チームも敗退した。
大会後にはオールスターチームに選出された。
2006年5月30日、アンゴラとの親善試合に出場して100試合出場を達成した。
2007年2月7日、パリで行われたフランスとの親善試合 (1-0) が通算107試合目となり、ディエゴ・シメオネが持っていた同国代表最多出場試合記録(106試合)を更新した。
6月5日、アルジェリアとの親善試合がキャプテン就任後58試合目となり、ディエゴ・マラドーナが持っていたキャプテンとしての最多出場記録を更新した。
2007年にはコパ・アメリカにキャプテンとして出場したが、決勝のブラジル戦に完敗して準優勝に終わり、自身はオウンゴールを記録した。
大会後、「代表でのサイクルは終わったと思う」と述べて代表からの引退を発表した。
エピソード
輝かしくも、彼のキャリアには大舞台で悲劇もたくさんつきまとった。
1998W杯オランダ戦ではベルカンプに抜かれてあの伝説のスーパーゴールを許し、2002W杯ではグループリーグ直前練習で負傷し試合に出られず、2006W杯はドイツ戦で自ら得点するもPK失敗でBEST8敗退、キャプテンとしてアルゼンチンを率いた2007コパ・アメリカ決勝ではブラジル相手にオウンゴール献上。
コパ・アメリカ敗戦の翌日の代表引退声明には、アジャラのはかり知れない落胆・心の痛みがあったのでしょう。
趣味は釣り。
マイ船を持っており、家族や友人と泊まりで出かけることも多い。
サッカーを始めたのは10歳の頃。
それまではサッカーがキライだった。
プレースタイル
育成部門でFWだった選手がプロに入ってDFへ転向することは少ないが、彼は幼少期からDFという生粋の守備者。
DF陣において体格的には大柄ではなくむしろ欧州の屈強なDFと比べると劣っているよう に感じるが、強靭なフィジカルと運動量。
身長は170cm台ながら、驚異的な跳躍力と背筋力で空中戦にも絶対的な能力を発揮。
セットプレーでもその空中戦の強さを遺憾なく発揮している。
ジャンプさせれば宙を舞い、タックルさせればボールを刈るセンターバックである。
アルゼンチン代表では長くキャプテンも務めた。
プライベートでは非常に物静かな人物であると言われているが、ひとたび試合に出ると豹変。
得意技は相手のスパイクを踏むこと。
がつがつとしたマーク、審判に見えないところでの肘打ちや頭突きは既に職人芸の域に達しており、相手フォワードを押さえ込むことに関しては色々な意味で世界トップクラス。
汚いプレーと共に実力も際立っているが、PA内では驚くほど慎重にディフェンスをする。
パスカットやマーキングそしてカ バーリングとDFとして重要なプレーを高いパフォーマンスでやってのける。
リーダーシップにも定評があり素晴らしいキャプテンシーでチームを孤軍奮闘し数 々の大会で主将も務めている。