概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1975年7月5日(45歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 183cm | ||
体重 | 78kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「バルダニート(小さなバルダーノ)」、「ゴールエリアの鷲」。
2000年代アルゼンチンを代表するストライカー。
1996年にはアトランタ五輪、1998年にはフランスW杯、2002年には日韓W杯、2006年にはドイツW杯に出場した。
獲得タイトル
クラブ
- リーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン : 1993-94A, 1994-95A
- コパ・リベルタドーレス : 1996
- パルマ
- コッパ・イタリア : 1998-99
- UEFAカップ : 1998-99
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 1999
- ラツィオ
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 2000
- チェルシー
- FAコミュニティ・シールド : 2005
- プレミアリーグ : 2005-06
- ミラン
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 2004
- インテル・ミラノ
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 2006, 2008
- セリエA : 2006-07, 2007-08, 2008-09
代表
- アルゼンチン代表
- パンアメリカン競技大会 : 1995
- オリンピックサッカー銀メダル : 1996
個人
- プリメーラ・ディビシオン得点王 : 1994
- アトランタ五輪得点王 : 1996
- セリエA得点王 : 2000-01
- コッパ・イタリア得点王 : 1999, 2007
- FIFA 100
経歴
クラブ
1975年、アルゼンチンのフロリダで生まれる。
父が熱狂的なCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロのサポーターとあって幼い頃からボールを蹴り始め、クレスポ曰く「何となく入った」というCAリーベル・プレートの下部組織でサッカーを始める。
各カテゴリーを順調にステップアップしていったが、特別能力のある選手とはいえず補欠選手として過ごした。
14歳の時に正式契約を交わし、トップの道へ歩んだ。
プリメーラ・ディビシオン1993-94シーズンにトップチームデビューを果たすと、当時監督だったダニエル・パサレラはクレスポをスーパーサブとして起用し、クレスポはこのチャンスに13得点という数字で応えた。
1994-95シーズン、パサレラはアルゼンチン代表監督に就任することが決まりリーベルを退団。
次の監督の下でクレスポは出場機会を失い、このシーズンは5得点という結果に終わった。
しかし、成績不振によりすぐさま監督はラモン・ディアスに交代すると、クレスポはレギュラーに定着。
6得点でシーズンを終えたが、ラモン・ディアスは辛抱強くクレスポを起用し続け、「改めて自信を得ることができた」とクレスポは述懐している。
シーズン後に開催されたアトランタ五輪のアルゼンチン代表に選出され、アルゼンチン代表は銀メダルを獲得。
クレスポも才能の片鱗を見せ、世界的な評価を得ることになった。
アトランタ五輪での活躍が認められ、1996年にイタリアのパルマACに移籍。
当初はイタリアのサッカーに馴染めず満足のいく結果を残せなかったが、1999年にはパルマのコッパ・イタリアとUEFAカップの優勝に貢献。
その功績が認められ、2000年に当時のセリエA新記録となる1100億リラ(約66億円)の移籍金でSSラツィオへ引き抜かれた。
ラツィオでは移籍初年度に得点王を獲得し、在籍2年間でリーグ戦54試合計39得点とその移籍金に見合う活躍を見せた。
2002年、2000万ユーロに加えベルナルド・コッラーディの譲渡という条件でインテルへと移籍した。
移籍したロナウドの後継者と見做されたが、怪我の影響で試合には出られず、結果は残せなかった。
翌シーズン、ロシア人の石油王であるアブラモヴィッチがオーナーに就任したチェルシーFCが行った、スター選手を次々に獲得する補強戦略の対象となり、インテルはクレスポを手放した。
サポーターからの抗議もあり思い直したインテルは白紙撤回をチェルシーに要求したが、復帰は叶わなかった。
2003年はチェルシーに活躍の場を移すもイングランドのサッカーに順応できず精彩を欠き、出場機会にも恵まれなかった。
2004年にはジョゼ・モウリーニョがチェルシーの新監督となったが、構想外だったクレスポはACミランにレンタル移籍となり、イタリアに戻った。
かつてパルマ時代にも監督だったカルロ・アンチェロッティ監督の下で、シェフチェンコ等とコンビを組んでその年のUEFAチャンピオンズリーグ準優勝に貢献するなど、クレスポは本来の輝きを取り戻した。
本人はそのままイタリアに残ることを望んだが、2005年はレンタル元のチェルシーに呼び戻され、4-3-3の場合では伸び盛りのドログバと同じポジションを競わせる形で貴重なスーパーサブとして使われた(シーズン終盤では得点力向上のため、4-4-2の2トップで同時起用もあり)。
不本意な形とはいえ、イングランドへの再挑戦では好調なパフォーマンスを維持した。
イタリアへの復帰を熱望するクレスポの意を汲む形で、2006年にはチェルシーから2年契約のレンタル移籍でインテルに復帰。
ズラタン・イブラヒモビッチと2トップを形成し、欧州の主要リーグで新記録となるリーグ17連勝に貢献するなどリーグ戦独走の原動力となった。
シーズン終了後には再びチェルシーへの呼び戻しが予想されたが、本人の意思もありインテルへの残留が決定、その後イギリスに戻ることなく2008年にチェルシーとの契約を終了した。
しかし、2008-09シーズンはチェルシー時代にクレスポを構想から外していたモウリーニョがインテルの指揮官となり、他の主力選手が怪我や規律違反などで招集されない場合以外はベンチに登録されないことが多かった。
2009年5月29日、ジェノアCFCへの移籍が発表された。
しかし、ジェノアでは思ったような出場機会を得られず、南アフリカW杯にアルゼンチン代表メンバーとして出場することを熱望していたクレスポは、2010年1月29日、パルマへ完全移籍し、約10年ぶりのパルマ復帰となった。
2009-10シーズン最終節のリヴォルノ戦でパルマ復帰後初得点を決めた。
しかし加齢もあってその後はなかなか出場機会を得ることができず、2012年2月2日にパルマとの契約を解除。
その後、インド・スーパーリーグ参戦も報じられたが、現役を引退した。
なお、6年間在籍したパルマでは通算94得点を記録しており、これはクラブ史上最多得点者となっている。
代表
アルゼンチンユース代表として活躍し1996年アトランタ五輪では6得点を挙げ得点王獲得、チームに銀メダルをもたらしたが2番目の褒美はいらないとメダルをポケットにしまい込むエピソードを持つ。
恩師パサレラがアルゼンチン代表監督に就任した後、1995年2月14日のブルガリア戦にてデビューを果たす。
1998年ワールド杯ではバティストゥータの控えとして不本意に終わってしまうが(1試合出場)2002年ワールド杯南米予選では12試合出場9得点(予選得点王)を挙げチームの主砲として活躍した。
ワールドカップやコパ・アメリカ等でも素晴らしい活躍を披 露している。
1998フランス大会では決勝Tでイングランド代表MFデイビット・ベッカムのキャリアを揺るがした有名な試合イングランド戦で後半から 出場しPKの末勝利を収めたが続く準決勝にてベルカンプやクライファート等を擁するオランダに2-1で破れた。
2002日韓大会では絶対的エースであった ガブリエル・バティストゥータとの熾烈なポジションを演じたが出場した3試合とも途中からの出場となりスウェーデン戦で得点を決めるがグループリーグ敗退 となった。
2006ドイツ大会ではエースとして君臨しコートジボワール戦・セルビア・モンテネグロ戦そして決勝T1回戦で対戦したメキシコ戦で得点を決め ている。
しかし開催国ドイツと準々決勝で対戦しPKの末敗北した。
エピソード
少年の頃はエンツォ・フランチェスコリに憧れMFとしてプレーしたが、コーチはクレスポを特別な存在としては見ず、ダニエル・パサレラがリバープレートの監督に就任するまでは下部組織でのプレーが続く。
ようやくトップチームでプレーが出来るようになっても尚、ピッチよりもベンチにいる時間の方が長く、それはリバープレートを去る1996年直前まで続いた。
1996年オリンピックで得点王に輝きパルマが獲得に動いたが、当初はイタリアのサッカーに馴染めずに苦しんだ。
1996/97シーズン、1997/98シーズンは12得点を挙げるにとどまり、エースストライカーとしては満足のいく結果を残せず。
サポーターから批難を浴びる。
クレスポは、常に努力を怠らない選手である。
チームメート達は一様に「あれほど練習をする選手は知らない」と彼を称え、その結果としてチームのタイトル獲得や得点王のタイトルが付いてきた。
遂には母国の英雄ガブリエル・バティストゥータを押し退けてアルゼンチン代表のエースストライカーにまで成長、2002年ワールドカップの地区予選ではチーム最多となる9得点を挙げた。
練習に練習を重ねた結果、クレスポは誰からも高い評価を受ける素晴らしいプレーヤーに成長した。
プレースタイル
PA内で強さを発揮する万能タイプのCF。
正確なシュート技術と鋭い得点感覚、そして空中戦の強さを兼ね備えている。
また、高い技術に裏打ちされたバリエーション豊富なシュートの型を有す。
相当な努力を重ねたアルゼンチンが誇る万能ストライカーである。
箇々の能力を見てもずば抜けて高いわけではないが欠点がなくほとんどの能力が平均にして高い。
右利きではあるが左でのキック精度は高くボールコントロールも素晴らしい。
飛び出しやポジショニング等オフザボールの動きにも積極果敢にチャレンジし優れている。
そして凄く高い身長というわけではないが持ち前の跳躍力を活かし高い打点からのヘディングは世界最高峰である。
また運動量もあり前線 からのプレスを渾身的に行う。
ボールを受けるためのポジションを取る動きも非常に優れており、さらにはポストプレイもこなすことができる選手でもありました。
パスやポストプレーにもたけていて周りとの連携等も非常に良いものがある。
体格も上背もありポストプレーも上手いが、基本的にはオフザボールの動きが非常に優れていて裏へぬけるのが上手い選手。
どんな体勢からでもゴールを狙う事が出来、時として芸術的な得点も記録する。
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