概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1951年9月5日(68歳) | ||
出身地 | コルベルモール | ||
身長 | 176cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはディフェンダー(左サイドバック)、ミッドフィールダー(左サイドハーフ)。
利き足は左。
愛称は「狼男」。
70年代ドイツを代表する左サイドバック。
1981年度バロンドールの投票ではルンメニゲに次いで第2位に選ばれた。
獲得タイトル
クラブ
バイエルン・ミュンヘン
- Bundesliga: 1971–72, 1972–73, 1973–74, 1979–80, 1980–81
- DFB-Pokal: 1970–71, 1981–82
- European Cup: 1973–74, runner-up 1981–82
レアル・マドリード
- La Liga: 1974–75, 1975–76
- Copa del Rey: 1974–75
代表
西ドイツ代表
- UEFA European Championship: 1972
- FIFA World Cup: 1974, runner-up 1982
個人
- kicker Bundesliga Team of the Season: 1971–72, 1972–73, 1978–79, 1979–80, 1980–81, 1981–82, 1982–83
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 1972
- FIFA World Cup All-Star Team: 1974
- Footballer of the Year in Germany: 1981
- Ballon d’Or: 1981 (Runner-up)
- IOC European Footballer of the Season 1980–81
- FIFA World Cup All-Time Team
- FIFA 100
- Bayern Munich All-time XI
経歴
- 1970-1974
バイエルン・ミュンヘン 109試合出場 17得点
- 1974-1978
レアル・マドリード 84試合10得点
- 1977-1978
アイントラハト・ブラウンシュヴァイク 30試合10得点
- 1978-1983
バイエルン・ミュンヘン 146試合66得点
代表歴 | |||
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1971–1982 | ![]() |
48 (10) |
クラブ
幼少期からサッカーに興じたブライトナーは、6歳の時に地元クラブに入団。
61年までプレーした後、今度はフライラッシングに移り、在籍中の68年には西ドイツ・ユース代表に選出される。
そこで指導を受けた名将ウド・ラテックが70年、バイエルンを率いることになった際に、ブライトナーは引き抜かれ、すぐにブンデスリーガ・デビューを飾った。
レギュラーとして、1年目でDFBカップ優勝の喜びを味わい、翌71-72シーズンには早くもリーグ優勝に貢献。
そこから、バイエルンは3連覇を達成してクラブ最初の黄金時代を迎えると、73-74シーズンにチャンピオンズ・カップ決勝でアトレティコ・マドリーを再試合の末に破る。
ブライトナーは22歳にして、欧州の頂点にまで昇り詰めた。
ここで彼は、新たな挑戦に打って出る。
よりインテリジェンスの高い選手を目指し、レアル・マドリーに移籍したのだ。
彼はこの時、西ドイツ代表として自国開催のワールドカップを制した直後だったが、自身のこだわりのために、ヘルムート・シェーン監督に向こう2年間は代表チームを辞退したいと申し出ていたという。
そしてこのスペインの超名門クラブでは、前年に加入していた“賢人”ギュンター・ネッツァーと中盤でドイツ人コンビを形成。
2人のゲームメイク、チャンスメイクによって、マドリーは74-75シーズンにラ・リーガとコパ・デル・レイの2冠を達成、翌シーズンはリーガ連覇を果たしてみせた。
持ち前の正確なプレーと、冷静さ、そして的確な状況判断により、目標通りにMFとして新境地を切り拓いたブライトナーは、3シーズンのスペイン生活を終え、77年にドイツに帰国したが、加入したのは中堅クラブのブラウンシュバイク。
ここで30試合に出場した後、翌シーズンにバイエルン復帰を果たす。
古巣では、カール=ハインツ・ルムメニゲがエースとして君臨していたが、彼の得点力が活きるか否かはブライトナー次第であり、このコンビはバイエルンだけでなく、後に代表チームでも猛威を振るうことになった。
髭面がトレードマーク(CM出演のために剃り落して物議を醸したこともあった)の絶対的なキャプテンとして、ブライトナーはバイエルンのリーガ連覇(79-80、80-81シーズン)とDFBカップ優勝(81-82シーズン)に貢献している。
この頃は選手として円熟期に達しており、81年にはドイツ最優秀選手に選出された他、バロンドール受賞も有力視されたが、投票の結果はチームメイトのルムメニゲに次ぐ2位だった。
中盤でのチャンスメイクでパートナーに点を取らせるのが一番の仕事でありながら、絶妙な上がりと精度の高いフィニッシュによってゴールを量産。
80-81シーズンにはリーガで17得点を記録、さらに翌シーズンには18得点というキャリアハイの数字を残してみせた。
81-82シーズン、バイエルンはチャンピオンズ・カップ決勝へ進出。相手はイングランドの伏兵アストン・ビラということで優位が予想され、実際に試合の大部分の時間帯で攻勢を続けたものの、急遽ゴールマウスに立った相手のサブGKにことごとくシュートを止められた挙句、後半に1点を奪われ、涙を飲むこととなった。
自身2度目のビッグイヤー獲得を逃したブライトナーは翌83年、怪我続きの状況に「これまでやれていたことができなくなったら辞めようと思っていた」と、引退を決断。
「13年間もプロとしてやってきて、もう十分だ」と語り、同年5月に欧州選抜との一戦を最後に、バイエルンのユニホームを脱いだのだった。
代表
68年にユース代表に招集されると、U-23代表を経て71年6月22日の親善試合ノルウェー戦でA代表デビュー。
バイエルン勢を重用するシェーン監督によって、すぐに19歳のブライトナーはレギュラーとなり、代表3試合目となったハンガリー戦で初得点も記録する。
翌72年に決勝大会が行なわれた欧州選手権で、初のメジャーイベント出場。
強敵のソ連相手に3-0の完勝を収めた伝説の決勝戦を含め、5試合に出場した彼は、不可欠な存在として、自国開催の74年ワールドカップに向けキャップ数を伸ばしていった。
そして迎えた本大会。
西ドイツはグループリーグ初戦でチリと対戦したが、決勝点となる虎の子の1点を挙げたのは、ブライトナーだった。
18分、オーバーラップしてフランツ・ベッケンバウアーのパスを受けると、30メートルの位置から躊躇なく右足を振り抜き、ゴール左隅にシュートを突き刺した。
いきなりチームを勝利に導くゴールを挙げた22歳のフルバック(SB)は、2次リーグの初戦のユーゴスラビア戦でも重要な先制点をもたらす。
チリ戦同様の右足での見事なミドルシュートだった。
すでに十分な存在感を示したブライトナーの名を、さらに世界に知らしめたのは決勝戦だ。
この大会で旋風を巻き起こしたヨハン・クライフ率いるオランダとの決戦、開始2分で先制を許した西ドイツは、25分にベルント・ヘルツェンバインがペナルティーエリア内で倒されてPKを得る。
決めれば同点だが、外せばさらにオランダを勢いづけてしまいかねないというプレッシャーのかかる11メートルの対決。
それまで、PKは点取り屋のゲルト・ミュラーが蹴ることになっていたはずだが、ここでブライトナーがペナルティースポットに立つと、冷静に、そして実にあっさりと相手GKの逆を突いてゴールに流し込んだのだ。
この時のことを「一番ボールに近くにいたのが自分だったから」「特に何も感じなかった。このPK戦の重要性を感じたのは試合が終わってからだった」とブライトナーは振り返っているが、彼のおかげで試合を振り出しに戻した西ドイツは、前半のうちに逆転に成功し、リードを守り切って、開催国としての責務を果たしたのだった。
初の大舞台で世界王者の一員となったブライトナーは、2年間は代表チームから離れることをシェーン監督に申し入れたが、実際は75年の4月と10月に欧州選手権の予選リーグに2試合出場している。
そして間もなく、指揮官との間に確執が生じ、代表キャリアに長き空白期間が生まれることになった。
冷静で頭の切れるブライトナーは、一方でストレートな物言いをする人間としても知られており、マドリーに移籍した74年には、バイエルン、西ドイツ代表でのチームメイトであり、偉大な先輩でもあるベッケンバウアーを、「独裁者」と痛烈に批判したこともある。
彼が再び代表ユニホームを身に纏うことになったのは、81年4月。
シェーン監督の後任であるユップ・デアバルは、中盤にベルント・シュスターという若き司令塔を擁していたものの、当時キャリアの絶頂期を迎えていたブライトナーを迎え入れて中盤の強化を図った。
もっとも、気が強く歯に衣着せぬ物言いをするシュスターとは、やはり激しく対立。
後に両者は歩み寄りを見せたものの、怪我の回復具合が思わしくなかったシュスターが代表を辞退したことで、82年スペインW杯で西ドイツは、ブライトナーに中盤のコントロールを託すこととなった。
しかし、チームとしてコンディション調整に失敗し、さらにパートナーのルムメニゲが負傷を引きずった状態のため、ブライトナー自身も精彩を欠いたが、準決勝フランス戦では先制点に繋がる正確なスルーパスを通し、W杯史上初のPK戦で緊張感がスタジアムを包む中でも、落ち着いていとも簡単に決めてみせた。
イタリアとの決勝戦では、3点を先取されて自身2度目の世界制覇の夢は潰えたが、終盤に一矢を報いるゴールを決めている。
これで、ババ、ペレ(いずれもブラジル代表)に次ぐ、2つの異なるW杯決勝で得点した選手となった(その後、ジネディーヌ・ジダンが2006年ドイツ大会で達成)。
この大会を最後に、ブライトナーは48試合出場10得点という記録を残し、代表を引退。
エピソード
出場した2つの異なるワールドカップ決勝でゴールを決めている数少ない選手であり、これを達成した選手はブライトナーを除いてババ、ペレ、ジネディーヌ・ジダンの3選手しかいない。
天然パーマに髭を生やした厳つい風貌、天邪鬼な性格、政治に強い関心を持ち「愛読書は毛沢東語録」と公言する異端さで知られた。
レアル在籍中に映画『ポテト・フリッツ』にも出演し、俳優ハーディー・クリューガーと共演している。
2007年よりFCバイエルン・ミュンヘンの主に選手移籍などを担当する顧問として活躍している。
プレースタイル
快足と運動量の持ち主でもあり、サイドを駆け上がる姿は正に「狼男」と呼ばれるに相応しい選手です。
高度なテクニックとインテリジェンスでチャンスを量産するだけでなく、驚異的な運動量と溢れる情熱でチームを牽引した天性のリーダー。
キャリアの序盤は、激しいタックルや無尽蔵のスタミナでの機を見計らった攻撃参加やパンチ力のあるシュートを武器とした左SBとして台頭。
スタミナが豊富で、闘争心に溢れる選手だったが、それは得点への執着心にも繋がり、積極的な攻撃参加からシュート力を活かし、多くのゴールを生み出すこともできた。
元々テクニックも高く賢い選手なので晩年は経験を積むにつれゲームメークやフィニッシュなど攻撃的MFとしてバイエルンやドイツ代表に栄光をもたらしました。
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