概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1960年4月13日(60歳) | ||
出身地 | ![]() |
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身長 | 177cm | ||
体重 | 71kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「狐」。
ドイツのサッカー史に残る偉大なるストライカー。
1990年ワールドカップイタリア大会の優勝メンバーの一人。
獲得タイトル
クラブ
ローマ
- Coppa Italia: 1990–91
- UEFA Cup Runner-up: 1990–91
マルセイユ
- UEFA Champions League: 1992–93
代表
ドイツ代表
- FIFA World Cup: 1990; Runner-up: 1986
- UEFA European Championship Runner-up: 1992
個人
- UEFA European Under-21 Football Championship Golden Player: 1982
- 2. Bundesliga Top Goalscorer: 1981–82
- Bundesliga Top Goalscorer: 1982–83
- kicker Bundesliga Team of the Season: 1982–83, 1983–84, 1984–85, 1994–95
- German Footballer of the Year: 1983
- UEFA Euro Team of the Tournament: 1984
- UEFA Cup Top Goalscorer: 1990–91
- A.S. Roma Hall of Fame: 2014
経歴
クラブ
77/78シーズンにO・キッカーズで17歳でプロデビュー。
80/81シーズンに1860ミュンヘンに移り、9ゴールを挙げる活躍を見せるが、チームは2部に降格してしまう。
翌81/82シーズン、フェラーは2部リーグでその才能を開花する。
37試合で37ゴールを挙げるという驚異的な決定力を見せつけ、2部の得点王となる。
翌82/83シーズンには名門ヴァルダー・ブレーメンに引き抜かれ、ここでも抜群の決定力を見せる。
このシーズン23ゴールを挙げ見事に得点王に輝き、国内屈指のストライカーとして数えられるようになる。
その後も抜群の決定力でチームの顔として君臨。
そして87/88シーズンにはイタリアのASローマに移籍。
ASローマは、年老いたプルッツオに替わるエースストライカーとしてフェラーを獲得。過大な期待をかけていた。
しかし、このシーズン、全く結果を残す事はできなかった。
イタリアのサッカーに馴染む事ができず、わずか3ゴールでシーズンを終えた。
しかし、フェラーはローマを去らずにイタリアでプレーを続ける。
2シーズン目からは本領を発揮。
88/89から91/92までの4シーズンで42ゴールを挙げる活躍を見せる。
ドイツ時代のようなゴール量産とまではいかなかったが、勝利に繋がる重要な場面での得点が多かった。
また、ローマダービーでの活躍が素晴らしく、ローマサポーターから絶大な支持を得るようになった。
90/91シーズンには国内カップでの優勝を果たしている。
92/93シーズンからはフランスのオリンピック・マルセイユに活躍の場を移す。
当時、フランスで無敵の強さを誇り、チャンピオンズカップでも優勝を狙えるほどになっていたマルセイユは、
ACミランに移籍したパパンの後釜としてフェラーを迎えた。
フェラーはボクシッチとの2トップを組み、トップ下のアベディ・ペレの天才的なプレーからゴールを量産、リーグ優勝に大きく貢献。
チャンピオンカップでも2トップの活躍でチームは順調に勝ち進む。
決勝では、当時ヨーロッパ最強の名をほしいままにしていたACミランと対戦。
コーナーキックから、ボリのヘディングゴールが決まり、その1点を守りきり、フランスに初のビッグイヤーをもたらした。
93/94シーズン、フェラーは極度の不振に陥り、リーグ戦25試合でわずか6ゴールしか挙げる事ができなかった。
さらに、チームが八百長事件に関わっていたということで、2部への降格処分を受け、チームを去ることになる。
94/95シーズンからはドイツに戻り、バイヤー・レヴァークーゼンでプレー。
キルシュテン、P・セルジオ、シュスターらと共に攻撃的サッカーを展開。
チームの成績は振るわなかったが、フェラーは16ゴールを挙げ、健在振りをアピールした。
翌95/96シーズンも10ゴールを挙げる活躍を見せたが、シーズン終了後に現役引退を発表した。
代表
代表では90試合で47ゴールという、素晴らしい成績を残している。
82年に代表デビューを果たすと、84年の欧州選手権に出場。
2ゴールを挙げるが決勝トーナメント1回戦で敗れた。
86年のW杯では、フェラーはスーパーサブとして活躍することになる。
フェラーは準決勝のフランス戦に途中出場すると、1ゴールを挙げ宿敵フランスを沈めた。
決勝では再び途中出場すると、同点弾をねじ込み勝負強さを発揮する。
結局、アルゼンチンに競り負け優勝を逃したが、フェラーの活躍は西ドイツ国民を熱くした。
88年の欧州選手権では、新進気鋭のストライカー、クリンスマンと2トップを組む。
西ドイツは準決勝でオランダと対戦。
この事実上の決勝戦は熱戦の末、ファン・バステンの決勝ゴールで敗れる。
90年のW杯。西ドイツはクリンスマン、フェラー、マテウスらの攻撃陣の素晴らしい活躍で、圧倒的な強さでグループリーグを勝ち上がる。
決勝リーグ一回戦の相手は、宿敵オランダであった。
この試合の前半22分にフェラーはライカールトと揉め事を起こし、両者退場となってしまう。
(ライカールトがピッチを去る時に、フェラーの後頭部につばを吐きかけたシーンは有名)
この試合、クリンスマンとブレーメの活躍でオランダに勝利。
フェラーは準決勝から復帰し、決勝では決勝点となるPKを誘い、優勝に大きく貢献し、スタッジオ・オリンピコに念願のワールドカップを掲げた。
94年のW杯では、当初スタメンであったリードレの不振から、フェラーが再びクリンスマンと2トップを組む事になった。
ベルギー戦で「阿吽の呼吸」で2ゴールを挙げ活躍が期待されたが、準々決勝、伏兵ブルガリアに破れ、代表を引退した。
エピソード
陽気な性格でも知られ、ドイツ国内ではウーベ・ゼーラー、フランツ・ベッケンバウアーらと並ぶ人気
を博している。
1990年FIFAワールドカップ・イタリア大会、西ドイツ戦でフランク・ライカールトはルディ・フェラーに唾を吐きかけた。
衝突した両者はともに退場処分となった。
フットボール史上最も有名な唾吐き行為となってしまった。
後にライカールトは謝罪。
二人は和解し、テレビCMに出演。
出演料をチャリティーに寄付した。
指導者としては2000年からドイツ代表監督を務め、日韓W杯では準優勝をおさめたが、EURO2004でグループリーグ敗退と振るわず、その責任を取って辞任した。
直後に古巣ASローマの監督に就任したものの、成績不振もあって開幕からわずか1ヶ月で辞任。
その後はレバークーゼンに戻り、スポーツディレクター職に就いている。
プレースタイル
あらゆるポジション、シチュエーションでもゴールを奪える生粋のストライカーとして、世界に名を馳せた。
ゴール前での抜け目ない動きで抜群の存在感を発揮する。
そのプレースタイルから「狐」のニックネームを持つ。
非常に優れたシュートテクニックを持つと同時に、凄まじいまでのゴールへの執着心を持ち、長身ではないが空中戦にも強い。
ゴール前で抜群の存在感を発揮する典型的なドイツのストライカーである。
フェラーのプレーのレパートリーは無限ともいえるほど多種多様なものだった。
ある時は頭で、ある時は右足で、ある時は左足で、またある時はヒールでゴールを決めてみせ
た。
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