概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1973年7月12日(47歳) | ||
出身地 | ボローニャ | ||
身長 | 185cm | ||
体重 | 84kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は左。
愛称は「ボボ(牡牛)」、「重戦車」。
90年代 後半から00年代前半にかけての全盛期には「 世界最強センターフォワード」と評されたストライカー。
国際サッカー連盟 (FIFA) の創設100周年を記念してペレが選んだFIFA 100の一人。
獲得タイトル
クラブトリノ
ユヴェントス
ラツィオ
インテル・ミラノ
代表イタリア代表
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個人
- Pichichi Trophy: 1997–98
- ESM Team of the Year (2): 1997–98, 2002–03
- FIFA World Cup Silver Boot: 1998
- FIFA World Cup All-Star Team: 1998 (Reserve)
- Légion d’Honneur: 1998
- Man of the Match: 1999 UEFA Cup Winners’ Cup Final
- Serie A Footballer of the Year: 1999
- Serie A Italian Footballer of the Year (2): 1999, 2002
- FIFA XI: 1999
- Guerin d’Oro: 2002
- Pirata d’Oro (Inter Milan Player Of The Year): 2002
- Serie A Top Scorer: 2002–03
- FIFA 100
- World Soccer: The 100 Greatest Footballers of All Time
- Gazzetta Sports Awards – Legend: 2018
経歴
クラブ
デビューはセリエC1プラート。
そのシーズンの90年2月、後に900億リラの移籍金で加入する事となるインテルが獲得しようとしていたが実現ならず、シーズン終了後にエミリアーノ・モンドニコ率いるトリノと契約(トリノ移籍はモンドニコが獲得を考えていたためであった)。
しかし、トリノはFWを必要としてなくジョルジョ・ブレッシャーニやワルテル・カーザグランデの控えとしての役回りをする機会が殆どとなる。
その後様々なクラブを転々としながら徐々に頭角を現していき、1996-97シーズンにはユヴェントスに移籍し、デル・ピエロとともにこれからのユヴェントスを支えていく若手期待の星として活躍し始めた。
このままユヴェントスで順調にキャリアを重ねていくと思いきや、翌1997-98シーズンにはスペインのアトレティコ・マドリードに移籍し、リーガ・エスパニョーラ初参戦にして24試合24得点という成績を残し、得点王を獲得。
「リーガは生ぬるい」と発言し、翌シーズンには自身の故郷のラツィオに移籍、セリエAへ復帰した。
1998-99シーズン、ラツィオで圧倒的な存在感を示した後、1999年に3,200万ポンドの移籍金(当時の移籍金史上最高額)でインテルに移籍した。
1999年から2005年にかけてインテルに所属し最盛期を迎える。
それまでチームを転々としてきたが、インテルでは6シーズンに渡りプレーし103ゴールを記録している。
特に99/00から03/04シーズンの途中までの活躍はすさまじく「世界最強のセンターフォワード」の名を欲しいままにした。
しかし、相変わらず故障が多く、6シーズンの出場試合数の1シーズンあたりの平均は23.8試合であった。
さらに練習嫌い、傲慢な態度などから、サポーターに愛されることはなかった。
あの鬼軍曹と呼ばれたエクトル・クーペルですらその横暴ぶりを黙認せざるを得なかった。
2002-03シーズンには23試合で24得点と出場試合数を上回る得点を記録し、得点王を獲得するもリーグ戦は2位に終わった。
インテル在籍の晩年にはプレイに衰えが見られるようになり、古傷や故障も重なって思うようなプレイが出来ず、また若手FWのアドリアーノの台頭もあり出場機会が減っていった。
2004-05シーズンを最後にインテルとの契約期間満了後は自由契約となった。
2005-06シーズンはACミランへ移籍。
しかしシェフチェンコ、インザーギ、ジラルディーノ擁する強力FW陣とのレギュラー争いに敗れ出場機会が得られず、半年後の2006年1月にはASモナコへ完全移籍することとなった。
しかしシーズン終了後わずか半年でセリエA・サンプドリアへの移籍が決定するも、サッカーに対する情熱(モチベーション)が保てないとして現役引退を仄めかしていた。
この間、イタリアの人気番組「L’isola dei famosi」に出演予定など様々な噂が流れたが、移籍期限ギリギリの8月29日(現地時間)に古巣アタランタへの復帰が決まった。
契約金は約22万円とプロ最低賃金での契約であるが、1ゴールごとにオプション契約として1000万円が支払われることになった。
アタランタではACシエーナ戦でセンターサークル少し前から決めたロングシュートこそあったものの、それを含め7試合での補欠出場、2得点のみに終わった。
2006-07シーズン終了後、1年間の契約期間が切れたアタランタからフィオレンティーナへ移籍。
2007-08シーズン第19節のトリノFC戦で先制点となるPKを決め、自身通算200得点を達成した。
2008年、3度目のアタランタ入団を果たすも、サポーターとのいざこざが絶えず、シーズン終了前に契約解除となった。
2009年、イングランド・プレミアリーグのブラックバーン・ローヴァーズFCの練習に参加していたが途中で帰国した。
2009年10月22日、現役引退を表明した。
代表
1997年3月29日のモルドバ戦で代表デビュー。
ワールドカップには2度出場し、フランスW杯で5試合5得点、日韓W杯で4試合4得点といずれもエースとして活躍したが、チームはフランスW杯ではベスト8、日韓W杯ではベスト16止まりであった。
ドイツW杯では自身3度目のW杯を目指していたが、怪我の影響で選考には残らなかった。
エピソード
プロレスラーのような頑強な肉体と破壊的な左足を持つモンスターストライカーとして、リーガやセリエAを席巻した。
『Record』によれば、その彼がこんな話をしていたそう。
「長年、自分は多くの女性たちと関係を持ってきた。
正直に言おう。捏造はほぼない、ゴシップ誌で書かれたもののほとんどが事実だ。
映画やテレビに出ている多くの女性がすでに“ボンバー(自分のこと)”と関係を持っている」
一晩で3人も…というような発言もしていたとか。
若き日には、エリザベタ・カナリス 、メリッサ・サッタといった数多くのモデルと浮名を流し、「ラテンの恋人」と呼ばれることもあった。
2017年夏からイタリア人モデルのコスタンツァ・カラッチョロと交際、同年には懐妊が報じられたが、ヴィエリは流産したことを明かした。
翌2018年に第一子となる娘・ステッラが誕生。
ヴィエリは寡黙で気難しく記者泣かせの選手といわれていた。
インテル時代、サポーターを挑発、小馬鹿にするパフォーマンスを繰り返したためファンの怒りを買い自身経営の店舗を犯行声明つきの爆破テロで破壊されていた。
尚、その声明文は「ヴィエリよ。我々サポーターを舐めるのもいい加減にせよ」とのものであった。
ユヴェントス時代はジネディーヌ・ジダンと特に親密だった。
ユヴェントスに移籍当初、環境の変化に馴染めずにスランプ気味だったジダンを実家に招待し、母親のフランス家庭料理でもてなした事がきっかけ。
フィリッポ・インザーギとは極めて仲が良く(毎日電話で連絡を取り合うほど)互いに親友であることを公言していたが、一時同じ女性に好意を抱いた時期がありその後しばらくは不仲となった。
自身のファッション・ブランドSweet Yearsを所有し、イタリア代表とミランでチームメートだったパオロ・マルディーニと経営している。
ピッチ外ではチーム関係者、 サポーターと揉めることが多く、 決して愛された選手とは言えませんでした。
練習嫌いとしても有名で、毎シーズンのように故障に悩まされ、 原因は練習不足であるとの見方が多かったようです。
プレースタイル
高さ、強さ、速さ、巧さを兼ね備えたストライカーです。
その恵まれた体格を生かしたパワーや高さは超人的で、相手DFを弾き飛ばし、シャツを掴まれても引き摺るように突進する姿は正に重戦車でした。
重戦車のようなドリブルからゴールを決めることもあれば、 鮮やかなボールコントロールから得意の左足で正確にゴールを決め ることもでき、185㎝ とずば抜けた長身というわけではありませんが空中戦においても無類の強さを発揮し、多くのゴールを奪ってきました。
非常に引き出しの多いプレーヤーと言えます。
非常にパワフルで、ヘディングも強力(ヘディングでの得点はセリエA最多)。
ゴールだけでもなく、 無敵のフィジカルを生かしたポストプレーも圧倒的な強さを誇り、 前線での貢献度は計り知れません。
加えてその見た目にそぐわず豊かなスピードと、高いテクニックも兼備していました。
ラグビー選手のような体型をしていることからパワーだけのプレーヤーと思われがちだが、スピードとテクニックもトップレベル。
パワーに至っては歴代でも最高クラスの評価を与える専門家も多い。
ただ強引なプレーが多いため、怪我もかなり多いです。
強いが脆いタイプ。