概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1976年3月19日(44歳) | ||
出身地 | ローマ | ||
身長 | 187cm | ||
体重 | 82kg |
ポジションはディフェンダー(センターバック)。
利き足は右。
愛称は「サンドロ」。
ラツィオ・プリマヴェーラが輩出した世界最高峰のセンターバック。
現役時代、世界最高峰のセンターバックと称されたイタリア史に名を刻むディフェンダー。
ラツィオとミラノの間での20年のキャリアの中で400を超える試合に出場し、両方のクラブで国内およびヨーロッパでの栄誉を勝ち取りました。
2006年ワールドカップ・ドイツ大会優勝メンバーの一員。
獲得タイトル
クラブラツィオ
ミラン
モントリオール・インパクト
代表イタリア代表 U-21
イタリア代表
|
個人
- Serie A Young Footballer of the Year: 1998
- Serie A Defender of the Year (4): 2000, 2001, 2002, 2003
- Serie A Team of the Year: 2010–11
- UEFA Euro Team of the Tournament: 2000
- UEFA Team of the Year (4): 2002, 2003, 2004, 2007
- ESM Team of the Year: 2000–01
- FIFPro World XI (2): 2005, 2007
- FIFA 100
- UEFA Golden Jubilee Poll: #47
- A.C. Milan Hall of Fame
- All-time UEFA European Under-21 Championship dream team: 2015
- UEFA Ultimate Team of the Year (published 2015)
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1993-2002 | ![]() |
193 | (1) |
2002-2012 | ![]() |
224 | (7) |
2012-2013 | ![]() |
31 | (0) |
2014-2015 | ![]() |
3 | (0) |
通算 | 451 | (8) | |
代表歴 | |||
1995-1996 | ![]() |
9 | (1) |
1996-2006 | ![]() |
78 | (0) |
クラブ
1985年にラツィオのユースアカデミーに加わり、17歳でトップチームデビュー。
その後10代後半から主力として活躍。
20代前半でラツィオのキャプテンを任された。
1998年のコッパ・イタリアではACミランとの決勝戦でゴールを奪い、その年のセリエA最優秀若手選手賞に選ばれた。
1999-2000シーズンのスクデット獲得の際にも中心選手として貢献した。
2002年、ラツィオの財政難が原因で移籍金3000万ユーロでACミランに移籍。
当時ラツィオのシンボルであったネスタの移籍に対してラツィオサポーターが抗議行動が起こった。
しかし移籍する際のネスタのコメントとして「移籍するならばそれはラツィオの実りのためだけにだ」という言葉を残した。
移籍初年度、UEFAチャンピオンズリーグ、コッパ・イタリアを獲得した。
その後も高いパフォーマンスを見せて、多くのタイトル獲得に貢献しているものの、2006-07シーズンに肩を怪我した。
2008-09シーズンにも怪我が再発し、そのシーズンのほとんどを棒に振った。
この怪我で一時は引退を考えたという。
2009-10シーズンはレギュラーとして高水準のプレーをみせ代表復帰も囁かれたものの、結局シーズン途中で負傷したこともあり23試合の出場に終わった。
その後、カナダなどのチームでプレーした後、2015年に現役引退。
代表
イタリア代表としては1996年10月5日に行われた1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のモルドバ代表戦でデビュー。
1998 FIFAワールドカップではグループリーグのオーストリア代表戦にて負傷し、決勝トーナメントは不出場に終わった(イタリアはベスト8敗退)。
2000年にオランダとベルギーで共同開催されたUEFA EURO 2000では全6試合に出場すると、チームの準優勝に貢献し、大会優秀選手に選出された。
2002 FIFAワールドカップではグループリーグのクロアチア代表戦にて負傷し、決勝トーナメントは不出場に終わった(イタリアはベスト16敗退)。
2006 FIFAワールドカップでは、グループリーグのチェコ代表戦にて負傷し、決勝トーナメントでの出場は叶うことはなかった。
ドイツワールドカップにてイタリア代表は24年ぶり4度目のワールドカップ制覇を成し遂げたが、ネスタ自身としては前2大会も含め不本意な大会となった。
2006年10月11日に行われたUEFA EURO 2008予選のグルジア代表戦が最後の代表出場となり、2007年8月1日に代表引退を表明した。
イタリア代表としての通算成績は国際Aマッチ78試合出場0得点。
エピソード
サッカーもさることながら、学業の成績も優秀であり、サッカー選手になるか弁護士になるかを本気で悩んでいた。
少年時代にASローマからスカウトされた(スカウトマンは元イタリア代表DFフランチェスコ・ロッカ)が、父親が同じローマのラツィオの熱狂的なファンであったことから、これを断ったという逸話が残っている。
同じくローマ出身であり、若くしてライバルクラブであるASローマのキャプテンとなったフランチェスコ・トッティとはライバルであり、よき親友、常に比較されていた。
かなりのゲーム好きで、左手親指の付け根付近が腱鞘炎になり手術した際、ウイニングイレブンのやりすぎで悪化したと報じられたが、本人は否定している。
生粋のラツィオファンであるネスタは、1985年に下部組織に加わると、1994年にセリエAデビューを果たし、クラブのバンディエラとして活躍した。
しかし2002年、ラツィオはクラブの株式を上場するという選択に出ていたが、さまざまな施策が裏目に出て極度の財政難に陥り、主力を大量売却する決断に迫られた。
ネスタはクラブの財政難によりミラン移籍を余儀なくされた。
「生涯ラツィオでキャリアを送りたかったか?当時だったら移籍は望まなかっただろう。それでもミランでは偉業を達成することができたからね。ラツィオでの日々は最高だったが、最後のシーズンは非常につらかった。私は主将を務めていたが、クラブの役員会のメンバーでもあり、何も分からないのに財政会議にも出席しなければならなかった」
「チームメートには年俸について聞かれるし、すべてが物凄いストレスになっていた。一定の距離を保つことができる外国人選手のことを羨ましく思っていたよ。それがミラン移籍で解放された。おかげでカルチョのことだけを考えられるようになった」
と語っている。
プレースタイル
イタリアサッカーにおける堅守を象徴する言葉「カテナチオ」。
その言葉を具現するかのような選手が、アレッサンドロ・ネスタです。
対人守備、カバーリング、読み、ボールスキルなど全ての守備技術がワールドクラスで、2000年から2005年までに5度「セリエA最優秀ディフェンダー賞」を受賞するなど、この当時は世界最高センターバックの名を欲しいままにした。
対人守備での圧倒的な強さ、切れ味抜群のスライディング、相手のプレスをあざ笑うようなボールコントロール・・・まさに完璧なセンターバックだ。
穴のないオールラウンドな選手といえる。
背が高く身体能力に恵まれ、1対1や競り合いにも強く、スピードもあり走力やスタミナも非常に高い。
統率力、読みやカバーリング能力なども高いレベルで持っている。
DFに必要とされる能力全てを兼ね備え、現代のディフェンダーの理想系とされている。
当時、世界最高のDFと評される事も多かった。