概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1954年4月1日(66歳) | ||
出身地 | マルシャーノ | ||
身長 | 179cm | ||
体重 | 73kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ、左サイドハーフ)。
利き足は右。
愛称は「フィレンツェの至宝」、「アントニオ」など。
1970年代から1980年代のイタリアを代表するファンタジスタ。
フィオレンティーナの背番号「10」を長年務め、ファンからは「フィレンツェの至宝」と呼ばれた。
獲得タイトル
クラブ
フィオレンティーナ
- Fiorentina: 1974-1975
Coppa di Lega Italo-Inglese: 1
- Fiorentina: 1975
代表
Campionato mondiale: 1
- Spagna 1982
個人
- Inserito nelle “Leggende del calcio” del Golden Foot
- 2010
- Inserito nella Hall of Fame del calcio italiano nella categoria Veterano italiano
- 2018
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1970-1972 | ![]() |
27 | (4) |
1972-1987 | ![]() |
341 | (61) |
1987-1989 | ![]() |
51 | (7) |
代表歴 | |||
1974-1983 | ![]() |
73 | (7) |
クラブ
1954年4月1日ペルージャ近郊のマルチアーノで生まれる。
彼がキャリアをスタートさせたのはトリノ郊外のセリエDチーム、アスティマコビ。
彼はここで16歳の誕生日にデビューを飾ると、優雅なタッチ、若々しいパワー、そしてオールラウンドの才能を遺憾なく発揮し、人々に強烈な印象を与えると、1971年には若手選手を集めるアッズーリトレーニングセンターにも呼ばれその才能と技術をさらに高める。
そんな彼が当時のフィオレンティーナコーチ、リードホルムの目にとまったのは極自然なことであった。
彼の才能に魅せられたリードホルムは他のビッグクラブとの獲得競争に勝ちクラブ史上最高額となる移籍金でフィオレンティーナに連れて来る事に成功する。
68-69シーズンのスクデットより、低迷していたクラブは当時若返りを図っており、弱冠17歳だったアントニョーニはすぐにトップチームに起用される。
その後15年にわたってフィオレンティーナの中盤を指揮すると74-75シーズンには彼にとって唯一のタイトルとなるコッパ・イタリア制覇を果たす。
当時最強を誇ったユベントス等、数々の強豪クラブの勧誘にも首を縦に振らず、そのキャリアのほとんどをフィオレンティーナに捧げ、自身は341試合61得点を記録、そのゴール数はバティストゥータらに続きフィオレンティーナ歴代5位の記録であった。
彼はキャリアの終盤の1987年にスイスのローザンヌからオファーを受ける。
それから彼の引退までローザンヌは多くの新しいファンを得ることとなった。
フィオレンティーナの多くのサポーターがスイスまで彼見たさに足を運んだのである。
彼はスイスで2シーズンプレーし、現役を引退した。
代表
代表デビューは1974年11月20日オランダ戦。
1978年W杯にて5試合に出場し、ゲームメーカーとしてチームをリード。
ベスト4進出に貢献する。
1982年大会W杯は、前年の11月にリーグ戦で負った頭蓋骨骨折から奇跡的な復活を遂げての出場。
82年スペイン大会ではイタリアはパオロ・ロッシの代表招集問題もあり、まとまりを欠いて1次リーグは3引き分けと調子が出ていなかったが、アントニョーニ自体は好調で、2次リーグの決勝トーナメント進出を賭けたブラジル戦では、ボールをキープする時間はブラジルが多かったが、試合をコントロールしていたのは、アントニョーニであった。
そこから効果的なパスが通り3-2でイタリアが競り勝った。
ゲームメーカーとして攻撃陣をリードした。
準決勝のポーランド戦で足首を負傷したため決勝戦に出場することはできなかったが、イタリア代表の優勝に貢献した。
エピソード
現役引退後、彼はチャリティーマッチに出場するためにフィレンツェの町に戻りそこで大勢のファンに向かってスピーチを行っている。
「私がもしローマやユーベに行っていたなら、恐らく3つか4つのタイトル、そしてチャンピオンズカップでさえ手に入れることが出来たのかも知れない。しかし、私を愛してくれる4万人ものファンと別れる事は私には出来なかった。私にとって皆さんの愛が最も大切なものであり、これが私が15年間、フィレンツェの町を離れることを決して考え無かった理由なのです」。
フィレンツェとフィオレンティーナを愛した男のスピーチを聞いた観衆の割れんばかりの拍手と歓声は、その後5分以上も鳴り止む事は無かった……。
フィレンツェの人々の心の中に今尚記憶される彼は、数々のタイトルとは無縁であってもそれ以上の財産を手中にしていたのは言うまでもないだろう。
プレースタイル
優雅なプレーで観客を魅了して、トリッキーなパスと的確なフィードを得意としたゲームメイカーで当時のフィオレンティーナ、イタリア代表には欠かせなかった。
ゲームメイクからラストパスまで流麗でありながら、勝負の機を逃さない。
創造性溢れるプレーで当時におけるカルチョのルネサンスを体現したファンタジスタ。