概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1963年12月22日(56歳) | ||
出身地 | ミラノ | ||
身長 | 183cm | ||
体重 | 78kg |
ポジションはディフェンダー(右サイドバック、リベロ)。
利き足は右。
愛称は「ジオ(おじさん)」、「ミスター・インテル」。
特徴的なヒゲ面がトレードマークで、インテル一筋でプレーした偉大なるキャプテン。
758試合出場というのは、インテルの最長出場記録で、リーグ戦の519試合出場というのも単
一クラブでの最長出場記録である。
2004年にペレが選んだ『偉大なサッカー選手100人』に選出された。
獲得タイトル
クラブ
インテル・ミラノ
- Serie A: 1988–89
- Coppa Italia: 1981–82
- Supercoppa Italiana: 1989
- UEFA Cup: 1990–91, 1993–94, 1997–98; Runner-up 1996–97
代表
イタリア代表
- FIFA World Cup: 1982; Third place 1990
個人
- UEFA European Championship Team of the Tournament: 1988
- Pirata d’Oro (Internazionale Player of the Year): 1990
- Premio Nazionale Carriera Esemplare “Gaetano Scirea”: 1997
- FIFA 100: 2004
- Italian Football Hall of Fame: 2016
- Inter Milan Hall of Fame: 2020
経歴
クラブ | |||
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年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1979-1999 | ![]() |
519 | (23) |
代表歴 | |||
1984-1986 | ![]() |
3 | (0) |
1982-1998 | ![]() |
81 | (6) |
クラブ
イタリア・ミラノに生まれ、13歳でインテルの下部組織に入団する。
日本円にして20万円ほどの契約金を支払われ、2軍戦に出場できるようになったらその3割増のギャラを得るという当時の最低限の条件だったが、少年はめきめきと頭角を現わし、その3年後にはトップチームの一員となってセリエAデビューを果たす。
プロデビューは1979年コッパ・イタリア準々決勝第2戦ユベントスFC戦、セリエAデビューは1981年2月22日セリエA第18節コモ戦、セリエA初ゴールは1982年1月10日ボローニャFC戦。
キャリア3年目の1981-82シーズンにはリーグ24試合に出場。
DFでありながら2得点を記録するなど、試合ごとに能力の幅を広げていき、コッパ・イタリアというタイトル獲得を早くも経験した。
十代にして名門インテルの最終ラインで不可欠な存在となったベルゴミ。
ただ、口髭をたくわえたその風貌は、年齢よりもはるかに上に見え、「ジオ(おじさん)」という愛称がつけられたほどだった。
見た目も早熟(?)なら、そのプレーもトップレベルにあった。
DFとして、右サイド、中央のポジションをこなし、その執拗なマークとボール奪取能力に加え、高い戦術能力を備えた彼は、さらに試合を重ねるごとに攻撃参加でもチームに貢献し、起点となる他、時に貴重なゴールも挙げた。
ワールドカップ優勝という大偉業を成し遂げた英雄のひとりとして早くも歴史に名を残したベルゴミは、インテルでも不動のレギュラーとして年々出場数を増やしていったが、こちらは上位にはつけるものの、念願のリーグタイトルにはなかなか手を届かせることができずにいた。
しかし88-89シーズンに、ようやく最大の目標は達成される。
ワルテル・ゼンガ(GK)、ジュゼッペ・バレージ(CB)、リッカルド・フェッリ(CB)、アンドレアス・ブレーメ(左SB)とともに堅固な守備ラインを形成し、失点をリーグ最少の19に止めると、ローター・マテウス、アルド・セレーナ、ラモン・ディアスらで形成された攻撃陣は圧倒的な得点力を発揮。
リーグ最少の19失点。
インテルは当時の史上最高勝点を挙げ、9年ぶりにスクデットを手にしたのだ。
1990年自国開催ワールドカップ、キャプテンとして2度目の世界制覇はならなかったが、インテルでは92年にG・バレージの後を継いでチームキャプテンに就任した。
キャリアの晩年は限界説がささやかれたが、リベロとして蘇生し、イタリア代表にも復帰。
93-94シーズンにUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)制覇にチームを導く。
90-91シーズンに続いての戴冠だったが、ベルゴミは97-98シーズンにもこれを制した。
インテルがコンスタントに上位をマークしたことで、UEFAカップへの出場機会は多く、彼の96試合出場という記録は歴代最多である。
この97-98シーズンは、彼にとって思い出深い1年となった。
悪い方の出来事は、9年ぶりのリーグ制覇に迫りながらも、ユベントスの後塵を拝したこと。
しかも、直接対決での審判の微妙な判定でPKを与えて敗れるという、後味の悪い結末によるものだった。
一方、良かったのは、まず前述のUEFAカップ制覇。
彼自身は負傷のためにラツィオとの同国対決となった決勝はスタンドからの観戦となったものの、3-0の完勝の後、表彰式では仲間たちから最初にトロフィーを掲げるよう促された。
誰もが、ベルゴミこそが最大の功労者だと認めていたのだ。
そしてもうひとつは、このシーズンでの活躍により、オフに控えていたフランスW杯の最終メンバーに選出されたこと。
退場処分を食らったEURO92の予選ノルウェー戦以来となる、驚きの招集だった。
1998年、シーズンでリーグ戦23試合に出場した後、1999年5月23日セリエA最終節のボローニャFC戦で先発出場したのを最後に現役を退いた。
インテルでは、当時の歴代最多となる519試合出場を記録した(得点は23)。
ユースからそのキャリアのすべてをインテルで過ごし、「Mr.インテル」と称された。
単一クラブでのリーグ戦の出場試合数519は、セリエA歴代3位の記録である。
ただ最後はリッピ監督に戦力外通告を受け、背番号2の永久欠番の約束も中止されるなど酷い仕打ちを受けた。
代表
FIFAワールドカップには4回出場。
当時の「アッズーリ」といえば、GKディノ・ゾフ、リベロのガエターノ・シレア、SBのクラウディオ・ジェンティーレ、アントニオ・カブリーニのユベントス勢とミランのCBフルビオ・コロバティが強力な守備陣を構成しており、当然ながら飛び込みで最終メンバー入りしたベルゴミは、ベンチで大会開幕を迎えた。
彼に出番が訪れたのは、2次リーグの大一番、優勝候補の筆頭であるブラジルとの一戦。
しかも、コロバティの負傷によって前半34分、突然、18歳の少年はピッチに送り出された。
しかしベルゴミは冷静にプレーし、相手の猛攻にもしっかり対処。
3-2の歴史的勝利に大きな貢献を果たす。
すると準決勝のポーランド戦では、出場停止の“エースキラー”ジェンティーレの代役として敵の最大の得点源であるグジェゴシュ・ラトーを徹底マークして仕事をさせず。
さらに決勝では、西ドイツのエースであるカール=ハインツ・ルンメニゲをやはり無力化し、優勝の瞬間をピッチ上で迎えたのだった。
ちなみに決勝の69分、いまだ語り草となっているマルコ・タルデッリのゴール(決勝点)の場面で、カウンターからベルゴミも西ドイツ陣内深くに上がり、DF陣を揺さぶるゴール前でのパス回しに加わっていた。
彼の貢献は、決して守備だけのものだったわけではない。
そしてイタリア優勝の立役者となった。
22歳上の主将ゾフから「決勝の彼はパーフェクトだった。18歳とは思えない。その老練なプレーは、その倍の36歳のものだ」と絶賛されたベルゴミは、一躍世界にその名を知らしめるとともに、アッズーリの堅守の歴史を担う存在となった。
愛するインテルでもビッグタイトルを手にしたベルゴミ。
そして翌年には、再び代表の舞台で大きな名誉を手にするチャンスが訪れた。
1990年自国開催のW杯だ。
さかのぼること4年前、ディフェンディングチャンピオンとして臨んだメキシコ大会でも、彼はレギュラーとして3試合に出場したが、チームは決勝トーナメント1回戦でフランスの前に屈している。
そして、ベルゴミにとって初めて(そして最後)のEUROとなった88年西ドイツ大会では、キャプテンとしてチームをリード。
若い力を取り入れたアッズーリは好内容のサッカーを披露、準決勝でソ連に敗れたものの、2年後のW杯に大きな希望を抱かせた。
そして本番。
イタリアは順調に勝ち進んで準決勝まで駒を進めたが、そこまでの6試合でなんと無失点!
ゼンガ、フェッリ、フランコ・バレージ(リベロ)、パオロ・マルディーニ(左SB)、そしてベルゴミのバックラインは、この大会最高の堅守を誇った。
残念ながら準決勝アルゼンチン戦では“シンデレラボーイ”サルバトーレ・スキラッチのゴールで先制するも、ディエゴ・マラドーナ擁する相手攻撃陣の前に初失点を喫し、PK戦の末に決勝進出はならず。
3位で大会を終えることとなった。
その後アリゴ・サッキ時代には1992年のヨーロッパ選手権予選、ノルウェー戦で退場処分になって以降イタリア代表から遠ざかったが、インテルにおいてリベロのポジションで安定した良いプレーを見せていたため、1998年のフランス大会で34歳にして代表に復帰。
82年大会同様、彼の位置付けはサブだったが、グループリーグ3戦目のオーストリア戦、アレッサンドロ・ネスタの開始4分での負傷を受けて緊急出場。
この試合を1失点(2-1の勝利)に抑えると、決勝トーナメントでも1回戦でノルウェーを完封(1-0)、準々決勝のフランス戦でも開催国にゴールを許さなかった。
ここでも90年大会同様にPK戦で涙を飲んだものの、ネスタの穴を完璧に埋め、リーダーシップを発揮してチームを鼓舞しながらリードしたベルゴミは、34歳にして評価を大きく高めることとなった。
彼はこのW杯をもってアッズーリでのキャリアに幕を閉じたが、その後のシーズンでリーグ戦23試合に出場した後、インテルのユニホームも脱いだ。
代表での通算成績は81試合出場・6得点。
エピソード
わずか17歳でトップチームに抜擢されたが、その老けた顔から当時の主力選手のマリーニに、「誰だい、お前は?まだ17歳だって!俺のおじいさんみたいだよ」と言われたことからジオと言うあだ名がついた。
引退後はインテル他、複数クラブの下部組織などを指導し、同時にコメンテーターとしても活躍。
現役時代同様の歯に衣着せぬ物言いと洞察力の高さは、カルチョの国でも人気を博しており、「ジオ」はユニホームを脱いでも存在感を示し続けている。
プレースタイル
ハードなマークが売りの守備的サイドバック。
とにかく「読み」が的確で、若くして既に老獪というプレースタイルでした。
ベルゴミといえば、マンマーク。
マンマークのスペシャリストで、そのマンマークは世界最高クラス。
ハードなマークと鋭いボール奪取で世界中の攻撃プレーヤーを無力化し、時に攻撃の起点ともなったDF。
リーダーシップもありクラブでも代表でもキャプテンを務めた。
キャリア晩年はリベロとして新境地を開拓。
的確な守備や読み、カバーリング能力の高さを証明した。