概略
国籍 | ![]() ![]() |
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生年月日 | 1977年10月15日(42歳) | ||
出身地 | ルーアン | ||
身長 | 190cm | ||
体重 | 80kg |
ポジションはフォワード(センターフォワード)。
利き足は右。
愛称は「トレゼゴール」、「ゼゲット」。
2000年代フランスを代表するストライカー。
ユヴェントスなどで活躍し、フランス代表では1998年ワールドカップ・フランス大会優勝メンバーの一人。
獲得タイトル
クラブ
AS モナコ
- Division 1: 1996–97, 1999–2000
- Trophée des Champions: 1997
ユヴェントス
- Serie A: 2001–02, 2002–03
- Supercoppa Italiana: 2003
- Serie B: 2006–07
リーベル・プレート
- Primera B Nacional: 2011–12
代表
フランス代表
- FIFA World Cup: 1998
- UEFA European Championship: 2000
個人
- FIFA World Youth Championship Silver Shoe: 1997
- UNFP Division 1 Young Player of the Year: 1997–98
- UEFA Team of the Year: 2001
- Serie A Footballer of the Year: 2001–02
- Serie A Foreign Footballer of the Year: 2001–02
- Serie A Top Goalscorer: 2001–02
- FIFA 100
- Golden Foot: 2015 (Under the category of “Football Legend”)
- Juventus Greatest XI of All Time: 2017
経歴
クラブ
17歳でアルゼンチンプロサッカーリーグのCAプラテンセにてプロデビュー。
出場機会は少なかったが、ASモナコのスカウトの目に留まり、自らの出生地であるフランスの地を再び踏むこととなった。
モナコでは移籍当初は苦労したものの、徐々に頭角を表し、1999-2000シーズンに22得点を挙げてリーグ優勝に貢献。
ビッグクラブから注目される存在になっていった。
2000年、イタリアのユヴェントスFCへ移籍。
移籍金は2800万ユーロ。
1年目に14得点を挙げ、翌年には24得点で得点王に輝いた。
このタイトルは全て流れの中から決めた(PKなしの)得点であることから、大いに賞賛を浴びた。
以降、怪我が多くフルシーズン出場する機会は多くないものの、出場すれば抜群の決定力を見せている。
2005-06シーズンにはルカ・トーニの31得点に次ぐ23得点を挙げ、スクデットに貢献した(その後カルチョ・スキャンダルにより取消)。
2006年、ユヴェントスのセリエB降格に当たり移籍は確実かと思われていたが、後にブッフォンやネドベドらと共に残留を発表した。
セリエAに復帰した2007-08シーズンは開幕戦でのハットトリックなど、序盤から絶好調でチームを牽引、中盤以降調子を落としたが結局20得点を記録。
また、第4節のローマ戦でセリエA通算100得点を達成した。
2010年8月にユヴェントスとの契約を解除し、スペインのエルクレスCFへ2年契約で移籍した。
2桁得点をあげたが、2部に降格したことで契約は1年で解除された。
2011年8月、UAEリーグのバニーヤースSCへ移籍したが、11月に契約解除。
12月にアルゼンチン・プリメーラB・ナシオナルのCAリーベル・プレートに移籍。
2014年7月にインドのFCプネー・シティに移籍した。
2015年1月20日、現役を引退することを発表した。
代表
代表デビューは20歳、1998年1月28日に行われたスペイン戦。
同年に行われたフランスW杯のメンバー入りも果たし、見事優勝を飾る。
2年後のEURO2000では控えの立場だったが、イタリアとの決勝戦の延長でゴールデンゴールを決め優勝に導いた。
この活躍が認められ、大会後にユヴェントスと契約を結んでいる。
このゴールデンゴールを決めたことで移籍当初はイタリア国内では民衆に目の敵にされたことがあるという。
しかしその後の代表歴は思わしいものではない。
セリエA得点王として臨んだ日韓W杯ではセネガル戦ではシュートがバー直撃、そしてEURO2004にはクロアチア戦において疑惑のゴールを決めたものの、ブレイクすることはなかった。
自身3度目となるドイツW杯では、1トップを布くドメネク監督の戦術方針からベンチに座る機会も多く、決勝のPK戦ではPKを失敗する等、失意のうちに大会は終了した。
代表ゴール数34は歴代3位(2008年7月現在)だが、W杯後は招集すらされないことが多く、EURO2008のメンバーからも落選した。
2008年7月9日、ドメネク監督の続投を受けて代表引退を発表している。
エピソード
出生地はフランスだが両親は共にアルゼンチン人で、2歳の時にアルゼンチンに移住。
フランスとアルゼンチンの国籍を所有している。
トレゼゲはユヴェントスで2トップを組むアレッサンドロ・デル・ピエロと絶妙なコンビネーションを見せる一方、フランス代表で2トップを組む場合、ティエリ・アンリとのコンビネーションは何故か悪い。
トレゼゲは敵陣に空いたスペースに飛び込んで攻撃を仕掛けるプレーを得意とするが、ティエリ・アンリとの2トップとなるとそのスペースを相殺してしまうために同時に用いられることが極端に少ない。
なお、アンリとはASモナコ所属時代にチームメイトであったが、当時のアンリはウイングを務めていたため、この時は問題なくプレーしていた。
もう一人のトレゼゲがいることはご存知だろうか。
アル・アハリからベルギーの名門アンデルレヒトに貸し出されたマフムード・ハッサン“トレゼゲ”。
エジプト最高の若手アタッカーとして期待される彼は、顔が似ていることから『トレゼゲ』というニックネームが付けられ、プレーでも結果を出してきた。
ユヴェントスのフットボールキャンプに参加するためにベルギーを訪れていたダビド・トレゼゲは、『RTBF』のインタビューに応え、自分の名前を継いだ選手について以下のように話した。
「(アンデルレヒトにはあなたと似ていることで知られる“トレゼゲ”がいますが)
髪の毛が違うね! あとはポジションも違う。
ただ、自分の父親には尋ねなければならないようだ。エジプトを訪れたことがあるかどうかをね」
プレースタイル
ゴール前で抜群の嗅覚を発揮する点取り屋。
左右両足を使え、空中戦にも強い万能タイプ。
世界屈指のセンターフォワードで特に浮き球の処理がうまく、浮き球を蹴らせたら彼の右に出る者はそういない。
また世界屈指といわれる滞空時間の長いジャンプ力いかした打点の高いヘディングとフィジカルの強さで前線で起点になりゴールを量産する。
ボディバランスやボールコントロールも良く、キープ力、決定力といったFWに必要な要素を高いレベルで兼ね備えている選手である。
シュートの威力とその精度は抜群。また思い切りが良くダイレクトでのプレーを得意とし、豪快に決める姿は爽快である。
数々の大舞台で決勝ゴールなどを決めてきた。
ペナルティエリア内でのプレーを最も得意としておりエリア内は無類の強さを誇る。