概略
国籍 | ![]() |
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生年月日 | 1968年3月9日(52歳) | ||
出身地 | リヨン | ||
身長 | 179cm | ||
体重 | 72kg |
ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。
利き足は右。
愛称は「スネーク(蛇)」。
90年代フランス代表でジダンに次ぐフランスのスーパースター。
98年ワールドカップ優勝メンバーの一人でジダンと共にダブル司令塔として活躍した名選手。
獲得タイトル
クラブ
モナコ
- クーペ・ドゥ・フランス:1990–91
パリ・サンジェルマン
- トロフェ・デ・シャンピオン:1995
- UEFAカップウィナーズカップ:1995–96
インテル・ミラノ
- UEFAカップ:1997–98
ボルトン・ワンダラーズ
- サッカーリーグカップ準優勝:2003–04
代表
フランス代表
- FIFAワールドカップ:1998
- UEFA欧州選手権:2000
- FIFAコンフェデレーションズカップ:2001
個人
- リーグ・アン得点王:1993–94
- UEFA欧州選手権:1996
- ピラータドーロ(インテルオブザイヤー):1997
- FIFA XI:1997
- レジオンドヌールのシュヴァリエ:1998
経歴
クラブ
カルムイク系の父とアルメニア系の母の間に生まれる。
84/85シーズンにプロとしてデビューをするが、その後しばらく2部リーグでの生活が続く。
しかし、2部で着実に結果を残し、90/91シーズンの途中に1部リーグのASモナコに移籍。
そこで、ベンゲル監督と出会い偉大なプレイヤーとして成長していく。
1シーズン目から、ウェアやディアスらと共に攻撃陣をリード、見事国内カップで優勝を果たす。
翌91/92~94/95までの4シーズンではタイトルには恵まれなかったが、全てのシーズンで二桁得点を挙げ、93/94シーズンには見事得点王に輝いている。
95/96シーズンには名門パリSGに移籍し司令塔として活躍。
リーグ優勝は逃すも、カップウイナーズ・カップで優勝。
自身初のヨーロッパタイトルを獲得する。
そして、翌96/97シーズンにはイタリアのインテルに移籍。
ボスマン判決後のそのシーズン、インテルはサモラーノ、カヌ、スフォルツァ、ビンター、シメオネ、アングロマ等の有名選手を一気に獲得する。
しかし、ほとんどの選手が期待は外れと終わる中、1人気を吐き14ゴールを挙げる活躍を見せた。
97/98シーズンには、新しく加入してきた怪物ロナウドのパートナーを見事に務める。
自身のゴールは8であったが、ロナウドのゴールを数多く引き出した。
リーグでは、ユベントスとの優勝争いの末2位に終わるが、CL出場権を得る。
そして、UEFAカップでは見事優勝を飾る。
しかし翌98/99シーズンには、インテル得意の無計画な補強がたたり、チームは低迷することになる。
ジョルカエフは孤軍奮闘をするが、結局優勝争いに絡む事すらできなかった。
シーズン終了後、インテルを退団。
99/00シーズンにはドイツの古豪カイザースラウテルンに活躍の場を移す。
いきなり11ゴールを挙げて上位進出に貢献するが、その後は監督との確執もあり低迷する。
01/02シーズンの途中には心機一転、イングランドのボルトンに移籍し、かつての輝きを取り戻す。
常に降格の危機にあるチームで素晴らしいパフォーマンスを披露し、チームの残留の原動力となった。
04/05シーズンにはブラックバーンに移籍するが、監督に戦力として扱われず、シーズン途中でイングランドを後にし、アメリカに渡ってしまった。
37歳で挑んだアメリカでも活躍を見せるが、06シーズン終了をもって現役を引退した。
代表
フランス代表ではU-21代表を経て、1993年10月13日イスラエル戦でデビュー、1994年2月16日イタリア代表との親善試合で代表初ゴールを決めた。
96年の欧州選手権では1人で攻撃陣を牽引し、準決勝進出を果たした。
98年の地元開催のW杯では、中心メンバーとして活躍、ジダンとのダブル司令塔で見事優勝。
00年の欧州選手権ではレギュラーではなかったものの、スーパーサブとして貴重なゴールを連発し、チームの優勝に大きく貢献した。
しかし最後の大舞台となった02年のW杯で負傷のジダンの代役としてプレーするが、まさかのグループリーグ敗退となっている。
エピソード
1996年のユーロでは、当時のフランス代表監督エメ・ジャッケ氏の先見性から世界的にはまだ無名だったジダンがチームの核として起用されつつある状態にありました。
しかしながら周囲ではまだジダンの評価が定まっておらず、なかにはジダンを起用すること自体に懐疑的な意見を持つ人すら少なくありませんでした。
その一方でジョルカエフは“ジダンのライバル”と目されていた選手です。
その評価は決して低いものではなく、逆にジダンに対して懐疑的な見方をしていた人からは「…ジダンを使うのではなくジョルカエフを中心選手として起用すべきだ」との意見もかなり多くありました。
2人とも攻撃系の選手で、しかもテクニシャンという点で似たタイプでもあったので“チームの戦術上、どちらか1人だけを起用するべき(もう1人はベンチへ…)”という意見も根強くあったのです。
監督さえ違えばその後のフランス代表チームはもしかしたら“ジダンのチーム”ではなく“ジョルカエフのチーム”という可能性は大いにありました。
ただジダンもジョルカエフも自らの良さは勿論互いの良さもよくよく理解していたので、マスコミから「2人の共存は可能なのか?」と執拗に何度も質問されようとも「大丈夫。僕らは共存できる」と答えていたみたいです。
それ故に実際、しばらくの間は2人のテクニシャンが両立する時代が続きました。
ただ1998年のフランスワールドカップ自国優勝以降は、周知の通りアンリ・トレゼゲ・ヴィルトール・マルレ・ピレスなどキラ星のように様々なタイプのアタッカーたちが活躍し始めたので、次第に“ベテラン”と化したジョルカエフはナショナル・チームを離れていくようになりました。
父親のジャン・ジョルカエフも元サッカー選手で、フランス代表として1966年のFIFAワールドカップ・イングランド大会に出場、後に監督となりアルメニア代表監督を務めた。
2014年ブラジルW杯、フランスTV局TF1専属コメンテーター。
2019年9月にFIFA財団のCEOに任命される。
また彼は、ザ・ディストリクト・オブ・コロンビア大学にて学士(経営学)を取得し、2019年11月には、UEFA MIP(UEFAが設置するリモージュ大学の修士課程プログラム)を修了したことが公表されている。
プレースタイル
ゲームメーカーとしても、得点源としても期待できるフランスで一時代を築いたプレイヤー。
テクニシャンでありがなら、運動量も多く守備もできる近代型のゲームメーカーである。
パス・ドリブルは上手くテクニック豊富で、なにより状況状況に応じてのプレーの判断が正確だった。
フランスワールドカップでは純粋なフォワードが不在の中、セカンドトップとして獅子奮迅の活躍を見せ、見事フランスを優勝に導いたジダンに次ぐフランスのスーパースター。
足元のテクニックはもちろんだが並みのフォワードよりもはるかにシュートが上手くボレーシュートは彼の十八番である。
中盤で ゲームを組み立てつつ独特のリズムを刻むドリブルで相手ディフェンスをかきまわしディフェンスの綻びを見つけ絶妙のスルーパスを通す。
或いは、2列目からの鋭い飛び出しでゴールを陥れる。
MFながら、並みのFWを凌駕する得点数を挙げる程の得点力の高さは「ナイン・アンド・ハーフ(9.5番)」と表現される。